2.慶應4年6月 箱館港
慶應四年六月の半ば――大政奉還に続き、江戸城が新政府に明け渡されてから二ヶ月後のある日、使い古したお祭りの団扇を片手で扇ぎながら、椿は機嫌よく箱館港沿いを歩いていた。
今日は少しばかり多めの収入があって、こんな時は景気づけに自然と歌が口をついて出てくる。
「アロン ザンファン ドゥ ラ パトリー、ル ジュール ドゥ グロワール エ タリヴェ!」
じんわりと汗ばむ季節になったが、潮風に当たれば涼しいものだ。
「マルショーン マルショーン!」
気持ちが高ぶってきたところだったが、椿は立ち止まざるを得なかった。
「すみません、お嬢さん。悪いがちょいと道を教えてくれないかね?」
「あ、はい。どこに行くんですか?」
歌っているところを邪魔されてちょっとむっとしないでもなかったが、道を尋ねてきた男が、目尻の下がった意外と優しい風貌で、丁寧な態度だったので、椿は笑顔で応じた。
「箱館病院に行きたいんだよ。地図に載ってなくてねぇ」
「天神町ですよ。港に沿って歩くと異人居留地が見えるから、そしたら左手に向かえばわかりますよ」
男が示した地図はかなり古いもので、病院が描かれていないのも当然だった。
「そうか、古い地図じゃあ仕方ねぇな」
決まり悪そうに笑った男は、椿に礼を言うと足早に去っていった。お兄さんと呼ぶには年を食っていそうだが、若く見えてそれなりにいい男だと椿は思い、そしてまた上機嫌で異国の歌を歌い出した。