13.0 渋谷事変って、結局何なんだよ。
朝のホームルームで伊勢先生から説明されたことは、学校側も、現在の状況を把握できていないということ。帰りのホームルームまでに、学校側での対応を決めるということだけだった。
そして、生徒はネット上での情報発信を控え、放課後もマスコミを避けて下校するようにと告げられた。
「テレビなどでは伏せられていますが、あなた達もネットやSNSを見て、知っていると思います。
私は今でも、彼女はこの高校の生徒だと思っていますが、先日までこの高校に在籍し、生徒会副会長を務めていた菰宮牡丹さんに、渋谷事変の容疑がかけられています。
なぜこのようなことになったのか、私たちも全く見当がついていません。
今はただ、これが何かの間違いであってほしいと願うだけです。」
午前の授業が終わり、猿渡の机で、彼と僕、浮瀬の三人で昼食を食べる。
「ダメだ。ネットのどのニュースでも、ボタンちゃんは犯人じゃなかったとは載っていない。」
猿渡は、午前の授業中もずっと、スマートフォンでネット記事を確認していたらしい。
「どうして菰宮先輩が疑われているんだろう。渋谷事変は、東京での出来事なのに。」
と、僕はお弁当を広げながら返す。
「つーか。」と、購買で買ってきた焼きそばパンを頬張りながら、猿渡は言う。
「渋谷事変って、結局何なんだよ。どの記事を読んでも、スクランブル交差点で、数千人が同時にパニック障害と記憶障害を引き起こしたことしかわからねえし。」
パニック障害と記憶障害。僕たち地方の一般市民の高校生が、知っている事いえばこの程度だ。
そして、その現場に、「W」の文字が残されていた。
この程度で、「事変」と呼ばれている。
「浮瀬、お前、東京から引っ越してきたんだよな?」
俺たちが知らない情報を知っているんじゃないか?
と、猿渡は浮瀬のほうを見る。
浮瀬は少し困った顔をすると、左手の一刺し指を立て、すっと自分の唇に当てる。自然と、僕たちは耳を澄ませた。
そして僕たち二人の方を見て、ゆっくりと口を開いた。
小さく、けれども、はっきりとした声だった。
「実は僕、渋谷事変が起こったとき、その現場を見ていたんだ。」
それを聞いたとき、猿渡は身を乗り出し、僕は目を見開いた。
彼は、渋谷事変を見ていた。と言った。
しかし、僕たちが何かを口にする前に、浮瀬は素早くもう一度、彼の人差し指を唇に当てる。
猿渡は乗り出していた身をもとに戻し、「そこにボタンちゃんはいたのか?」と聞く。
浮瀬は少し困ったように笑い、「いや、菰宮さんとは会ったことがないからね。わからないよ。」
と、猿渡に返す。
確かに彼は、菰宮先輩の退学と同時に、この高校に転校してきている。
「それに、」
と、浮瀬は続ける。
「渋谷のスクランブル交差点は、一度に何千人もの人が交差するから、そこに僕の知っている人がいたとしても、気が付くかわからない。」
猿渡はそれを聞き、「そうか。」と、頷く。明らかに、残念がっていた。
「それで、浮瀬は実際に事件を見たんだろう?どんなだった?」
と、僕は話の続きを促した。
「ああ。」
浮瀬は続ける。
「一年前、渋谷のスクランブル交差点で、赤信号で堰き止められていた数千人の歩行者の流れが、青信号に変わったとたん、一斉に交差点を横断し始めた。
ちょうど、最初に交差点に足を踏み出した人達が、交差点を渡り切ろうとしたとき、交差点内にいた何人かの人達は、急に足を止めた。けれど、彼らはすぐに交差点を渡り切った。」
ここまでは、本当に、事件とも言えもしない、日常。
浮瀬はペットボトルのお茶を口に含むと、話を続ける。
「歩行者用の信号が点滅し、交差点内の歩行者が少なくなった時、交差点の真ん中付近のコンクリートが少しえぐられ、大きな4本の線が入っていたんだ。『W』と。」
浮瀬は、「その時に起こったのは、それだけだよ。」と、まだ少しお茶が残ったペットボトルのキャップを閉めた。
黙って話を聞いていた猿渡は、「なんだ、それだけかよ。」と、不満そうに焼きそばパンの残りを口に押し込んだ。
『起こったことはそれだけだよ。』と。けれども僕は、浮瀬が知っているのは、それだけではない気がした。
「けれども浮瀬、それだけだとやっぱり、『事変』と呼ばれる出来事にはならないよ。パニック障害や記憶障害について、何か知っているんじゃないの?」
「うん。『その場で』起こったことは、さっき話した通りだよ。」
けれど、
「その交差点を渡ってから15分ほど後、渋谷のスクランブル交差点付近を中心に、数千人もの人が、パニックを起こし始めた。」
「15分前、交差点を渡った人達ってことか。」
と、猿渡が唸る。
「渡った人達で、互いにすれ違った人達だ。」
と、浮瀬は付け足した。
「それで、記憶障害というのは?」
僕は聞く。
被害者は、スクランブル交差点を渡る直前から、十数分後までの記憶が曖昧としていた。
そのことは、一部のニュースやネット記事で、僕も知っていた。
「互いにすれ違った人達は、スクランブル交差点を渡る直前から、十数分後までの記憶が曖昧としていた。“曖昧”というのは、”記憶が無くなった“ということではなく、“何か他人のものらしい記憶が混ざっている”ということだった。」
「なんだそりゃ。」
と、猿渡はよくわからないという顔をする。
そこで浮瀬は、僕たちから目線をそらし、教室を見渡した。
教室にいる、生徒たちを見渡した。
「被害者の、交差点を渡った直後の記憶が、誰か他人の記憶と置き換わっていた。そのことに気がついた時、彼らはパニックを起こした。」
「それは気のせいだとか、限りなく現実味のある夢と現実が有耶無耶になっていたとか、そういう話ではないんだよね。」
と、僕は聞いてみる。
「ああ、そしてここからが、この事件が”渋谷事変“と呼ばれるきっかけになった。」
彼は続ける。
「被害者の中から1000人以上の人が、他人の記憶が混ざるという違和感に苛まれ、その『自分という意識の曖昧さ』を理解してしまい、けれどもそれは受け入れがたく、苦悩し、自殺を試みたんだ。」
自殺未遂。
「そしてそのうち966人が、それを完遂した。」
彼は、僕の顔をまっすぐと見ていた。
「その事件は、交差点を渡るというほんの数分の間に、1000人もの人を、死へと追い込んだ。」
一度に1000人もの人を自殺へと向かわせた。
一度の青信号。
彼らが足を踏み出した途端に、足を踏み外させたのか。
それとも、一歩を踏み出させてしまったのか。
明らかにそれは、事件だった。
朝のホームルームで伊勢先生から説明されたことは、学校側も、現在の状況を把握できていないということ。帰りのホームルームまでに、学校側での対応を決めるということだけだった。
そして、生徒はネット上での情報発信を控え、放課後もマスコミを避けて下校するようにと告げられた。
「テレビなどでは伏せられていますが、あなた達もネットやSNSを見て、知っていると思います。
私は今でも、彼女はこの高校の生徒だと思っていますが、先日までこの高校に在籍し、生徒会副会長を務めていた菰宮牡丹さんに、渋谷事変の容疑がかけられています。
なぜこのようなことになったのか、私たちも全く見当がついていません。
今はただ、これが何かの間違いであってほしいと願うだけです。」
午前の授業が終わり、猿渡の机で、彼と僕、浮瀬の三人で昼食を食べる。
「ダメだ。ネットのどのニュースでも、ボタンちゃんは犯人じゃなかったとは載っていない。」
猿渡は、午前の授業中もずっと、スマートフォンでネット記事を確認していたらしい。
「どうして菰宮先輩が疑われているんだろう。渋谷事変は、東京での出来事なのに。」
と、僕はお弁当を広げながら返す。
「つーか。」と、購買で買ってきた焼きそばパンを頬張りながら、猿渡は言う。
「渋谷事変って、結局何なんだよ。どの記事を読んでも、スクランブル交差点で、数千人が同時にパニック障害と記憶障害を引き起こしたことしかわからねえし。」
パニック障害と記憶障害。僕たち地方の一般市民の高校生が、知っている事いえばこの程度だ。
そして、その現場に、「W」の文字が残されていた。
この程度で、「事変」と呼ばれている。
「浮瀬、お前、東京から引っ越してきたんだよな?」
俺たちが知らない情報を知っているんじゃないか?
と、猿渡は浮瀬のほうを見る。
浮瀬は少し困った顔をすると、左手の一刺し指を立て、すっと自分の唇に当てる。自然と、僕たちは耳を澄ませた。
そして僕たち二人の方を見て、ゆっくりと口を開いた。
小さく、けれども、はっきりとした声だった。
「実は僕、渋谷事変が起こったとき、その現場を見ていたんだ。」
それを聞いたとき、猿渡は身を乗り出し、僕は目を見開いた。
彼は、渋谷事変を見ていた。と言った。
しかし、僕たちが何かを口にする前に、浮瀬は素早くもう一度、彼の人差し指を唇に当てる。
猿渡は乗り出していた身をもとに戻し、「そこにボタンちゃんはいたのか?」と聞く。
浮瀬は少し困ったように笑い、「いや、菰宮さんとは会ったことがないからね。わからないよ。」
と、猿渡に返す。
確かに彼は、菰宮先輩の退学と同時に、この高校に転校してきている。
「それに、」
と、浮瀬は続ける。
「渋谷のスクランブル交差点は、一度に何千人もの人が交差するから、そこに僕の知っている人がいたとしても、気が付くかわからない。」
猿渡はそれを聞き、「そうか。」と、頷く。明らかに、残念がっていた。
「それで、浮瀬は実際に事件を見たんだろう?どんなだった?」
と、僕は話の続きを促した。
「ああ。」
浮瀬は続ける。
「一年前、渋谷のスクランブル交差点で、赤信号で堰き止められていた数千人の歩行者の流れが、青信号に変わったとたん、一斉に交差点を横断し始めた。
ちょうど、最初に交差点に足を踏み出した人達が、交差点を渡り切ろうとしたとき、交差点内にいた何人かの人達は、急に足を止めた。けれど、彼らはすぐに交差点を渡り切った。」
ここまでは、本当に、事件とも言えもしない、日常。
浮瀬はペットボトルのお茶を口に含むと、話を続ける。
「歩行者用の信号が点滅し、交差点内の歩行者が少なくなった時、交差点の真ん中付近のコンクリートが少しえぐられ、大きな4本の線が入っていたんだ。『W』と。」
浮瀬は、「その時に起こったのは、それだけだよ。」と、まだ少しお茶が残ったペットボトルのキャップを閉めた。
黙って話を聞いていた猿渡は、「なんだ、それだけかよ。」と、不満そうに焼きそばパンの残りを口に押し込んだ。
『起こったことはそれだけだよ。』と。けれども僕は、浮瀬が知っているのは、それだけではない気がした。
「けれども浮瀬、それだけだとやっぱり、『事変』と呼ばれる出来事にはならないよ。パニック障害や記憶障害について、何か知っているんじゃないの?」
「うん。『その場で』起こったことは、さっき話した通りだよ。」
けれど、
「その交差点を渡ってから15分ほど後、渋谷のスクランブル交差点付近を中心に、数千人もの人が、パニックを起こし始めた。」
「15分前、交差点を渡った人達ってことか。」
と、猿渡が唸る。
「渡った人達で、互いにすれ違った人達だ。」
と、浮瀬は付け足した。
「それで、記憶障害というのは?」
僕は聞く。
被害者は、スクランブル交差点を渡る直前から、十数分後までの記憶が曖昧としていた。
そのことは、一部のニュースやネット記事で、僕も知っていた。
「互いにすれ違った人達は、スクランブル交差点を渡る直前から、十数分後までの記憶が曖昧としていた。“曖昧”というのは、”記憶が無くなった“ということではなく、“何か他人のものらしい記憶が混ざっている”ということだった。」
「なんだそりゃ。」
と、猿渡はよくわからないという顔をする。
そこで浮瀬は、僕たちから目線をそらし、教室を見渡した。
教室にいる、生徒たちを見渡した。
「被害者の、交差点を渡った直後の記憶が、誰か他人の記憶と置き換わっていた。そのことに気がついた時、彼らはパニックを起こした。」
「それは気のせいだとか、限りなく現実味のある夢と現実が有耶無耶になっていたとか、そういう話ではないんだよね。」
と、僕は聞いてみる。
「ああ、そしてここからが、この事件が”渋谷事変“と呼ばれるきっかけになった。」
彼は続ける。
「被害者の中から1000人以上の人が、他人の記憶が混ざるという違和感に苛まれ、その『自分という意識の曖昧さ』を理解してしまい、けれどもそれは受け入れがたく、苦悩し、自殺を試みたんだ。」
自殺未遂。
「そしてそのうち966人が、それを完遂した。」
彼は、僕の顔をまっすぐと見ていた。
「その事件は、交差点を渡るというほんの数分の間に、1000人もの人を、死へと追い込んだ。」
一度に1000人もの人を自殺へと向かわせた。
一度の青信号。
彼らが足を踏み出した途端に、足を踏み外させたのか。
それとも、一歩を踏み出させてしまったのか。
明らかにそれは、事件だった。




