15.0 どうでもいいことなのです。生きていようが、死んでいようが。
—小石井君、ミントの味は苦手かな?
—いや、大丈夫。
僕は、浮瀬から手渡された、錠剤の見た目をした何かを受け取った。
僕は手の中にある、二粒のタブレットを見つめていた。
—それを口にした瞬間、君の望みが叶うわけでは無いんだ。
—いつ?
—それを飲み込み、眠った瞬間。だからそれまでに、君の大切な人に、別れを告げるといい。
—わかった。ありがとう。
僕は、なぜ浮瀬が、こんなものを持っているのかも、それを僕にくれるのかも聞かなかった。
—どういたしまして。
そして僕は、手の中にあるものを口に運び、飲み込んだ。
—それじゃあ。
と、僕は彼に背を向け、屋上から校舎に続く階段に向かい歩き出す。
—さようなら。
僕は高校を後にし、自転車を漕いでいた。市立病院に併設された図書館、市立羽津図書館に向かっている。
九重に別れの挨拶を言わなければいけない。
浮瀬は別れ際、一言も口にしなかった。彼はこのようなやり取りを、何度も経験しているのだろうか。
県の北部を流れる海蔵川に架かる橋を渡ると、図書館に到着した。
図書館の外に作られている公園の、ベンチの傍で、九重は本を読んでいた。彼女は僕に気が付くと、「小石井くん」と、本を閉じる。
「遅くなってごめん。何を読んでいるの?」
と、彼女が手にしている本を見る。
「アイザック・アシモフの『アイ,ロボット』です。
と、彼女は表紙を見せてくれた。
「ロボット三原則の、アシモフ先生か。」と、僕は傍のベンチに腰を下ろした。
「それで、僕に何か用があったのかな?」
と、九重に尋ねる。
「創部について?」
「いえ、それもありますが。」
と、彼女は一度、言葉を切った。
「RW理論についてです。」
彼女は、僕がRW理論について、ゴールデンウィークに尋ねたことを覚えていたらしい。
「人間の意識は、睡眠という活動中に一度リセットされる。という理論ですね。私達の自我は、不連続に、つながっている。確かに、これは私たちにとって、由々しい事実です。」
しかし、と、彼女は続ける。
「こんなにも"自分"という根本にかかわる問題に、どうして世の中の人は無関心でいられるのでしょうか。」
それは僕も疑問に感じていた。疑問に感じ、そして少し、気味が悪かった。
「高度に発達した科学は、魔法と区別がつかない。と言いますが、きっと、私たちの意識のような、"高度な魔法のような神秘"は、コンピュータやスマートフォンなどの、高度な科学と、区別がつかなくなっているのではないでしょうか。」
「それはつまり…。」
言っている意味が、よくわからなかった。
「いえ、簡単なことですよ、」
今度は九重は、一息で話した。
「みんな、どうでもいいと思っているんです。」
どうでもいい、ことなのだろうか。
「はい、どうでもいいことなのです。生きていようが、死んでいようが。
私達の意識は、寝ても覚めても、確かにそこにあります。ルネ・デカルトの『我思う、ゆえに我あり。』では無いですが、『確かにそこにある』ということが大切なのだと思います。それは想像でも、理論でも、二進数のデータでもなく、昨日も、今日も、明日も、『現実に』あるということです。」
ゴールデンウィークの前日、菰宮先輩は自身の胸に手を当て、言っていた。
『これはね、"確かにそこにある"っていうことが大切なの。それは想像でも、理論でも、二進数のデータでもなく、昨日も、今日も、明日も、"現実に"あるということよ。そして私は、そのあるべきものが"無い"。』
僕たちが座っている、といっても実際に座っているのは僕だけだが、そのベンチの前を、手をつないだ親子が通り過ぎる。
九重は彼らの様子を、微笑ましく眺めていた。
「小石井くん、私達人間が、一番最後に手に入れた臓器が何か、知っていますか?」
またもや、言っている意味が、よくわからなかった。
「”いいえ”ですか?知らないですか?」
ふふっ。と、彼女は楽しそうだ。その理由が、僕にはわからない。
「”肺”ですよ。」
と、九重は自分の胸に手を当てた。
「海の中で暮らしていた私達の祖先は、陸上で生きるために、肺という臓器を手に入れました。」
僕はまだ、九重が何の話をしているのか、掴みかねていた。
「だから私達にとって、肺を使った『呼吸』という生命活動は、この上なく、大切な意味があるそうです。」
息をする。ということが、生きることだと、そんなチープな言葉を思いだした。
「息をする。ということが、生きることだと、そんなチープな言葉は嫌いです。けれど、それは狭い意味では正しいのかもしれません。」
彼女は続ける。
「最後に手に入れたということは、身体の中では、最先端の機能を持っているということです。」
「呼吸という活動は、"意識的"にも、"無意識的"にも、行われます。ですので、呼吸は身体という"無意識"と、"精神"という意識を結ぶ役割があると言われます。」
「けれどもむしろ、RW理論に対して言うのであれば、」
「私達は、息をすることで、意識と、身体が、そしてそれに伴う記憶が、結ばれています。そして、眠っているときも、呼吸が途切れることはありません。」
「だから私達は、一度も死んではいないのですよ。」
と、九重は結論した。
その結論は、『呼吸をしていれば生きている。』という、至極当然のことだった。
「そうですね、そんな当然なことでは、いまさら納得できませんか?」
と、彼女はやはり楽しそうだった。
「いや、ありがとう。」
と、彼女に返す。
九重は、先ほど親子が通って行った方を見た。
「"人間"が死んでも、"人類"は生き続けてきました。その事実に、不安を覚える人はいたかもしれませんが、"人類"にとっては、些細な出来事ですよね。」
と、九重は、ふと空を見上げ、「今日は六時四十分から、雨が降るそうなので、小石井君もそろそろ帰らないと。」と、僕の帰路を心配してくれる。
けれども。
「九重さん、創部の話なんだけど」
僕はもう、協力できそうにない。
と、言い掛けると、
「はい、それは明日しましょう。」
と、九重はこちらに微笑んだ。沈む陽が、彼女を照らした。僕の足元には、影が落ちる。
「いや…」
僕にその明日は、無いかもしれないのだけれど。
僕は、ぎこちなく笑う。
これでは九重の方が、自然な笑みだ。
では、気をつけて帰ってくださいね。と、彼女は病院の方へ車椅子を動かし始めた。
「うん。」
僕はそれしか言えなかった。けれど、これだけは言わないといけない。
「さようなら。」
「はい。また明日。」




