10.0 君は、あの兄弟のことをブラザーズと呼ぶのか。
「スーパーマリオブラザーズ。五十年も前のビデオゲームでけど、知っている?」
と、僕は浮瀬に尋ねた。
「ああ、伝説的なゲームだよ。実際にプレイしたこともある。1990年代、高度経済成長後のこの国で、人々に冒険の先にある希望を抱かせた。」
彼は五十年も前のゲームで実際に遊んだことがあるようだ。
「そう、何日か前、僕はあのゲームで遊ぶ夢を見たんだ。遊ぶと言っても、僕がプレイヤーなのか、僕が画面の中にいて、誰か別の人が僕を操作していたのか、はっきりとはわからなかった。
「それは、今、ここにいる僕たちも同じことが言えるのではないのかい?今ここにいる僕たちも、実は誰かに操られているだけかもしれない。」
「いや、僕が言いたいのはそういうことじゃないんだ。その夢には、続きがある。」
校庭を見下ろすと、サッカー部が部内で練習試合を行っていた。22人の選手が、時折飛ばされる顧問の指示に従い、コートは走り回っている。そこでは各選手の行動を、顧問の声と、決められたルールが支配していた。僕は、夢の話を続ける。
「画面の中の世界には、地面にいくつもの穴が開いていた。」
「うん。やたらと大きな穴が、あちこちに空いているよね。マリオやルイージの特技は『高くジャンプすること』だからね。冒険をスリリングにするために、飛び越える壁と、踏みつける敵が必要だ。でも待てよ、ブラザーズの特技は、何もジャンプすることだけじゃない。踏んでも壊れないような硬いブロックを、頭突きで壊してしまう頭の固さ。毒々しい色をしたキノコを食べて、超常能力を得る特異体質。実は後ろで何人もの替え玉が控えている、驚異的な増殖力。」
「君は、あの兄弟のことをブラザーズと呼ぶのか。」
いや、彼が言う『ブラザーズ』とは、マリオとルイージのことを指しているのではなく、『マリオと、その後ろで控えている(彼曰く増殖した)何人もの別のマリオ達』を指しているのかもしれない。
「おっと、そんな話じゃなかったね。夢の続き。君が見た夢の続きを聞かせてよ。」
夕日が山の向こうに沈みかけている。屋上からは校舎に掛かった大きな時計は見えない。
「夢の続き。夢の中で僕は、その穴に落ちてしまった。深く深く落ちて、つるつるに磨かれた床に、尻もちをついた。まるでゲームのように、僕は怪我一つしなかったんだ。地下には、そのつるつると磨かれた床が、どこまでも続いていた。もちろん暗かったけど、僕の頭上からは、地上から光が届いてた。地上からくる光の筋は、僕の頭上だけでなくて、ちらほらと散らばっていた。」
「きっと、その光も地上に空いた穴から降って来ているんだろうね。」
彼の相槌に、僕は頷いて、話を続ける。
「僕の隣には、僕に似た格好の男の子が、膝を抱えて座っていた。僕と同じようなオーバーオール。僕と同じように、アルファベットが一つ書かれた帽子。まったく似合わない髭。」
「それは、君自身がもう一人いたということかな?」
「いや、彼は確かに、僕以外の誰かだった。そしてなぜだかわからないけど、彼や僕と似た格好の別人が、僕たちの頭上を、つまり地上を、駆け抜けていった気がしたんだ。」
「つまり、彼と君以外の、『別の彼』は、君が落ちた穴には落ちなかったわけだ。君と同じ失敗はしなかった。」
「うん。とても奇妙な感覚だったよ。地上にいたときは、自分の身体は、平面の画面に閉じ込められて、ドット絵のカクカクとした動きしかできなかった。けれど、地下に落ちてからは、三次元の世界になって、解像度も上がっている。」
ばらばらに鳴り響いていた楽器の音が、いつの間にか一つの演奏に変わっていた。各楽器、パートの練習から、全体での練習に移ったのだろう。
「小石井君、それはおかしいよ。スーパーマリオブラザーズの世界では、地下の世界も描写されていた。平面に、描画されているはずだよ。」
「浮瀬、君は僕の言いたいことをわかっているんじゃないか?」
「うん、ごめん。君はつまり、ゲームを終えたということなんだね。いや、ゲーム自体は続いている。けれど、君個人は、穴に落ちた。ゲームオーバーだ。そこで君の眼は覚めたのかい?」
「いや、どこからか、車輪の音が聞こえたんだ。見ると大きなお掃除ロボットが、僕たちを吸い込みに来た。一昔前の、ルンバのような形をしていた。僕も、そばに座っている僕に似た彼も、そこから逃げようとはしなかった。そのお掃除ロボットの吸い込み口は、僕たちの身体よりも小さくて、何度僕たちに体当たりをしても、吸い込むことはできなかったんだ。そのロボットは何度も、僕たちに体当たりをしていた。そこで、僕は目が覚めたんだ。」
「そうか、そこで君は目が覚めたんだね。」
浮瀬は、僕の言葉を繰り返した。
「小石井君、そこで君は、理解したんだろう。納得したといった方がいいか。」
僕は校庭に向けていた視線を、彼の方に移した。彼はまっすぐ、僕の目を見ていた。
「新聞に記事が出ていたね。」
彼は、この数日、僕の頭から離れないあの言葉口にした。
「意識の不連続性について。RW理論。」
少し遠回りしたけれど、本題にたどりついた。
「RW理論」と、言葉が出ない僕を置き去りにして、浮瀬は続ける。
「アメリカの大学院生が修士論文で証明した。人間は、いや生物は、一度眠るとその意識はリセットされる。次に目が覚めた時、意識は『覚醒』しない。まさしく脳の記憶領域に保存された記憶をもとに、意識は『形成』される。『再構成』されるわけではない。以前の意識とは『別の』『新しい』意識が構成される。」
僕はこれから語られる内容から目を逸らそうと、彼から視線を逸らす。
山脈の向こう側に、太陽は沈んでしまった。
気が付けば、吹奏楽部の演奏も、もう止んでいる。
浮瀬は一息つくと、「春が過ぎたとはいえ、まだ夏は来ていないようだね。少し寒くなってきた。」と、制服のポケットに手を突っ込む。
「実際、世の中のほとんどの人は気にしていない。けれども小石井君、君は気づいてしまった。」
僕はこれ以上、彼の言葉を聞きたくはなかった。しかし彼は続ける。
「寝て起きて、脳は意識を形成する。当たり前のことじゃないか。けれど問題はそこじゃない。問題は、新しい意識が構成されることだ。」
それ以上は、止めてくれ。と思った。
「新しい意識が構成される。それはつまり、以前までの意識は完全に消えてしまうということだ。」
浮瀬は続ける。
「以前までの”僕を認識するもの”“君を形作るもの”は消える。そして、眠る以前の“君”とは全く別人の“君”が、以前までの君と同じ記憶を持ち、その体の中に宿るんだ。」
今、ここにいる僕は、僕を僕として認識する僕は、今日の夜いなくなる。
明日は、まったくの別人が、今日までの僕の記憶を持ち、今日までの僕の身体を使って生活を始める。
死ぬことと、生きることの繰り返し。
「小石井君。」
浮瀬に名前を呼ばれ、彼と目を合わせる。
「小石井君、この輪廻から抜け出したいと思うかい?」
その方法を、僕は知っている。と、彼は告げた。




