11.0 そう、私となら、どう?
家に帰ると、母は夕飯の支度をしていた。「ただいま」と僕は声をかけた。テレビからは、日本の子供の学力低下について、教育専門家がコメントしていた。
『割り算と言うのが、掛け算の逆計算だということを子供たちに教えなければいけません。三、五、十五という数字を前にして、十五は三と五を掛けたものですし、五は十五を三で割ったものです。これを、感覚として、“理解”しなければいけない。』
僕は、自分の部屋に向かう足を止め、そのコメントを聞き入る。
知識としてではなく、感覚として理解する。浮瀬の言葉が蘇る。
『小石井君、そこで君は、理解したんだろう。納得したといった方がいいか。』
『小石井君、この輪廻から抜け出したいと思うかい?』
僕は、
「頼、手を洗って、うがいをしてきなさい。」
キッチンからの母の声で、僕は我に返った。
「うん」と生返事をして、コメンテーターの発言に耳を向ける。
『けれども教育熱心な親たちは、割り算と掛け算の関係を、子供に暗記させようとします。そっちの方が楽だから。子供にとっても、教育者にとっても。頑張って覚えてしまえば、無理矢理覚えさせてしまえば、楽です。』
「算数や数学の公式なんて、とりあえず、そういうことにしておけばいいじゃない。理解しなくても、計算できることが大切よ。」
と母は、何かを包丁で斬りながら言った。
確かに、知らなくてもいいことや、理解しなくてもいいことは、世の中に沢山あるみたいだ。僕は洗面所で手を洗い、うがいを済ませると、自分の部屋に向かった。
七時を過ぎたころ父が帰宅し、家族三人で夕飯を食べる。食事中はテレビが付いているが、スマートフォンを操作することは許されない。ネット上の動画も、テレビの画面で観るのは許される。我が家は食事中、同じ情報に触れないといけないという不文律がある。
両手で数えられる程度のテレビ局数の中から、当たり障りのない番組が選ばれる。
僕はいつも通り、なるべく早く食事を終え、「ごちそうさま」と手を合わせた。この後いつもならテレビの前のソファに寝転がり、スマートフォンや携帯ゲーム機を手にしてくつろぐのだが、今日はすぐに自分の部屋に戻った。
食事中、僕のスマートフォンには着信があった。
『不在着信 美七』
僕の幼馴染だ。
『美七、久しぶり』
電話を掛けると、2コール目で彼女は出た。
『頼くん、久しぶり。どうしたの?浮かない顔をして。』
と、彼女は返す。
『どうしたも何も、そっちが掛けてきたんだろ。それに、浮かない顔をしているかどうかなんて、通話じゃわからない。』
『そうね。頼くんは今きっと、何か悩んでいるだろうと思って電話してみたのよ。卒業式ぶりね。』
それに、と、彼女は続ける。
『浮かない顔をしているでしょう?声だけでわかるわ。』
声色だけで。
『誰だって、ギターの弦が弾かれたのか、ピアノの鍵盤が叩かれたのか、トランペットに息が吹き込まれたのか、その違いは一目瞭然でしょう。』
見てもいないのに、一目瞭然。
でも、と、僕は食い下がる。
『それは振動している物自体が違う。それに対して、僕の声は、すべて僕の喉から発せられている。しかも、その声は、電子デバイスによって、解像度が下がっている。違いなんて、出ないんじゃないか。』
僕は、ついむきになる。
『解像度とかデバイスとか、私はよくわからないけど、けど何となく、そんな風に見えるのよ。いいえ、聞こえるのよ。』
彼女がそう言えば、そうなのだろう。僕にはさっぱり理解できなかったが、似たような経験はある。
彼女が僕に、花壇のデッサンを見せてくれた時だ。彼女のスケッチブックの中には、鮮やかな花が、収められていた。
すごいね、と伝えると、彼女は、「すごくないよ。見えたまま、そのまま描いただけだから。」と言いながら、デッサンに使用した鉛筆と消しゴムを片付けていた。彼女が使用したのは、黒鉛筆と、消しゴムだけだった。
それは、白黒の絵だった。僕にはそれが、色鮮やかに見えていた。
『頼くん、回想は終わった?』
『うん。というか、僕は一言も発していないのに、どうして過去を振り返っていると分かったんだ。』
『頼くんの吐息だけで、感じちゃうわ。』
『そんな言い方するな。』
僕は慌てて、大きな声を出してしまう。美七は、楽しそうに笑った。
『頼くん、少し元気になったね。』
と言う美七に、僕は『実際、僕の声は今、どんな僕はどんな感じに聞こえる?』と聞いてみる。
『そうね、頼くん、私の名前を呼んでみて。』
どうして名前を呼ぶ必要があるかはわからなかったが、『美七』と呼んでみる。
『うん。言葉にするのは難しいけれど。』
と、僕がどんなふうに見えるのか、説明し始めた。
僕は夕暮れの港に立っている。
大きくて、黒く染まり始めた海面に、足元の石を蹴って落とした。
その石が水面のかすかな波にぶつかって、海の底に沈んでいく音がする。
海の広さに対して、あまりにも小さい石だから、その音が本当に、僕が蹴った石の音なのか、わからなくなってくる。
魚が跳ねる音。カラスの鳴き声。野球帽を被ったおじいさんが、釣り針を垂らす音。近くの工場で働いていたおじさんたちが、タバコの吸い殻を投げ捨てる音。広場でテニスをしていた若いカップルが、テニスボールを海に落としてしまった音。そのテニスボールが、水面に浮かんで漂う音。
そうした音に掻き消される。
『もう一度、名前を呼んで。』
と、美七が言う。僕は、『美七』と口にする。
『ふふっ。』と、美七は嬉しそうに笑った。こいつ、僕に名前を呼ばせて、楽しんでいるだけかもしれない。彼女を困らせようと、僕は美七に質問する。
『この声は、色で例えるなら、どんな色だろう。』
美七は少し考えると、答えた。
『夕焼けと、黒い海と、カラスの鳴き声が混ざった、深い赤色。』
『それは、血の色みたいだな。死の色だ。』
『“生”の色でもあるわ。』
生きることと死ぬことが混ざった色。嫌いじゃないわ。見たことはないけれど。と、彼女は付け足した。
ふいに、
『頼くん、子供を作ることに興味はある?』
『な…。なんだよ急に。』
照れちゃって、何を想像しているの。と、美七は僕をからかう。
『子作りの過程の話じゃないわ。自分の子供を作るということについてよ。』
僕は無駄だと分かりながらも、平静を装った。
『相手にもよるだろ、もちろん。そしてまだ先のことだ。』
『そう、私となら、どう?』
と、楽しそうな声が聞こえる。
『なんの話だよ。』
『頼くん、あなたの話よ。』
美七は、眠そうにあくびをする。
『僕の話はもういいよ。そっちはどうなんだ。学校ではうまくやっているのか?』
と、聞くと、
『ええ、うまくやっているわ。「ひきこもりの美七」と呼ばれていたりして。』
ひきこもりかよ。
そこで彼女は、眠くなってきたわ。と、一方的に電話を切った。
最後に、『楽しかったわ、また電話頂戴ね。』とも言っていた。
電話をよこしたのは、彼女からなのだが。




