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「ゆ、揺れる!! 揺れる!! 僕もうダメっ!! 本当にダメぇぇぇーーーーー!!」
つり橋を渡り始めて一時間ほど経った。
先頭を四つんばいのラブ公が歩いていたため、チョンカ一行は500m程しか進んでいない状況であった。
尻を向けプルプルさせながら少しずつ前進する様子を、チョンカとシャルロットは噴出しそうになりながら眺めていた。
「ラブ公! もうちょっとじゃけー頑張って!」
「そうよ! 騎士君! あと少しよ!!」
「嘘つき!! 二人とも嘘つきぃ!! まだ全然進んでないのは僕にだってわか……ああああーーーーー揺れたっ!! また揺れた!!」
「チッ……きりがないね……」
「まぁ初めてなら仕方あるまいな!! のんびり行こうではないか!! ガーーーーーハッハッハ!!」
シャルロットはチョンカの手を強く握った。
ラブ公ほどではないがシャルロットも、今にもちびりそうなほど怖かったのだ。
「チョンカ……離したら……ダメよ!」
「いたたた! シャル! そんなに握らんでも離さんけぇ大丈夫じゃって!!」
シャルロットは戦慄を覚えていた。目先しか見えていないラブ公は恐らく気付いていないが、シャルロットには見えていた。
つり橋の中央部分、一番ゆるんでいる部分。その部分が強風に煽られ大きく揺れ、時に裏返ったりもしている。これだけ長いつり橋なのだ、そうなるのも理解は出来る。出来るがいざこれを自分が通るとなると話は別だ。
もはや恐怖は一周し、一体今まで何人がこのつり橋で犠牲になったのかと冷静に別のことを想像してしまう。
「ね、ねぇ、あたしの見間違いかしら。中央のあたり、風で橋が裏返ったりねじれたりしているように見えるのだけど……」
「ガーーーーーーハッハッハッハ!! 今日は特に風が強いからな!! 普通この橋を渡るときは風がやむまで待つのであるな!! んっんっんっ!!」
「ねぇ!! 引き返しましょう!! そうしましょう!? それかテレポートしましょう!!」
「えー大丈夫じゃないん?」
「チョ、チョンカ!! あなたあれを見てどこがどう大丈夫って言えるのよ!!」
鬼の形相でシャルロットに詰め寄られ、肩をガクガクと前後に揺らされ、チョンカは答えようにも答えられず、シャルロットの肩をポンポンと叩いた。
それでようやく落ち着いたシャルロットはチョンカの肩から手を離した。
「ひぃ、ひぃ、シャル、大丈夫じゃって!」
「ど、どう大丈夫なのよ!」
「あれ多分掴まりながらヨジヨジ進めるとおも──」
「そんなわけないじゃない!! 馬鹿ぁ!!!」
「ぐぇっ!! シャル!! 首! 首!!」
今度は両手でマフラーの上から首を掴まれて前後に揺らされてしまう。
チョンカは必死になってシャルロットの力の篭った手の甲をパシパシと叩く。
「まぁまぁ、そうだね、あそこだけはテレポーテーションを使おうか」
「シャルロット嬢の為にもそれがよいだろうな!! ガーーーーハッハッハ!! おっとととと」
大人達の会話を聞いてやっと開放されたチョンカは、咳き込みながら前方にいるラブ公へ視線をやった。
「げひっ、ひぃ、ひぃ、もうシャルは……あ? ラ、ラブ公!?」
ラブ公は先程の場所から全く進んでいなかった。
尻を突き出し軽く痙攣していた。
その姿を見るや、チョンカ達は急いで倒れているラブ公の元へ駆けつけた。
「チョ……チョンカ……ちゃ」
「ラブ公! どうしたん!? し、しっかりしぃや!!」
「お腹……痛い……なんか……お腹の中で暴れてる……うううぅぅぅぅ」
「お腹痛いって……こんなところにトイレもないし……」
「チョンカ! 今すぐテレポートで!!」
「だめ……今体に触っちゃだめ……ああああぁぁっぁ……」
ラブ公の悲痛な言葉を聞き、チョンカとシャルロットは青ざめた。
「せ、せめて先に進んで見ない様にしてあげましょう!! チョンカ、早く!!」
「う、うん!」
「こ、これは人事ではないのぉ!! ガーーーッハッハ!!」
「………………………………」
チョンカ達四人はつり橋を走った。
少しでもラブ公から遠ざかってやることがせめてもの情けであった。
十分に離れたであろう場所で、チョンカとシャルロットは膝に手をつきながら息を切らした。
「こ、ここまでくればラブ公も恥ずかしないじゃろ……」
「チョンカ! 振り向いちゃダメよ!!」
町のほうをぼんやり見ながら四人は待つことにした。
ラブ公の悲鳴が聞こえるまでそんなに時間はかからなかった。
「い、今……生きた魚が出たとか言っとらんかった……?」
「さ、さぁ……聞こえた気もするけど、そ、そんなわけないじゃない……ちょっと! 振り返っちゃダメよ!!」
「どれっ!!」
胡坐をかいて座っていたダディが自身の膝を一つ叩くと、立ち上がって柔軟体操を始めた。
「心配していても仕方がなかろうな!! ここは一つ、折角ロープもあることだ!! 坊主も遠くから見とるだろうから、待っている間にワシのサーカス芸を披露してやるとしよう!!」
「え!? お、おっさん、何しよるん??」
「ロープって……ま、まさか!! やめなさい!! ただでさえ我慢してるんでしょう? 失敗したら海に落ちちゃうわよ!?」
「ガーーーーーーーーーーッハッハッハッハ!! ワシはプロじゃ!! そんなヘマはせんわい!! っととー!! 危ない!!」
ダディはつり橋の、進行方向に向かって左側のロープによじ登ろうとしている。シャルロットには既にその姿が危うく見えた。
綱渡りを知らぬチョンカにとってはダディが何をしようとしているか見当も付かない為、ワクワクしながらも黙って見ていた。
ダディはプルプルしながらロープの上に立とうとしていた。その震えは我慢から来るのか、バランスを取るための震えかは分からない。
右足を前へ、左足を後ろへ、重心を低く取り、尻を突き出し、まるで鳥の翼のように腕を真っ直ぐに体の両側面へ伸ばした。
「え、え、おっさん!! 何しよるん!! あ、危なすぎるじゃろ!!」
シャルロットは手のひらで顔を覆い、見てはいられないと言わんばかりだ。しかしため息を吐きながらも指の隙間からしっかり状況は確認している。
「ふぅーー!! ふぅーー!! ふぅーー!! ぉおおぅっ!!」
開いた腕はそのままに、低かった重心を徐々に高く。しゃがんでいる様な姿勢から直立の姿勢へ。危うくもバランスを取りながらダディはロープの上に立ち上がった。
「おおおおおおおお、おっさん!! な、何しよるんよ!! は、はよぅ降りてきいや!! もうすごいの分かったけぇ!!」
「マ、マスター!! これ以上は見ていられないわ!! 止めてあげて!!」
「まぁまぁ、シャルロット君、男には引けない時があるからねぇ。何m歩くのかは知らないけれど、見守っていてあげようじゃないか」
「あ、歩く!? まさかあの上を歩きよるん!? 地面の上でもモジモジしよるくせに!? む、無理じゃ!! 絶対落ちよるって!! おっさん、もうええけ、はよ降りて!!」
ダディの顔には粒のような汗が大量に浮かんでいた。その汗は我慢によるものか、並外れた集中力によるものかは分からない。
一歩────二歩────
心配するチョンカ達の声などまるで聞こえていない、恐ろしいほどの集中。
すり足などではない。ロープの上を震えながら歩いている。
もちろん、強風に煽られながらである。
三歩────四歩────
「ああ、ああ……あたし、もう見ていられないわっ!!」
「アホやないん! あのおっさん絶対アホじゃわ!!」
ピタリと、足を運んでいたダディの動作が止まった。そしてゆっくりと腰をかがめ再び重心が低くなる。
「あ! も、もう終わる? ほっ……ほんまとんでもないおっさんじゃわ……うち寿命が縮まったわー。シャル、もうええよ」
「え、本当?」
完全に両手で顔を抑え目の前の光景を見ないようにしていたシャルロットが、チョンカの声で両手を戻した。
依然ロープの上に危うい姿勢でいるものの、腰をかがめているダディの姿を確認できて、シャルロットは安堵のため息を吐いた。
「ふむ……っ!? いや、あれはっ!?」
体勢こそ低くなったがダディの右腕はまだ下がっていない。
ダディの左手が、自らの左足のつま先を掴んでいた。
そこからのダディの動きはゆっくりなどではない。
観客であるチョンカ達に息つく間も与えない。
チョンカ達は信じられないものを見た。
つま先を掴みながら、低い体勢から一気に立ち上がったのだ。
左足は掴んでいる左手と共に真っ直ぐ伸び、西の空を指していた。
対して右足は震えながらもしっかりとロープの上に固定されている。
右腕は地面と水平ではない。
左足と同じ角度、斜め上空に伸び真っ直ぐに東の空を指していた。
「…………あ、あ、あぁ」
「し……信じられない……」
「ふむ、Y字バランスというやつだね。実に見事だ」
「ももももももももも、もうええって!! ほんまもうええって!! 何で我慢しよるくせに危険なことばっかりするん!!」
「そ、そうよ!! 爆発どころか命も危ないじゃない!! ば、馬鹿なの!? もうやめ、きゃっ!!!」
海沿いの場所では海から陸へ、海陸風というものが吹く。
先程から吹いている強風はまさにその海陸風であった。
そして、その日一番の強い海陸風が、神のいたずらなのであろうか、まさにダディのY字バランスが完成した今この瞬間に吹いたのだ。
誰が口にしたのだろうか。
それが誰かは分からない。
もしかしたらダディも含めその場にいた全員が口にしたかもしれない。
「あ」という声が全員の耳に届いていた。
ダディの右足の下に、ロープがなかった。
ロープはまるでダディの右足から逃げるように、しなりながら激しく横に揺れていた。
ダディの体が宙に舞った。
チョンカは見た。
Y字バランスも崩れ両足の足首の間にロープがあった。
もう空でも飛べない限り挽回は不可能であり、ダディは飛ぶことなどできない。
落ちる一方である。
シャルロットは見た。
尻を突き出し、逆V字になっているダディの後姿を。
風にあおられたのはダディの体だけではない。
ロープもまた横風にあおられたのだ。
ダディの足首の間を行ったり来たり、激しく揺れていた。
全員の目に、世界がスローモーションに映っていた。
無防備なダディの尻は重力に引かれゆっくりとロープへ接近していく。
足首から膝へ、膝から太ももへ。
ダディの両足の幅が狭くなっていくにつれ、ロープの横揺れ、振動の幅も小さくなっていく。
ゆっくりとロープはダディの尻に沈んでいく。
チョンカもシャルロットも口を開けながらその瞬間を見ていた。
ロープにダディという圧力がかかる。ダディは相当な体重であろう、その体重の何倍もの圧力が瞬間的にロープにかかった。
ロープにかかるのだ、もちろん同じ分だけの力がダディの尻から股間に掛けてかかっている。
更にロープは沈んでいく。
「もうええじゃろ」とチョンカが心の中で思った程にだ。
「ダディさんの股、裂けたんじゃないかしら」とシャルロットは思った。
それほどまでにロープがダディの尻に、深く深く、海よりも深く股間に食い込んだ。
ダディの両足も、両手も、まるで感電でもしているかのように伸びきっていた。
「ニーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーンッッッ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
ダディの悲鳴が、本来出してはならない悲鳴が、数年後に還暦を迎えるであろう男が生まれて初めて出してしまった甲高い悲鳴が、高い空の下に響き渡った。
絶対に切れない古代の縄。
金属製の得体の知れない硬い縄。
遠い過去に作られた謎の縄。
硬くも柔軟性があるその縄に備わるは、普通の物質ではあり得ないほどの弾性。
沈むところまで沈みきったダディの向かう先は、空であった。
伸びきった輪ゴムのように、古代のロープはダディの体重で伸びきった分を一気に取り戻すように、ダディの体ごと上へ跳ねた。
「ニンッ♡♡♡」
ダディの体は真上へ射出された。
海陸風に煽られながらも放物線を描き、海側ではなく橋側へ流されて落下した。
「ニンッ!!♡♡♡♡♡♡」
ドシャァという派手な音共に、ダディは再び橋の上に帰ってきた。
しかし横たわったダディの体は痙攣どころかピクリとも動いていない。
それはチョンカたちも同じであった。
誰もが目の前で起きた壮絶な光景に、呼吸すら忘れその場を動けずにいた。
「ニ……ニン! ニン! ンニィ……♡♡♡」
ダディの尻がこんもりと膨れ上がり、何かの液体が橋の西側へ向けて流れていった。