第一話 辺境の危機と黒い拳 1
仄暗く山深い森の、その場所だけに陽光が射し込んでいた。
色とりどりの花が咲き、清水が滾々と湧き出る泉は陽光に格別輝いている。泉に寄り添うように大樹が根を張っている。幾筋もの獣道がこの泉に続いている様子で、この場所が山に住む動物たちの不可侵のオアシスであることが想像される。
ふいにギシギシと音がして、オアシスを取り囲むように生えている樹の一本が大きく傾いた。羽を休めていた鳥が飛び去っていく。傾いた木はそのまま隣の木にもたれかかるような形になって止まる。その陰から人間が一人、突然の陽光に目を細めながら現れた。
「やっ、と開通した」
体格のよい男だ。上半身をはだけさせ、片手に持った斧は肩で負わなければならないほど大きく、重い、特注の品だ。斧を地面に突き刺すようにして置き、腰に携えた大振りのナイフで伐りきれなかった倒木の残りを丁寧に伐ってゆく。そうして完全に伐られた木は寝かせておいて、男は泉の傍に腰かけると湧水を飲んで一息ついた。
「やったことに対して罰が重たすぎるんだよ」
ついでに顔も洗う。湧水はひんやりと心地良い。
「村人全員でやるべき仕事を『村の家畜を一頭いただいた』罰として、って……」
男は自分が伐り開いてきた跡をぼんやりと眺めた。切り株がなだらかな山の傾斜に沿って続いている。切り株を抜き取れば、人間が三人並んでも余裕があるくらいの幅の道が出来るだろう。
「……ま、適材適所、ってことだな」
陽射しを浴びてのんびりしていると、陽光を受けて輝く泉がふんわりと青白く発光しはじめた。
「おお、綺麗なもんだね」
それに気づいた男は、真っ黒の右手を泉に浸してみる。青白く発光した泉は透明度が急激に下がり、浸した手はトプンと吸い込まれるように泉の中に消えていく。その光に誘われるように、虫や鳥や獣たちが、男の存在も忘れたかのようにやってくる。
半透明の体をした猪のような形の生き物が男の隣で泉の水を舌で舐めはじめたころ、切り株の横から、男より四、五歳若そうな男が現れた。男、というより少年と言った方が正しいくらいの姿だった。肩から大振りの鞄を下げている。
「やあ兄さん、お昼を持ってきたよ……ってスケルトンボアじゃん、珍しい」
泉の近くに腰かけた、兄さんと呼ばれた男は平然としている。
「珍しいのか?木を伐り倒している時にいくらでも見かけたぞ」
「魔獣だよ、あまり人里に姿を見せない。随分と大人しいんだね」
「多分、ここで争いを起こすと面倒だということを知っているんだろうな。本来なら捕食関係や縄張り争いを起こすだろう動物も順番で泉の恩恵に与ろうとしている」
「さすがはマナスポット、ということだね。ちょっと良いかな?あ、お弁当持ってて」
少年は男にお弁当を手渡すと男と場所を交換し、泉の水をそっと片手で掬ってみる。清水はキラキラと発光しながら少年の掌からいくらか滴り落ち、残った清水のいくらかはそのまま少年の掌に吸い込まれるように無くなった。
「わあ、すごい。一掬いで魔力がいっぱいだ」
「俺は泉に手を浸しただけで十分だったわ、本当に“さすが”としか言いようがないな」
切り株で少年の持ってきた昼食を頬張る。
「で、ナギは俺の手伝いに来たのか?」
「違うよ。僕は“兄さんがきちんと罰を受けているかを見張る”ために来たんだよ」
ナギと呼ばれた少年はニヤッと笑った。男はこの笑いの意味を十分に理解していた。
「なるほどな、そういう名目」
「いやいや、ここまで一人で木を伐り倒してきたってだけでも十分すぎるでしょう」
「その上俺はこれから切り株まできっちり掘り起こす、ってな」
「また良いように使われちゃうよ?」
「俺が盗みをしたことは事実だからなぁ」
男が最後の一口を頬張ると、それを合図にしてナギも立ち上がった。
「それじゃあ兄さん、ちょっとどいてくれる?」
「お、何するんだ?」
「“何もしない”よ。ただ、何か起こりそうだな、って思ってね」
ナギはお弁当の入っていた鞄から一切れのメモを取り出すと、それを両掌で「パンッ」と叩くように挟む。警戒心の強い小動物が泉を去っていく。スケルトンボアは一瞥しただけだ。
ズズズ、と何かが蠢く音がする。影響のない立ち位置から男が切り株をジッと見ると、それは細かく振動しているように見えた。
「それ以上近づくと、沈むから、気を付けて」
「おっと、了解。それにしても随分手の込んだ魔法を、しかも広範囲で」
「何のことかな?マナスポットの魔力は確かに凄かったけど」
「なるほどね」
あくまで白を切るつもりであることと、マナスポットのでたらめな魔力の二つについて、男は十分に理解した。それと同時に、自分の弟の魔法の才能について改めて驚愕する。
それから三十秒ほど経った。既に男が目を凝らしても切り株が振動している様子はない。ナギは大きく息を吐いて、それから男に向かって言った。
「局地的な地震動があったみたい」
「おっとそいつは怖いな、切り株が簡単に抜けそうだ」
男は両手を伸ばしても円周に届かない切り株を抱えて力を込めた。思っていた以上にあっさりと抜けたらしい。切り株は左側へと投げ飛ばされた。近くにいた兎が驚いて逃げ去っていくのが見える。男は瞬間唖然としたが、すぐにその顔に喜色が溢れた。ナギの方を向いて言う。
「ナギ、罰は今日中に終わるだろうな。このまま切り株を抜き取りながら帰ろう」
「そんな草むしりのように切り株を抜くことが出来るのは、ブラック兄さんくらいなもんだよ」
ブラックと呼ばれた男は、一つ一つ切り株を抜きながら、ナギと一緒に山を下って行った。
「なあ、一つ忘れ物が」
「何?」
「泉の木のそばに、特注の斧」
「……あれは重たすぎるから、僕は持って来れないよ」
「だよなぁ」