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「せ、せ、せ、先生!! シャルが……シャルがぁ!!」
虚ろな表情で力なくうな垂れるシャルロットを引っ張り、チョンカは西京のもとへ辿り着いた。血相を変えて飛び込むように走ってきたチョンカを見ても、西京はいつもと変わらず冷静である。
「ふむ、見ていたからね。分かっているよ。シャルロット君には申し訳ないことをしてしまったね。チョンカ君、シャルロット君をそこに座らせてくれるかい?」
「は、はいっ!」
「さすがにあれは忘れたほうがいいだろうね。それ、クレアエンパシー」
西京のマフラーが揺れ、シャルロットの体がぼんやりとした光に包まれる。それと同時にシャルロットの体が支えを失ったように倒れそうになるが、チョンカがそれに気付き支えてやった。
「詳しくは言わないけれど、心にトラウマができてしまうような出来事があったからね。記憶を消しておいたよ。チョンカ君、シャルロット君はもう大丈夫だから目が覚めるまで側にいてあげなさい」
「う、うん! 分かっとる」
「さて……」
西京は後ろを振り返り、自分の乳を吸おうと無理な体勢になって苦しむスジ太郎のほうへ視線をやった。
「あたたたた……やっぱ体がかたいからセルフ授乳は無理か!? も、もうちょっとなのにぃっひーーーーーーーーーーっっ!!」
「スジ太郎君、その訓練はまた今度だよ。今は少しでもエスパーとしての能力を伸ばそう。さぁ、特訓再開だよ」
「え、え!? まだやるんですかっ!? お、俺、もう乳なんて出ないっすよっほーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっいっ!! あんっ、あんっ! と、とま、止まってうぃっひーっ!」
「ふふ、そんな嘘をついてもだめさ。君の体は正直だからね。シャルロット君が目を覚ますまではここを動けないから、少しでも特訓だよ」
「あひっひ! い、いた! やめ、せめて引っ張るなら乳をっ! あ、あいーーーーっ!」
西京は嫌がるスジ太郎の耳を引っ張り、強引に連れて行ってしまった。
一人取り残されてしまったチョンカは座り込み、シャルロットの頭を膝の上に乗せて撫でていた。
スジ太郎がいなくなっただけで、あたりはシンと静まり返ってしまう。シャルロットを撫でていると優しい風がおさげを揺らす。
廃人状態のシャルロットを見て思考が停止してしまったが、一人になったことで再び動き出してしまった。
ラブ公のことを考えて吐いたため息が風と一緒に流れていく。
そして風が流れた先、背後に誰かが立っている気配を感じ、チョンカは慌てて後ろを振り向いた。
そこに立っていたのは目を赤く腫らしたラブ公であった。
「あ……」
「……チョンカちゃん……ごめんね……」
「……ラ、ラブ公……う、うん」
──チョンカの方から謝りなさい──
ラブ公に謝られて思わず頷いてしまったが、シャルロットにそう言われたことを思い出す。
チョンカも素直な方であるが、ラブ公はそれ以上に素直なのだ。そして優しいラブ公は喧嘩をしてギスギスした状態をいつまでも放っておくことなどできない。
もちろんラブ公の性格を良く知るチョンカは、しばらくすればラブ公のほうから謝りにくることは分かっていたのだが、シャルロットに言われたとおり、先に謝ろうと三角座りをしていたときに決意をしたのだ。
シャルロットが目を覚ましたら自分から謝りに行くつもりだった。
しかし不意を突かれるような形でその機会を逃してしまったチョンカは心の準備ができていないままに、とりあえず自分も早く謝らねばと必死に言葉を紡ごうとした。
「ラブ公……そ、その、ご、ごめん。うち、言い過ぎた……」
自分の脳内シミュレーションでは、もっと大きな声ではきはきと、頭を下げて謝る予定であった。おかしいなと思ったときにはもう言葉が出た後であった。
「ううん……いいんだ。僕も言い過ぎちゃってごめんね……」
「う……うん……」
互いに謝ったのに。そのはずなのに。チョンカはなぜだか、二人の距離が元に戻ったようには思えなかった。溝は深くなったりはしていないが、依然二人の間に存在しているように感じた。
「スジ太郎君、属性を乗せた乳は非常にいい結果を残したよ。極めていけば相当なものになるだろう」
「ほ、本当ですか!? お、俺にそんな才能があったなんて……信じられなうぃーーーーーーーーーはぁーーーーーーーっっっ!! くっ、はぁはぁ……褒められるとすぐこれだ……あの、西京さん」
「ふむ、何かな?」
「お、俺、自分の能力の名前を自分で決めてもいいですか? こ、こういうの憧れてたんです!!」
「ああ、それは全く構わないよ? エスパーの能力はイメージが大切だからね。他人に適当につけられた名前よりも自分でつけた名前の方が威力は上がるものさ。それで、例えばミルクテンプテーションはどういった名前にするんだい?」
「ラヴ☆ポーション」
スジ太郎の目は本気であった。
本気でその名前を気に入っているようであり、本気でその名前をつけるつもりである。
「……まぁいいんじゃないかな? 人それぞれだからね。頭が悪そうではあるが」
「そして黄色は──」
「スジ太郎君、能力名はおいおい考えなさい。その前にどうしてもやっておかなければならないことがあるのだよ。
「授乳ですね。分かりまあっっっはーーーーーーーーーーーああっ!」
スジ太郎の発作によって白液が西京の顔に飛ぶが、それは顔に触れる前に何かによって防がれてしまった。
「君は防御を覚えなければならない」
エスパーは、基本的に好戦的な人物が多い。
つまりエスパーになれば戦いを避けて通ることはできないのだ。
そしてエスパー同士の戦いで一番恐ろしいのは精神干渉系や念動力系の能力である。
「君がこれからエスパーとして生きていくのであれば、戦うこともあるだろう。そんなとき何よりも一番気を付けなければいけないのは相手の精神干渉系や念動力系の能力さ。これに対する防御策がなければ一秒も経たずに殺されてしまうことになる。そして物理的な防御ももちろん必要だよ。今私が君の汁を防ぐのに使ったのがサイコガード。精神系の能力を防ぐのがサイコシールド。君にはまずはこの能力の習得から入ってもらうよ」
スジ太郎も少しはエスパーの使う能力のことを知っている。サイコキネシスに次いでサイコガードやサイコシールドはメジャーな能力である。とは言え野良エスパーには防御にまで頭が回っていない者も多いのも事実である。
サイコガードとサイコシールド。この二つの単語を聞き、スジ太郎は心が躍った。いよいよ本格的にエスパーらしくなってきたとワクワクする気持ちが溢れてきたのだ。
「まずはイメージしやすいサイコガードからだよ。私は余計なことは言わない。特に君は能力に牛乳を使用するからね。どのようなイメージでサイコガードを構築するのか私にも分からないことだ。さぁ、思うようにやってみてごらん」
「はい! えーっと……ミルクでガード……ミルクでガード……?? ええ??」
元気良く返事をしてみたはいいものの、スジ太郎はすぐに頭を抱えることになる。牛乳で物理的なガードするというイメージが全く湧いてこない。
「に、西京さぁん……」
「ふむ。チョンカ君も通った道だが……君の場合はかなり特殊だからね。やって見せてあげたチョンカ君とは違うね。仕方がないね……ふむ……そうだね、例えば物理的なガードであるなら牛乳を固めることはできないのかい?」
「固める……そうか! チーズにすればいいのあふんっっ!! おっおっおっ!! えっと、えっと、つまり酸っぱい乳を出せばいいのかな?」
スジ太郎は腰を落とし両手で乳房を掴んだ。まとまったイメージに集中しながら手のひらで、乳首の方へ向かって何度も何度も激しくしごく。
「おっ……あん、あはっ! ウッホ! も、もういいかぁぁぁいっ!! ま、まぁだだよぉぉ!! あふんっ!! ああ、ああ、ああああ!! も、もーーーーーーーいいぃぃぃいいいいーーーーーーよぉぉぉおお!!」
スジ太郎の乳首から、どろりとした粘度の高い白液がびゅるびゅると出てきた。
「み、み、んっほ! みぃつけ……たぁん!! おっほ!」
「ふむ、最初はそんなものだね。それをもっと硬くできてガードとして使えるようになったらシールドの訓練をするように。それにしても本当に不愉快な光景だね。今後は、その練習は一人で行うように。分かったね?」
「は、はひぃ……あぃ……わ、わかりまひは……あひっ」
スジ太郎はサイコガードこそできなかったものの、その足がかりを掴んだ。
そして今の失敗はとても大きな意味のあるものであった。
乳に粘性を与えることができたのだ。その変態的能力は近い将来、スジ太郎の名前と共に世界に広く知れ渡ることになる。
「あ、あれ? あたし……」
「シャル!!」
「シャルちゃん!!」
チョンカの膝がそろそろ痺れてきそうなころ、シャルロットは目を覚ました。起き上がりあたりをきょろきょろと見渡している。記憶が繋がらない為、自分がどこにいるのかが分かっていないのだ。
「あたし……村に向かったはずじゃ……」
「シャル!! え、えっとね。村でなんか嫌なことがあったみたいで、それでシャル、ゾンビみたいになっとったんよ!? じゃけ先生に頼んで記憶を消してもらったん」
「え……そ、そんなことがあったの……?? た、確かに思いだせないわ。何があったのか分からないけど、チョンカの様子だと思い出さないほうがよさそうね……」
普通に会話が成立することに安心したチョンカは、強張っていた体の力が抜けていくのを感じた。いつものシャルロットに戻ったのだ。
「シャルちゃん……さっきはごめんね……僕……」
「いいのよ、騎士君は何も悪くないわ。あたしのほうこそごめんね?」
「シャルちゃん……!」
シャルロットは優しくラブ公に微笑んだ。そんな二人を見て、チョンカは後悔する。どうして自分はもっと自然にごめんなさいができなかったのだろうかと。
「おや、目が覚めたかな? シャルロット君」
「あ、マスター。あたし……」
「ふむ、気にすることはないさ。お使いを頼んだ私の責任でもあるからね。まさかスジ太郎君の乳があれほど恐ろしい効果を秘めているとは思わなかったよ。ほらシャルロット君、大好きなチョコレートをあげよう」
西京はどこから取り出したのか、いつの間にか手に持っていたチョコレートをシャルロットに渡す。恐ろしい効果と聞いて二人は興味が湧いてくるのだが何が起こったのかを聞く勇気は持ち合わせていなかった。シャルロットは貰ったチョコレートをひと齧りする。
「スジ太郎君には、今後も一人で特訓をしてもらうよ。気持ちが悪いから特訓中は近付かないように。分かったね?」
「い、言われんでも近寄りませーん」
「あ、あたしもよっ!!」
「僕もっ!!」
「山芋が喋るな。死ね。ところで二人とも──」
西京は二人の方を見て目を細めた。何か大事な話があるのだと感じ、二人とも立ち上がり、姿勢を正す。
「今は旅をしながら訓練しているが、そろそろ次の段階に入ろうか。この前にも言ったように近い内に時間を取って特訓をすることを考えているが、それまでにある程度の完成度を目指しておきたいからね。今後の訓練は今から言う内容に切り替えるように。まずはチョンカ君」
「はいっ先生!」
「ふふ、チョンカ君は私が言わなくても自分が何の練習をするべきか、良く分かっているのではないかな?」
西京の言うとおりであった。そばに自分がいながら二度もシャルロットを救えなかった。クレアエンパシーの練習をもっとしていれば救えたはずだ。せめてシャルロットくらいに使えたらと何度も考えた。きっと西京に言われずとも、今晩辺りから自発的に練習を開始していたであろう。
「クレアエンパシーじゃろ? うん、うち頑張る!!」
「ふふ、いい子だ。チョンカ君にはモンキーガムをあげよう」
「ね、ねえ……さっき山芋って……え? え?」
モンキーガムとはサルの形をした、チョンカが幼少の頃から好きなガムである。西京はまたしても、どこからともなく取り出したガムをチョンカに手渡した。
「シャルロット君」
「はいっマスター!!」
西京は手のひらをシャルロットに見えるように開いて見せた。
色んな種類のお菓子が、西京の手のひらから生まれ、そして溢れて地面に落ちる。
「サイコシャドウを完成させなさい」
サイコシャドウとは。
自身から発生させた影で全てを飲み込む能力である。ただし、飲み込むという能力はサイコシャドウの初歩でしかない。
サイコシャドウとは、影で飲み込んだものを、影から吐き出す能力である。
今までの旅路で西京がどこからともなく持ってきていた食料やテント、生活用品はサイコシャドウで万引きしたものを取り出していたのである。西京のサイコシャドウによってチョンカ達は手ぶらで旅をしていた。ちなみに飲み込んだ物体は影に飲まれている間、時間が完全に停止してしまう。
「サイコシャドウの完成……分かったわ、マスター!! あたしも頑張ります!!」
シャルロットは知らない。
いや、正確に言えば覚えていない。
自身の影に、変態と化した男を飼っていることを──
こうして三人の弟子たちは、それぞれの特訓を続けながらウラメシ山へ向けて再び歩き出したのであった。




