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14.明治2年2月 沖ノ口番所

 吹きすさぶ風が開港場の水際の通りを吹き抜け、椿は思わず身震いをした。

 外国人には不人気の、幕府が指定した外国人居留地の横を通り、椿は目的の場所の付近までやってきた。

 道の反対側の一角には洒落た洋風の茶屋があり、早朝にも関わらず明かりがともって騒がしい。食器が触れ合う音に混じって、時折、女の高い笑い声が響いている。

「すみません……」

 新選組が屯所に使っている沖ノ口番所という役所から、寝起きらしい青年が伸びをしながら出てくると、椿は声を掛けた。

 隊士は欠伸を途中で無理やり引っ込め、椿に近づいた。

「何だ?」

「あの、三番隊の佐々木一くんはいますか? 私は彼の友人なんですけど、急いで話したいんです。椿と言えばわかります」

「あいつ何かやらかしたのか? ちょっと待ってろ」

 隊士は屯所の中に入り、入れ替わりに数人の別の隊士たちが出てきた。朝の当番か何かで屯所の裏側へ消えていった。

 屯所の前の茶屋からは遊女らしき女と商人風情の男が寄り添って出てきた。椿は真っ白な息を吐いて、俯いた。

「椿ちゃん! 寒いよ、中へ入ってくれ」

 仲間の隊士から予想外の訪問客のことを聞いた一は、慌てて屯所の入口に駆けつけた。

「珍しく金ちゃんがここに泊まってたんだ。夜会で夜更けまで飲んでたみたいだぜ」

 金太郎がここに! それを聞いた椿は足を止めた。顔を合わせるのは気まずいのだ。

「助けて、一くん」

 昨晩の金太郎の冷たい仕打ちを思い出し、椿の瞳からは大粒の涙が溢れ出た。

「どうしたってんだよ!?」

「私は金太郎くんが大好き。金太郎くんもそうだと思ってた。でも、すごく嫉妬するのよ。私が他の士官に色目を使ってるって。私が浮気してるから嫌になったって言うの。私、どうすればいいの?」

「そうなのか? だとしたら別れるべきじゃねえの? 俺はお景ちゃんに遠慮しないし、あいつも自由にやってる。楽しくなきゃ一緒にいる意味はねぇよな」

 初めて聞く金太郎の嫉妬に、一は首を傾げた。金太郎の心はいつだって椿に向けられていて、不器用ながら暖かいものだとばかり思っていた。

 もしかしたら夜会でしこたま飲んで、五稜郭の兵営に戻らなかったのには訳があるのだろうか。

「金ちゃんを呼んでくるよ」

「だめ! 会いたくないわ」

 踵を返した一の袖を掴んだ椿は、すぐに苦しそうに咳をし始めた。

「ずっと苦しいの。咳だけじゃなくて心も……」

「とりあえず家に帰りな。巡察が終わったらまた話聞いてやるからさ」

 一に背中をさすってもらった椿は頷いて屯所から離れようとした。

ところが、屯所の前の垣根を越えたところで「佐々木! 食事の時間だってさ」という金太郎の声が聞こえ、椿は咄嗟に垣根の陰に身を隠した。

「なぁ、佐々木……。俺さ、別れることにしたよ、椿と」

「唐突だなぁ。金ちゃんってそんな移り気だったっけ?」

「……初めて椿のフランス語を聞いた時、俺は砲術の勉強や幕府への忠義以外の幸せがあるってことを知ったんだ。あいつの可愛いところは純粋なとこだ。俺は椿が信じてくれるから、新政府軍とのこれからの戦いも怖くはなくなった。でも、俺はもう椿と一緒にはいられねぇ」

 さっきから金太郎は視線を地面に向け、一と目を合わそうとしていない。

「……椿ちゃんが何かしたのか?」

「あいつはフランス語ができるのをいいことに、外国人に媚を売ってる。俺の前でも構わず佐藤といちゃつくし。そのうち、幹部は金を持ってるから、大鳥さんや土方さんにも色目を使うかもな!」

 言ってることが意味不明だと一は呆れた。苛つきを無理やり笑って押さえようとしている親友は、何かに打ちひしがれているように見える。

「本当のことを言ってくれよ。一緒に戦ってきた仲じゃねぇか! 金ちゃんが嘘ついてることなんかお見通しだせ?」

 一は金太郎が真実を話してくれるのを辛抱強く待った。二人とも朝食が待っていることなど忘れ去っていた。

 とうとう金太郎は事実を白状した。

「……椿は胸をひどく患ってるんだ。昨日の夜会で佐藤が詳しく話してくれた。あいつ、医術の勉強もしてたから。俺も何となくは気づいてたんだけどな。蝦夷地の寒さが致命的だったんだと」

「不憫だな」

「俺の椿は冬を生きられない。椿に必要なのは俺のアムールじゃなくて、金と暖かい場所なんだよ」

「……助からないのか?」

「きっと長くはねぇよ」

 少し太陽の日が見え隠れし始めた。二人の間に沈黙が流れ、そして垣根の向こう側から号泣と咳が聞こえてきた。

 金太郎が垣根の表に回ると、冷たい地面に膝をついてしゃくりあげる椿の弱々しい姿があった。

「聞いてたのか」

(よりによって屯所に来てたなんて……)

 運のなさを呪ったが、椿からさっきの会話の記憶を消し去ることはもはや不可能だった。椿は金太郎の姿を見るや否や、両腕を彼の首筋に回してしがみついた。

「向かいの茶屋に入ろう。こんなに冷えちまって……悪かったよ」

 体を包み込むようにして、金太郎は椿に寄り添い茶屋の中へ入り、小さいストーブの近くのテーブルに座らせた。後からついてきた一もいつになく神妙な面持ちで椿を見下ろしている。

 椿は金太郎の温もりを感じながら、髪を愛撫している金太郎の手に自分の手を重ねた。少し息苦しさが収まってきたようだ。

 すると、店の奥の方から女の嬌声が飛んできた。

「お景ちゃん!? どうしてこんなところに。あいつ、外国人と一緒だ」

 肩を露出させた濃紺の洋服を着て派手な首飾りをした景が、暖炉の前で若い外国人と笑い合っている。しかも、景の細い腰にはその男の腕が回されていて、外国人は隙あらば景にキスをしようと狙っているように見えた。

「畜生、あの女狐……」

 そう吐き捨てると、一は店の奥へ突き進んだ。

「金太郎くん。私、もう帰るわ」

「もう?」

「私は一人で大丈夫よ。あなたが私を遠ざけようとした理由がわかったから。……ちゃんと凌雲先生に診てもらうわ」

「駄目だよ。君が一人っきりってことは、俺も同じように孤独なんだぜ?」

 突然、盛大に食器が割れる音が響き渡り、他の客たちの囃し立てる声が上がった。

「このメリケン人は、あたしと踊りたかっただけなの! あんたがいない間、誰と付き合おうがあたしの勝手でしょ!」

 すらりとした肢体を真っすぐに伸ばして不敵な笑みを浮かべているのは景だ。

「くそっ。金でももらってんのかよ?」

「もらっちゃ悪い?」

「おまえ俺を何だと思って……」

「なにさ、旦那にでもなったみたいね。あたしは自由がほしいのよ」

 あくまでも挑発的な態度を変えようとしない景のことが、一は理解できなかった。なぜ自分が夜中も市中の巡察を行っている間に、この女は知らない外国人と洋風茶屋で会っているのか。景の職業がどうこう以前に、これじゃあ恋人としての立場がないではないか。

「じゃあもう自由になっちまえ。贅沢ばっかりしやがって。おまえなんかと付き合ってたら新選組の恥だぜ」

 景は悲しかった。このところ一はめっきり忙しいらしく、会いに来てもくれなかった。それはつまり、新政府軍との戦いが近づき、箱館の守備や戦闘の準備にますます余念がなくなってきているということだ。

 外国人が貢いでくれる金は、一度も贅沢なんかに使ったことはない。少しずつ貯めていて、一のために差し出すつもりでいた。でも、今の一に何を言っても、言い訳としか受け取ってもらえないだろう。

「さよなら、一くん!」

 景は持っていた布袋から銭を掴み出し、思い切り一に投げつけて去って行く。

 呆然とそれを見送ると、一はばら撒かれた銭を足で蹴飛ばし、金太郎と椿がいることも忘れて屯所に引き返したのだった。

「椿、俺たちはあの二人とは違う。蝦夷地の冬をひとりぼっちで乗り切れるわけねぇだろ」

「うん」

「せめて春までは……」

 金太郎はそこで言葉をつぐんだ。春になれば戦が再開される。どのみち伝習隊砲術士官の金太郎と椿の道はそこで別れなければならないのだ。

 寄り添う少女の大きな瞳は、再び情熱が灯っていた。体はもう十分に蝕まれてはいるが、椿の心は金太郎への信頼で満ち溢れていた。

「春が来ても、私は金太郎くんのものよ」

 そうして椿は金太郎の耳元に彼女にとっての希望の言葉をささやく。

 ――ヴィヴ・ラ・メゾン・トクガワ!

 金太郎の瞳には、ただ一人の勝利の女神が映っていた。

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