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16.明治2年4月 新政府軍上陸

「そう、フェリックスがいなくなっちゃったのね」

 事の顛末を金太郎から聞いた椿の瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。

「あーもう、辛気くせぇ! 死んじまったわけじゃねぇんだ。ここは一つ、フェリックスの無念を晴らすために花街にでも……、いてっ」

 一の調子に乗った声がうめき声に変わった。フェリックスの無念とはひどい。むしろそういう言い回しの方が戦死したみたいじゃないかと、金太郎が一の頭を小突いたのだ。

 またもや景と喧嘩別れした一であるが、とりあえず金太郎や椿、そしてアンリとの集まりには顔を出してくれる。内心はきっと落ち込んでいるのだろうが、友達付き合いまで避けてしまうほどの苦痛ではなさそうだ。

 ファーブル家の客間は小さな小さなパリだった。夫人が焼いてくれたマドレーヌという洋菓子はふわふわで程よく甘く、椿も金太郎も大好きになった。フランス語でおしゃべりに興じていると、本当にフランスにいるかのような錯覚に陥る。

 フランス語がわからない一は当初こそ「金ちゃん、通訳、シルブプレ!」などと言っていたが、そのうちいちいち通訳してもらうのが億劫になり、気にしないようになってしまった。わからないくせに、雰囲気で話に加われてしまうのはある種の才能と言えた。

 宮古湾海戦の無残な敗北は大きな痛手となったが、後ろばかり向いていても仕方がないし、椿と共にファーブル家で過ごす時間くらいは明るいものにしたかった。

 洋裁の腕も上げた椿の服は、随分前から洋装に変わっていた。今日はクリーム色のワンピースを着ており、おしゃべりをしながら次の服を縫っている。

 おしゃれ好きなファーブル夫人の手によって、椿は完全に江戸の小娘からパリジェンヌに変身した。体調がいいのか少し赤味の差した頬と唇は愛らしく、癖毛の長い髪も品の良いレースのリボンでまとめられていて、椿はまさに温室で咲き誇る花のようだった。

 金太郎は毎日椿を訪れた。戦闘開始までそれほど残された時間はなかった。宮古湾で我が方の軍艦を撃退した敵の士気は大いに上がっているだろうし、そのまま北上していつ蝦夷地に上陸するとも限らない。

 金太郎と椿が二人きりで逢う時はいつもフランス語を使った。誰に聞かれるわけではないが、その方が秘密を共有しているようで甘美な緊張感があった。

 何度となく金太郎は椿に「ジュ・テーム」という言葉をささやいた。しかし、将来の約束を口にすることはためらわれた。

 椿が自分を信じてくれていることは力になったし、榎本の蝦夷地開拓という夢を実現させたいという気持ちは変わらなかったが、いかんせん戦は戦だ。一など臆面もなく景に「凱旋した暁には俺の嫁にしてやる。待ってろ」と宣言し、かえって景に鼻で笑われていたものだ。

 四月も上旬を過ぎようとしていた頃、近々新政府軍が攻めてくるという噂が市中に流れ、箱館の人々は避難の準備に追われることになった。そんな状況だったので、今日こそ椿に何らかの約束をしよう。そう思って五稜郭を出た金太郎はすぐに呼び戻され、とうとう新政府軍が蝦夷地に上陸したことを知った。

 幹部たちは苦渋の表情を浮かべ、作戦を論じ、慌てて出陣させる軍の編成を考えた。なぜ慌てたのかと言えば、新政府軍が予想外の場所に上陸したからだ。

 大鳥と土方は自ら部隊を率いて出撃した。金太郎は五稜郭の砲術部隊として、新選組に属する一は市中の防衛のため箱館に残った。

 二十日ほど一進一退の戦況が続いたが、海でも陸でも新政府軍の圧倒的な兵力と最新型の装備の前には退却を余儀なくされ、大鳥は全軍を五稜郭に退却させる決断を下した。

 そして、幕府軍が失ったのは拠点だけではなかった。

「アンリ!」

「金太郎……。ここで別れるなんて俺の本心じゃないよ。もっと一緒に戦いたかった!」

 アンリの悲痛な叫びはその場にいる皆の心を代弁していた。

 榎本総裁はいよいよ戦況に暗雲が立ち込めると、今まで苦楽を共にしたフランス軍の同志たちの行く末を考え、箱館から退避させるという決断を下した。

 ブリュネは一度は拒否したものの、領事館からの勧告もあって泣く泣く退避の用意を部下たちに命じた。金太郎は箱館港沖に停泊しているフランス軍艦コエトロゴンの艦長宛に文書を送達し、艦長は軍籍を離れた自国民の収容に同意した。

 文書を作成している間、金太郎は静かに涙を流した。国際問題に私情を挟んではいけないことはわかっていたが、もうこれきり二度とブリュネやアンリや、彼らの部下の真面目で陽気なフランス軍人たちと戦う機会はないのだと思うと、悲しさと悔しさを堪えることはできなかった。

 彼らは金太郎の師であった。軍事的技術や規律だけでなく、人としての師であり、特にブリュネの存在は闇の中の灯台に等しい。

「これ、君が持ってるといいよ」

 いよいよ別れの時、アンリが金太郎に小さな冊子を差し出した。それはフェリックスが常に携帯していたスケッチブックで、中身をぱらぱらとめくるとアンリが金太郎に譲った理由がわかった。

 大きな瞳と特徴ある癖毛の少女の横顔が鉛筆で描かれている。もちろん、椿だ。

 余白には悪戯心からか、「マダム・タジマ。日本で出会った最も可憐な少女」という一文が付けられていて、金太郎は思わず「フェリックスの奴……!」と唸った。

 フランス人たちが仏軍艦に無事に収容されると、五稜郭は灯が消えたように重苦しく暗い雰囲気に包まれた。大鳥は生来の明るい性格でてきぱきと立て直しの指示を出し、笑顔を絶やさずに部下を励ましている。一に言わせれば、京都で活動していた頃の土方は恐ろしくてなるべく近づきたくない存在だったらしいが、今の土方は何かを悟ったかのように穏やかで、大鳥とは違った優しさで部下の不安を払拭しようと努めていた。

 敵は全軍を撤退させた幕府軍を深追いしてこなかった。だから地獄のような猛攻の日々が嘘のように感じられたが、いつどこで戦闘が開始されるか予想がつかず、緊張感を緩めるわけにはいかない。

 最後の戦いはじわじわと近づきつつあった。

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