おもちゃの指輪とはとこ殿
父親は仕事のためほとんど帰らず、母親は幼い頃に他界。
それでも父娘ふたりで仲良く暮らしていたが、父親が海外赴任することとなった。
娘は今通っている高校を変わることを望まず、家事も何もかもひとりで出来るから家に残りたいと主張するが、心配性の父親はなかなか首を縦に振らない。
そんな状況を知った親戚からの、同居の申し出。
お話の中ならば、ありふれるほどにありふれた、既知感しかない設定。
その家が、やたらめったらお金持ちなのも。
その家に、見目麗しい息子がいるのも。
ベタ、というよりも、ベッタベタ。
恋愛小説ならば、一つ屋根の下、親戚の息子と恋に落ちて、となるはずだ。
だが、千路はそんな規定路線認めない。
恋に落ちたりなんかしない。
絶対に、だ。
***
普段は締め切られている裏門をよじ登って越え、千路は先に放り投げておいたスクールバッグを拾い上げた。
慎重にあたりの気配を探り、異常がないことを確認して、やっと歩き出す。
案外うまくいった。まあ、年頃の娘が制服のスカート姿で――下にショートパンツを穿いているとはいえ――門をよじ登るとは、表門前で自分を待っている彼らも考えるまい。
彼らは仕事の一環としてわざわざ迎えに来てくれているわけで、そんな彼らを無断で置き去りにすることに若干の罪悪感もあるが仕方ない。嫌だと言っているのに、目立つ黒塗り高級車で乗りつけるあちらが悪いのだ。
どうして電車で五つだけの通学路を、行き帰り送迎されなければならないのだ。しかもボディ・ガード付で。おちおち友達との寄り道もままならない。
「おじさんも、過保護なんだから」
ひとりぼやくと、千路は友人との待ち合わせ場所である駅前のファストフード店へと急いだ。
一週間前、千路は父・東堂道昭の海外赴任のため、父の従弟・東堂頼道の家に預けられた。
彼は、インテリアのデザイン・販売を行なっている会社の社長で、かなり裕福な人だった。会社をつくったのは彼の父――千路の父の叔父――だったが、現在の会社の発展は頼道の力によるところが大きい。
そんなやり手でありながら性格は朗らかで優しく、家――邸宅と呼ぶのがふさわしい――にやって来た千路に向かって笑顔で「自分の家だと思って過ごしてくれればいいからね」と言ってくれた。
本当にいい人なのだが、送迎だけはやめてくれと言っても聞き入れてくれない。あと、千路のためにやたらとお金を使おうとするのもやめてほしい。
居候の身の上で、邪険にされるならば分かるのだが、あの家の人間、誰も彼も千路に甘すぎる。頼道の妻である初音さんも「私、娘が欲しかったのよ」と笑うばかりだ。
「どしたの、千路ー?」
ため息をついたところを友人に見咎められ、千路はふるりと首を横に振った。一度も染めたことのない漆黒の艶やかな髪は短めに切り揃えているのだが、それでも伸びてきた毛先が首筋をくすぐった。
「ん。何でもない。行こ」
この後は、今いる友人三人と一緒にカラオケへ行く予定だったのだが――。
「あっれぇ」
背後から響いた声に、びくり、と反射的に身体が強ばる。
明るく朗らかな、でもどこか艶っぽい、男性の声。知っている声だ。
しかし、振り返らない。かたくなに前を向いて足を急がせた――のに。
「ちょっと待ってよ」
声の主はあっさり千路に追いつくと、肩に手を置いた。ぎしぎしぎし、と音がしそうなほどぎこちなく後ろを振り向くと、案の定、よく知る顔がこちらを見て笑っていた。
人懐こそうな笑顔を常時浮かべている整った顔立ち。天然だという明るい髪の色。無造作に見えるけれど、彼によく似合った髪形。着飾っているわけではないのに彼のスタイルの良さを引き立てる、どこか品のいい服装と着こなし。
爽やか系美青年の見本のようだな、と彼を見るたびに思う。見た目だけは。
千路と一緒にいた友人たちは、突然現れた見目麗しい年上の男性を前に揃って呆けている。
「ほら、やっぱりチロ助だ」
居候先の――頼道と初音の一人息子で、千路のはとこで、四つ年上の幼馴染。
そんな周囲の反応に頓着することなく、彼は幼い頃からの呼び方で千路を呼ぶと、こちらの顔を覗き込んだ。髪の色同様少し明るい色合いの目がまっすぐ千路の目を捉える。
「どーしてこんなとこ、いるの?」
分かっているくせにそんなことを言う。千路はぷいっとそっぽを向くと、つっけんどんに言い放った。
「友達と遊びに来たんです。ちゃんと許可はもらってますよ。道流さんこそ、どうしてこんなとこいるんですか?」
千路の通う高校の最寄り駅から二駅、道流の通う大学の最寄り駅から三駅離れた場所にある繁華街。この前さりげなくリサーチした際には、あまりこのあたりには顔を出さない、と言っていたから油断していた。
「チロ助と一緒」
そう言い返され、少し離れたところにこちらを見ている大学生らしき一団がいるのにやっと気づく。男性も女性も垢抜けていていかにも道流の友達らしい。その中の女性の幾人かが、どうにも好意的でない目つきできつく睨んできていた。
これは、あれか、私の道流さんに近づくんじゃねーよってやつですか。
「そうですか。それではお互い楽しい時間を過ごしましょう」
これは即時撤退が最良策、とひとり納得し、そのまま立ち去ろうとしたのだが、肩に置かれていた道流の手にぐっと力が込められた。
「いやいや、そうもいかないよー?」
いつの間にか反対の手にはスマホ。さっさと誰かを呼び出して耳に押し当てる。
「あ、竹林? 忙しそうだねぇ。もしかして、チロ助が逃走して大牟田と顔面蒼白捜索中かな?」
電話に出た相手をからかうような口ぶりで切り出した。
竹林、は千路を送迎する黒塗りの運転手。大牟田、はボディ・ガードだ。
「あはは、そっかぁ。これからはもうちょっと気をつけるべきだね。で、そのチロ助なんだけど、俺が偶然捕獲したから」
捕獲とは失礼な。まるで野生動物のような扱いではないか。むっとむくれたチロの顔を面白そうに眺めながら、道流は慣れた様子で命じる。
「うん、迎えに来てよ。○○駅前の喫茶店にいる。俺ももう今日は帰るや」
じゃ、と通話を終了すると、彼は自分を待っていた一団に手を合わせた。
「ごめん、今日だめになっちゃった」
先ほどまで千路をすごい目で睨みつけていたお姉さんのうちのひとりが「えぇええ」と声を上げた。
「ミチ君来ないの? つまんないよぉ」
上目遣いで瞳をうるうるさせて訴える姿は、先ほどの姿からは想像できない。オンナってすごいな、と自分の性別を棚上げにして千路は感心した。
「ごめんね、沙希ちゃん。また今度」
それなのに道流はさらっと彼女の執心のまなざしをかわし、千路の友人たちに向かって行った。
「君たちもごめんね。ちょっと急用で、千路は帰らなくちゃいけないんだ」
また誘ってあげてほしいな、と微笑まれ、友人たちはがくがくとうなずく。いや、そこはもうちょっとごねてくれ、と千路は内心で突っ込んだ。
だが、道流が口先のやり取りで負けるところは想像もつかない。残るは実力行使――体力のすべてを振り絞っての逃走しかないが、どうせ帰る家は一緒だし、そんなことしたら後が怖いような気がする。
見つかった時点で千路の負けはそもそも決定しているのだ。
どうにもままならない。
千路は深いため息をこぼした。
「ねー、チロ助。嘘はよくないと思うよー」
運ばれてきたホットコーヒーを口元へ運びながら、道流は微笑みながらも呆れたような目つきでこちらを見る。千路は自分の目の前にそびえるチョコレートパフェの攻略に集中しているふりをして、その言葉と視線を無視した。
「んもー。昔の素直で可愛いチロ助はどこに行っちゃったんだか」
やれやれと首を振る彼を一瞥し、クリームをすくって口へ運びながらぼやく。
「人のこと言えないでしょ」
店内の程よいざわめきにまぎれて聞こえないかと思ったのだが、道流はきっちり聞き取ったらしい。地獄耳め。
軽く目を見開くと、妙に楽しげに首をかしげる。
「ふうん? チロ助から見て、昔の俺ってどうだったの?」
お互い、幼い頃から親戚の集まりでよく顔を合わせた仲だ。
四歳差とはいえ、子どもはそれほどいなかったから、千路の面倒は大概道流が見てくれていた。千路も彼には懐いていたし、言うことはよく聞いていた。
「昔の道流さんは……もうちょっと真面目でした」
「もうちょっとって!」
あははー、と軽く笑い流してから、道流はさらに問いかけてくる。
「じゃあ、今の俺は?」
「チャラい」
ずばっと言い切れば、彼は「ぶふっ」とふき出した。そのままけらけら笑い続け、息苦しそうにしながらもなかなか笑いやまない。やっとひーひー言いながら笑うのをやめたかと思えば、身を乗り出して千路の顔を覗き込んできた。
「ねぇ、チロ助。俺が昔みたいな“いいお兄さん”だったら、チロ助は大人しく言うこと聞いてくれるのかな」
この人、いちいち間合いが狭い。
クリームの上に鎮座していたチョコレートケーキを味わってから、千路はわずかに身を引いて首を横に振った。
「納得できないことだったら、聞きませんよ。もう、ちいさな子どもじゃありませんから」
千路が黒塗り高級車での送り迎えを拒否するのは、それが必要ないことで、やめてほしいことだからだ。
父親について行かなかったのは、勉強のことだけが問題だったわけじゃない。これまでの友達とか、その友達との放課後の寄り道とか、そういうものをなくしたくなかったからだ。
今まで当たり前にあった、千路の大切なもの。
それなのに、今の状況はとてもじゃないけれど“今までどおり”じゃない。送迎のせいで友人とろくに遊べなくなったり、余計な注目を浴びたり、そんなのは嫌なのだ。
そして千路は、納得できないことに従うほどしおらしい性格でもない。頼れる人の後をついて回っていた幼い頃ならともかく、今は自分の意思を言葉と態度で示せる年齢になった。少しばかり、独りよがりだとしても。
千路は道流の目をまっすぐに見返した。
「道流さんが変わったように、私も変わりました」
だから、もしもの話に、意味はない。
それだけ言うと、今度こそ千路はパフェ攻略に本腰を入れる。迎えの車が到着するまでに、器の底まで到達しなくてはならない。
しばらくの間、ふたりは互いに何もしゃべらなかった。再び道流が口を開いたのは、刻一刻と融解していくパフェと戦う千路のスプーンが、かつん、と底を突いたのとほぼ同時だった。
「そっかぁ」
軽い調子なのに、どこか寂しそうで、残念そうな声。スプーンをくわえたまま顔を上げれば、道流は目を細めて――まるで子どもの成長をまぶしがる親のような視線で――こちらを見つめていた。
「じゃあ、チロ助はもう、俺のこと“一番大切”にはしてくれないんだね」
思わぬことを言われ、千路はスプーンを落としそうになった。
彼が覚えていたことへの驚き半分、幼い日の己の言動への気恥ずかしさ半分で、意味もなく視線が泳ぐ。
「なっ、に言ってるんですか! 何年前の話ですかそれ!!」
動揺を押し殺して何とかそう言い返した千路に、軽く首をかしげた道流が平然と答えた。
「えーと、俺が九歳のときだったから、チロ助は五歳で――十一年前だねぇ」
そんなきっちり正確に答えてほしかったわけじゃない。穴でも掘って今すぐ埋まってしまいたかった。
『指輪はね、特別なのよ』
病床にあっても、千路の母・千香は決して結婚指輪を外さなかった。闘病の間に指が痩せて、スカスカになってしまっても、大切そうにはめていた。
とくべつ?
そう訊ねた千路を抱き寄せると、千香は内緒話をするようにささやいた。
『そう、特別。うんと大切な人にあげるもの。自分のこと、うんと大切にしてくれる人からもらうもの』
そう言う母の左手の薬指には、控えめな光を放つ透明な石と銀色の細いリングがはまっている。
『特に、この指にはめる指輪は特別の特別』
千路の視線に気づいたらしく、千香は自分の左手を娘の前に掲げて見せた。
『この指輪はね、お父さんとお母さんの約束の証拠なの。お父さんはお母さんを一番大切にしますって言ってこの指輪をくれたの。だからね、お母さんもお父さんのことを一番大切にしますって言って受け取ったの。だからね、この指輪はとってもとっても特別』
よく分かんない、と頬を膨らませた千路の顔を両手で包んで、千香はくすくすと笑った。
『いいのよ。今は分からなくても』
その後で、少しだけ表情を引き締める。
『でもね、千路。軽い気持ちで指輪を贈ったり受けとったりしてはダメよ』
やっぱりよく分かんない、とますます頬を膨らませると、母の両手に頬を押しつぶされた。ぶー、と空気が漏れる。その様子を笑って見つめながら千香がぼやいた言葉を、千路は今でも覚えている。
『心配だわぁ。この子、どこか抜けてるから』
その後、母の容態は少しずつ悪くなり、千路は父が仕事へ出ている昼の間親戚の家に預けられることが増えていった。頼道の家にもたびたび世話になった。
それは、ある日の午後のこと。おこづかいで買い物がしたいと主張した千路は、付き添いの道流に連れられ小さな玩具店に出かけた。もちろん五歳児のおこづかいなどたかがしれているが、千路は小銭を握り締めて店内をうろうろしているだけで十分楽しかった。
その指輪を見つけたのは、偶然だった。女の子用のおもちゃが並ぶ一角の、目立たないすみっこ。
プラスチックのルビィと、すぐに銀色が剥げてしまいそうなリングの、安っぽい指輪。
だけれど、それは千路の目には周りのおもちゃよりずっと魅力的に見えた。
当然、そう高いものじゃなかったはずだが、千路の手持ちのお金では足りなかった。
あきらめきれず、その前でじっと動かなくなってしまった彼女を見て、道流は首をかしげて身をかがめた。
『ほしいの?』
渋面でうなずき、それから首を横に振った千路の顔を見て、彼はだいたいの事情を察したらしい。自分のポケットから財布を出すと覗き込み、微笑む。
『買ってあげよっか』
思いもしなかった申し出に千路は目を丸くして、それから首を先ほどより激しくふるふる振った。
『どーして?』
断られるとは思ってなかった道流は不思議そうにしていたが、千路は首を振り続けた。
『ゆびわは、とくべつなんだもん』
ぽつりとつぶやくと、道流の顔にますます疑問の色が浮かぶ。
『特別?』
『そうだよ! おかあさんがいってた。ゆびわは、わたしのこと、うんとたいせつにしてくれるひとからもらいなさいって』
小さな身体を強ばらせて一生懸命に言葉を紡げば、目の前の少年は笑み崩れた。
『だったら大丈夫。ぼく、チロ助のこと、うんと大切にしてるもん。ちがう?』
そう言い返され、千路は首をひねった。母が言っていたことと何か違うような気がしないでもないが、確かに道流はいつだって千路のことを大切にしてくれる。一緒に遊んでくれるし、おやつも分けてくれるし、本も読んでくれる。
『……ううん。ちがわない』
首をひねりながらも同意した千路に、道流は「でしょー?」と胸を張った。そのまま千路の目の前から指輪を取ると、さっさとお会計を済ませてしまう。
『チロ助、はい』
お店を出たところで道流は袋から指輪を取り出すと、千路の指にはめてくれた。
昼の光にキャンディのような偽物のルビィが輝くのは、左手の薬指。
特別な指輪をはめる場所。
千路は四歳年上のはとこを見上げた。
『みちるくん、わたしのこと、いちばんたいせつにしてくれる?』
道流は唐突なその問いかけに目を瞬かせた。
『一番?』
『うん、いちばん』
真剣そのものの千路のまなざしに少しだけ考え込み、すぐに微笑んでうなずいた。
『うん、いいよ。チロ助のこと、一番大切する』
千路も五歳児に出来る限りの神妙な顔つきでうなずいた。
『じゃあ、わたしもみちるくんのこと、いちばんたいせつにする』
こうして千路と道流はお互いを“一番大切にする”約束をしたのだった。
十一年前の、子どもの無邪気な約束ではないか。もう時効にしてくれ。
意味を分かっていなかったとはいえ、おもちゃの指輪ひとつでずいぶんなものを要求したものだ。五歳の頃の己の大胆さに顔から火が出そうだ。
千路は居心地の悪さにもぞもぞとしながら、口早につぶやいた。
「そもそも、前提条件が崩れてるじゃないですか」
確かに千路はもう道流を「一番大切」なんて言えないが、道流だって千路が「一番大切」なわけじゃない。
大きくなった今なら、最初の約束のときから道流が真面目に答えていなかったことが分かる。それは優しさだったのかもしれないけれど、年下の少女の求めに対しててきとうに話を合わせただけだ。
現に彼はその三年後。十二歳のときにはやばやと彼女をつくったのだから。
少しなじるような調子になってしまった自分の言葉に顔をしかめたが、道流はそんなことは気にしていなかったらしい。
「そういえば、あの指輪まだ持ってるの?」
見返せば、好奇心に満ちた目がこちらを見ている。千路はため息をこぼし、首を横に振った。
「道流さんに彼女が出来たと聞いた際に、川へ投げ捨てました」
ええ、と目を丸くされ、軽く眉を寄せる。
「指輪をくれた相手が万が一浮気者だった場合は、指輪を海に投げ捨てて厄を落とせと母が言っていたことを思い出したものですから。子どもの足で海まで行くのは無理だったので、川で妥協しました」
千香がこの世を去ったのは、千路が六つ、道流が十のとき。
そのときには、もういなかったのだけれど。
「千香さんならいかにも言いそうだけど、何てこと言い残してるんだか」
苦笑した道流は、ん、と首をかしげて固まった。
「ってことはー、チロ助にとって俺は“浮気者”ってこと? もしかしてー、やきもちとか焼いた?」
そこまで口にして、彼は何を想像したのか、妙に嬉しそうに笑った。
「ふふふふー、何それ。かーわいいー!」
「勝手に決め付けないで下さい。やきもちなんて焼いてません。道流さんの信頼度はガタ落ちでしたけど」
きつく睨みつけてやっても、こたえた様子がない。
「心配しなくても、何人彼女が出来よーと、俺にとって特別大切なのは千路だけだよー」
平然とそんなことを言うのはどうなのだ。
「そんな大安売りみたいな“大切”ならいりません」
つんとそっぽを向いて言ってやれば、道流は困ったように笑う。
「そんなこと言わないでさぁ。昔の素直なチロ助に戻ってよー」
ねー、と伸びてきた指に頬をつつかれ、千路はますますむくれた。
「それにさー、俺の“大切”はそんなに大安売りじゃないんだよ? 信じられない?」
片腕で頬杖をついた彼に軽い上目遣いで見つめられても、心乱されたりなんてしない。少なくとも表面上は。
「道流さんの言葉の信頼度は地を這う低さです。信じられません」
すっぱり切り捨てると、相手は珍しく困ったように笑った。
「これって自業自得って言うのかなー」
ぶつぶつ呟いている彼を見つめながら、千路ははっきりと宣言する。
「とにかく、あのときの約束は無効ですし、私は納得できないことには断固として従いませんから」
目指せ、Noと言える日本人、だ。
引く様子のない千路に、道流は小さなため息をこぼした。
あの後、道流が呼び出した黒塗りの車に乗せられて頼道の家に帰ってきた千路は、ベッドに倒れこんで深いため息をこぼした。ふかふかの布団の感触が波立つ気持ちをなぐさめてくれる。
最初は落ち着かなかったこの部屋にも、一週間ですっかり慣れた。もともと居心地がいいようにと心砕かれた部屋なのだから、当然かもしれない。
壁紙は淡い黄緑と白のストライプで床や腰板、窓枠や家具のダークブラウンの木材との対比が美しい。
家具は、今寝転んでいるセミダブルのベッド、勉強用の机、本棚、全身がしっかり映る大きな姿見とは別に、鏡台もある。どの家具もシンプルなデザインだが使い勝手がよく、そして品よく端正な雰囲気だ。
ベッドのシーツやカバー、カーテンは薄いクリーム色。床に敷かれたラグは壁紙と同じ淡い黄緑色。甘くなりすぎず、でも優しげな印象を見た者に与える色合いだ。
家具とファブリックはすべて頼道の会社の商品で、そして、この家具のすべてが千路のために用意された新品だった。初日にこの部屋に通されたときには、ちょっとこの歓迎っぷりが信じがたかった。
むくりと起き上がると、ベッドの上を四つんばいで移動する。このベッドの枕元には、小さな本棚と引き出しが作りつけられている。その引き出しを開けると、千路は中から古いクッキーの空き缶を取り出した。
それは宝物箱だ。
千路は昔から物持ちがよかった。というか、物がなかなか捨てられない子どもだった。この箱の中にある“宝物”だって、幼少時に集めたちょっとしたものがメインだ。捨ててもいいものばかりなのだが、どうしても捨てられずに今日まで来てしまった。
自分で手に入れたものだって捨てられないのだ。人からもらったプレゼントはなおさら捨てられるはずがない。
「どうしてあんな嘘ついたかな、自分」
呟きながら、箱のすみの“それ”をつまみあげる。
プラスチックの安っぽい、おもちゃの指輪。
川に捨てた、と道流には言った、あの指輪だ。
本気で捨てようとも思ったのだが、ついつい持って帰ってきてしまい、以来この箱にひっそりしまわれていた。すっかり忘れていたのだが、頼道の家に居候させてもらうことになった際に思い出し、どうしてだかここへの荷物に含めてしまった。
宝物箱の中を見れば、ほかにも道流からもらったものがちらほら散見される。
綺麗なしおり、珍しい貝殻、海外旅行土産の可愛いメッセージカード……。
特別高いものはないけれど、どれも幼い頃の千路が喜ぶものばかり。
『ぼく、チロ助のこと、うんと大切にしてるもん。ちがう?』
昔の彼は、そう言った。
千路も、その言葉を信じられた。
『心配しなくても、何人彼女が出来よーと、俺にとって特別大切なのは千路だけだよー』
今の彼は、そう言う。
でも、今の千路はそんなこと信じられない。
ちょっと腹立たしい気分になるのは、この苛立ちの矛先を道流に向けるのが見当違いだと自分でも分かっているから。
変わってしまったのは、きっと道流ではなく千路のほうだ。
「別にいいもん」
小さくてもう薬指にははまらなくなった指輪を天井の光にかざしながらぼやく。
「もう無効だって言ったし!」
今度こそ、捨ててやる。そうすれば、自分の心がこれほど波立つこともないはずだ。
そう決意すると、千路は指輪をスクールバッグのポケットへ入れた。
翌日の放課後。千路は自分とほぼ同じ背丈の友人に、ひとつ頼みごとをした。
千路のジャージ――胸元に東堂の刺繍入り――を頭に被り、ほかの友人の陰に隠れるようにして正門を抜けてほしい、というのがその内容だった。
いかにも怪しい頼みごとだが、千路の最近の状況を知り、なおかつ面白いことが大好きな友人は、喜んで引き受けてくれた。
「見てらっしゃい、私のアカデミー級の演技力!」
おほほほ、となぜか高笑いを響かせて友人たちと連れ立って教室を出て行った彼女は、結果を言えば見事に役目を果たした。
友人に囲まれるようにして一緒に歩きながら、正門前に止まった黒塗りの車を警戒するように頭に被ったジャージの下から顔は見えないように視線を送る。いかにもおそるおそるといった様子で正門を抜けると同時に、周囲の友人と一緒に脱兎のごとく駆け出す。当然、待ち構えていた迎えの竹林は昨日に続いての失態を回避しようと追いかけたが――もうひとりの大牟田は、裏門を見張っているのだろう――、一緒に走っていた友人たちが立ち止まると彼の前に立ちふさがった。
「行けー、千路ー!」
「待ち合わせは、さっき話した場所でねー」
「今日こそカラオケに行くぞぉ!」
ご丁寧に、走り続ける千路役の後姿にそう声をかける。千路役の友人も、調子に乗って走り続けながら片腕を上げて見せている。
想像以上に、彼女たちはノリノリだった。
「すみませんが、どいてくださいっ」
がたいのいい青年が女子高生を前にあせっている姿は見物だったが、いつまでも物陰に潜んでいるわけにもいかない。竹林の背中を横目に、千路はこっそり正門を抜け、彼らとは逆の方向へそそくさと逃げ去った。
ひとつ角を曲がり、胸を撫で下ろす。どうにかうまくいったようだ。
ありがとう。持つべきものはノリのいい友だ。
未だ竹林と対峙しているだろう友人たちにしみじみと感謝の念を送った千路は、予定通り隣の駅へ向かう。そこから、電車に乗って今度こそ海へ行こうと思っていたのだが、いつの間にか目の前に立ちふさがっていた人物に邪魔をされた。
ふわふわと綺麗にセットされた髪の毛。清楚な装い。気合の入ったナチュラルメイク。
これで微笑んでさえいれば綺麗だとか可愛いだとか賛辞を送るに不足ない美人なのに、その人の浮かべている表情はどう考えてもご機嫌にはほど遠い。
そして、彼女の顔には見覚えがあった。
「貴女は――」
何も言わない彼女に代わって、千路は口を開いた。
「道流さんのご友人ですね。どうしたんですか?」
確か、名前は沙希さん。
どう見ても通りがかり、という雰囲気ではない。嫌な予感はするが、聞かないわけにもいかない。
「……あなたなの?」
艶やかに色づいた唇がやっと動き、低い声が問いを発した。
はて、彼女は何が言いたいのだろう。
首をかしげ、千路は曖昧な笑みを浮かべた。当方に敵意はありませんよ、と示すための笑みだったが、相手の表情はますます険しくなった。なんでだ。
「あなたが、ミチ君の特別な子なの?」
ぎらぎらと光る目は、逃がさないというように千路を睨みつけている。
笑みを顔に張り付けたまま、千路は内心で盛大にぼやいていた。
これは、どうやら面白くも何ともない勘違いをされている。が、ここで自分が感情的な対応をしたところで、相手を激昂させるだけだということも分かっている。
「道流さんは、ただの親戚のお兄さんですよ」
なるべく軽い調子で言ってみたのだが――。
「嘘」
ばっさりと切って捨てられた。
さすがの千路もカチンと来た。本当のことしか言ってないのに、どうして嘘だと断言されなくちゃならないのだ。
何を根拠に、と言い返そうとした千路より先に、沙希は怒鳴った。
「だってミチ君、あなたが家に来ることに決まってから、変わっちゃった。飲み会誘っても来てくれないし、夕食は家で食べるって言って帰っちゃうし、昨日みたいに何かあったらあなたのこと優先してる!」
大きな瞳は潤み、身体の脇で握り締められたこぶしは小さく震えている。
「それに、ミチ君、ずっと前から告白されるたびに言ってた。『俺、もう特別大切な子がいるんだけど、それでもいいなら付き合うよ』って」
あまりの内容に、直前までの苛立ちが吹っ飛んだ。
感動とか動揺とかではなく、怒りゆえに。
特別大切な相手がいるのに他の女の子と付き合おうとするなど、どういう了見だ。最悪だ。滅びろ。
ここにはいない青年を口汚く罵ってやりたい。
「それに、ミチ君、誰にも指輪は贈らないの。どんな安物であっても。指輪は特別だって大切な子が言うから、他の子にはあげられない、って言って」
そこまで口にして、彼女のうるうるしていた目が明らかに攻撃的な光を帯びて千路を睨みつけた。
「ねえ、それってあなたのことなんでしょう?」
正直なところ、どうなんでしょうね、とでも答えたい。自分のことのような気もするけれど、かといって、道流がそこまで自分のことを大切にしているとも思わない。だったとしたら、これまでの彼の女性遍歴は何だというのだ。だいたい、道流の言葉のすべてが口からでまかせという可能性も否めない。
それに、もし千路が道流の「特別大切な子」だとして、どうして沙希に責めたてられなくてはならない。
だんだん、何もかもが面倒くさくなってきた。はーっと大きくため息をつくと、千路は相手をまっすぐ見据えた。
「確かに、私は道流さんから指輪をもらったことがあります」
遠い、幼い日に。お菓子と同じくらいの値段のおもちゃの指輪を。
「でも、彼は私のこと、年下の親戚としか思ってないと思います」
「嘘!」
般若の面ような顔つきになった沙希に、千路は薄く笑う。
「道流さんは、私のことを“特別大切”なんだってことにしてるだけです。本当は、誰のことも特別大切には思えてないから」
道流を見るたびに思う。
彼は誰にも優しいし、誰からも好ましく思われている。だが、彼が特別な熱量を“誰か”に向けている姿は想像もつかない。千路のことだって、目の前の彼女よりは気にかけているし、大切にしているかもしれないけれど、“特別”と呼ぶには不足だ。
道流は、ひとりで立って、誰の手もとらない。
誰にも執着しない。
それでも彼の周りには人が集まってきて、彼の“特別”になりたいと請うから、彼はてきとうに選んだ千路を先約の相手として選んだだけ。角を立てず、相手のお願いを拒絶するために。
「だから、私が貴女にしてあげられることは何もないです」
道流に私以外の人に目を向けてください、と言うことも。
私のこと、嫌いになってください、と願うことも。
何の意味も持たない。
沙希が、千路がいるせいで自分へ道流の目が向かない、と思っているのだったら。
「ごめんなさい」
笑みを浮かべたままそう口にすれば、彼女は顔を呆然と立ち尽くした。その後、すぐにくしゃりと顔を歪める。
「だって、そんな、それじゃ、私、いつまでたってもミチ君の“特別”になれないじゃない……」
もしかしたら、彼女はずっと道流に態度や言葉で「好き」と言い続けてきたのかもしれない。それこそ、道流の今の「彼女」なのかもしれない。でも、どんなに近づいたと思っても、道流は最後の一線を越えさせてくれなくて、苦しんでいるのかもしれない。
迷子の小さな子どものような沙希の表情に、千路まで何だか胸が痛くなる。
相手のことを一番に想っても、相手は自分のことだけを見てくれない。それは辛いことだろう。
どうしようもない、残酷な人だと思うのに、それでも道流のことが嫌いになれないから、彼女は苦しむのだろう。
そして、それは千路も。
ふるり、と頭を振ると、千路は「それでは」と口にしてその場を後にしようとした。いつまでもこんなところにいて、竹林と大牟田に見つかっても厄介だ。
それなのに。
「……今度は何ですか」
泣きそうな顔をした沙希の脇をすり抜けた千路の前に、今度は三人の男性が立ちふさがった。
全員が仕立ての良さそうなスーツを身にまとい、体格がいいので威圧感はあるが、裏の筋の人のような危険な感じはしない。だが、女子高生の目の前に四人で立ちふさがった時点で不審人物に違いない。
「東堂千路様ですね?」
その中の、眼鏡のちょっと偉そうなスーツ男性に名前を呼ばれた。
名前を呼ばれた、ということはあっちは千路のことを知っているようだが、こちらは知らない。
これは竹林たちに見つかるのもやむなしと判断し、絹を裂くような悲鳴とやらで素直に叫んでおいた方がいいかもしれない。
そんなわずかな逡巡の間に、眼鏡スーツさんは千路の腕を取った。
「話は後ほど。ご一緒いただけますか?」
丁寧に言われても、はいそうですか、とうなずけるはずもない。
やっぱり叫ぼう。そう千路が決断するとほぼ同時に――。
「だ、誰かっ!」
千路より先に、立ち尽くしていたはずの沙希がこちらの様子に気づいて助けを呼ぼうとした。が、眼鏡スーツさんの目配せによって、ほかのスーツに口を押さえられ、抵抗も封じられてしまう。
「申し訳ありませんが、大声はお控えください」
あ、こりゃだめだ。
千路が眉を寄せていると、眼鏡スーツの男性はため息をこぼした。
「仕方ありませんね。その方にもご同行いただきましょう」
当然のように千路も腕を引かれ、道の先に止まっていた車に乗るように促される。
竹林が運転しているのとよく似た、黒塗り高級車だった。
何が何だか分からなかったが、今のところ彼らから自分を害そうという意思は感じられない。
今日の放課後は波乱万丈だな、とぼやくと、千路は車へ乗り込んだ。
「沙希さん、もう少し落ち着いたらどうです?」
千路と一緒にこの部屋へ連れてこられ、何するでもなく右往左往していた彼女は、きっとこちらを睨みつけてきた。
「貴女こそ、よくそんな落ち着いてられるわね! 相手の目的は分からないけど、誘拐されたのよ!」
ゆ・う・か・い! と繰り返す沙希に、ソファに沈み込んでいた千路は首をかしげる。
「一応、人に会ってほしいっていう説明はされましたよ」
ここに来るまでの道中、説明されたのはそれだけと言っても過言ではないのだが。
車に乗せられた千路たちは街中を走り、どこかのホテルの駐車場で降ろされ、専用エレベーターのようなものでかなり上の階までのぼり、今いる部屋に至った。いくつも続き部屋がある、いわゆるスイートルームだ。
ここでお待ちください、と言われたところをみるに、会わせたい人物がここに来ることになっているらしい。
「そんな怪しい話信じられるわけがないでしょう!」
「かといって、ドアの外に立ってるがっちりしたお兄さんのこと、どうこう出来ないじゃないですか」
いきり立つ沙希に冷静に言い返すと、彼女はうぐ、と言葉に詰まった。
「でも!」
「気持ちは分かりますけど、今は大人しくしてるしかないと思いますよ」
荷物は奪われなかったので、部屋へ到着した直後に携帯で外への連絡を試みたが、何か電波を阻害するようなものを発生させているのか圏外だった。かなりの高層階なので窓から逃げるなんてことも不可能だ。そもそも窓は開くようにはなっていない。
千路は視線を巨大な窓の外へと向ける。壁のほとんどが窓になっているその向こうには、見晴らしの良すぎる景色が広がっていた。この高さとここがホテルだということ、見える景色から考えるに、どうやら話に聞くことしかないと思っていた隣の市の超高級ホテルらしい。
こんなところに半ば誘拐のような手段で人を呼びつける相手、というのはどんな人なのだろう。
ぼんやりそんなことを思っていると、部屋の外が騒がしくなった。
「いえ、しかし――」
「誰もお通しするなと言われておりますので」
がっちりスーツたちがドアの前で誰かと言い争っているらしい。
「あー、もういいからどいてよ。悪いことしてるの、そっちでしょ」
はっきり聞こえてきた声に、千路は軽く目を見開く。どうして彼がここにいるのだ。
「竹林、大牟田、押さえといて」
そう命じると、声の主は堂々と扉を押し開いて入ってきた。それなりに長い廊下を足音が近づいてきて、千路たちのいる部屋へと入ってくる。
「チロ助! 無事?」
入ってきた瞬間の彼は、初めて見る至極不機嫌そうな顔つきだったが、千路を見つけてぱっと微笑む。
「怖くなかった? 何か強引なこととかされた?」
千路は首を横に振りつつ、眉をひそめる。
「何が何だか分からないんですけど」
「説明は後で。とりあえず、こんなとこいる必要ないから、帰ろ」
「いや、でも――」
誰か来るらしいんですけど、と続けようとした千路を、道流は妙に迫力のある笑みで黙らせた。
「帰ろ?」
どうやらかなり珍しいことに、道流は何かに怒っているらしい。これは逆らわない方がよさそうだ、と直感が告げている。
「はい」
素直にうなずくと、彼は満足そうにうなずく。
「道流様! 勝手なことをされては困ります」
外の廊下から竹林と大牟田とのもみ合いから抜けてきたらしい眼鏡スーツさんが部屋に駆け込んできて叫んだ。
「そんなことなされば、道流様とはいえ、会長のご不興を買いますよ」
千路にはさっぱり理解不能な話なのだが、千路のスクールバッグをソファの上から持ち上げながら道流は鼻で笑った。
「だーかーらー、悪いのはそっちだって言ってるじゃん」
顔は笑っているのに、鋭い目つきで眼鏡スーツさんを睨みつける。
「チロ助はうちで預かる約束だよ。勝手に連れて行ってもらっちゃ困るんだけど?」
たじろいで押し黙った相手に、道流は畳み掛けた。
「だいたい、道昭おじさんがいない間にしゃしゃり出てくるのはルール違反でしょ? 勘当した息子との和解は意地が邪魔して出来ないくせに、孫娘には会いたいなんて都合のいいこといい歳して言わないでよ」
まあチロ助可愛いからずっと会いたかったんだろうけどさーとぼやいてから、ぴしり、と指を突きつける。
「チロ助に会いたいんだったら、正面から来てよね。あと、今回の件は大伯母さんに報告するから」
そこまで言うと、道流はやっと目に浮かんでいた鋭い光を和らげた。
「そう大伯父さんに伝えといて」
じゃあね、と手をひらりと振り、混乱の中立ち尽くしていた千路の手を引き寄せる。
「行くよ、チロ助」
訳が分からない。が、もう家に帰って休みたかった。
「うん」
うなずくと、千路は沙希に目礼して部屋を出た。
道流に引っ張られるように去っていく千路を見送りながら、沙希は唇を尖らせる。
「やっぱり嘘」
部屋に入ってきた道流は、まっすぐに千路を見つけた。沙希のことに気づいたときも、一瞥しただけで、その後は千路のことしか見ていなかった。出て行く時だって、自然に千路の荷物をとって、守るみたいに肩を抱いていた。
笑みは張り付けていたけれど、あんな余裕のなさそうな道流は初めて見た。
あれで、どうして自分は“特別”なんかじゃない、と言えるのだろう。
何だか馬鹿らしくなってきて、沙希は小さく笑った。
どっちにしろ、自分に勝ち目はなさそうだ。
まだ道流のことはあきらめられないけれど、どうしてだかそう納得できた。
ここに来たのとは違う、竹林の運転するいつもの黒塗り高級車に揺られて帰路を進みながら、千路は隣に座る道流を見上げた。
「説明を要求します」
「えー、必要? チロ助が俺の元に戻ってきて一件落着じゃだめ?」
いいわけがあるか。
ふざけたことを言う相手を睨みつけ、無言で促すと、道流は苦笑をもらした。仕方ないなーと言いつつも、説明はしてくれるようだ。
「うーん、簡単に言えば、チロ助を誘拐したのは、チロ助のおじいちゃんなんだよ」
「おじいちゃん?」
聞きなれない単語に、千路は眉間にしわを寄せた。
母方の祖父は千路が生まれる前に他界しており、祖母とは毎年夏休みに会っている。父方の祖父も昔に他界していると聞いていたし、毎年正月に頼道の家で会う祖母もそれを否定したことはない。
だが、先ほど道流は「大伯父」と言っていた。つまり――。
「父さんの父親は生きてるんですか?」
「うん。生きてるし、元気すぎて困るくらいぴんぴんしてるよー」
あっさりと道流は認めた。
「どうして、死んだなんて嘘を――」
そこまで口にして、先ほどの会話を思い出す。
「父さんが、勘当されてるから……?」
「あったりー。チロ助よく覚えてたね」
偉い偉い、と頭を撫でられたが、馬鹿にされているとしか思えない。ぺし、と自分の頭に載った手を払うと、千路は話の続きを求めた。
「どうして、父さんは勘当されたんです?」
「それは俺がかなりちっさい頃のことだから後から道昭さんに聞いた話だけど、千香さんとの結婚を反対されて道昭さんが家を飛び出したらしいよ。よく出来た期待の跡継ぎ息子だったから、大伯父さんも可愛さ余って憎さ百倍だったらしくて、勘当を言い渡して以来十八年、一度も会ってないんだって。大伯母さんはそんなの関係なく会いに来てるけど」
父もかなり頑固なところがある人なので、きっとその父親である祖父もかなりの頑固者なのだろう。お互い引っ込みがつかなくなっている可能性がある。
「会うだけだったら、別に会ってもよかったですね」
それで、少しでも祖父と父の関係が改善するなら、一肌脱いでみせよう。
が、そんな千路の言葉に、道流は「だめだよー」と首を振る。
「東堂本家なんかに連れて行かれたら、軟禁されて、お嬢様教育叩き込まれて、どっかのぼんぼんの嫁にされちゃうんだからー」
何とも浮世離れした話に笑いそうになった千路だが、先ほどまでいた場所が一般人には立ち入りすらためらわれる超高級ホテルだったことを思い出して顔を引きつらせた。
「道流さん。つかぬ事を聞きますが、私の祖父というのはどのような立場の人なのでしょう」
道流はきょとんとして、ああ、と手を打つ。
「言ってなかったっけ。チロ助、トードーグループって知ってる?」
財閥系のそれなりに歴史のある企業だ。ちなみにグループのマークは絶滅したドードー鳥。
嫌な予感におののきつつも、こくり、とうなずくと、道流はにこやかに言ってのけた。
「あそこの会長。あれがチロ助のおじいちゃん」
うわあ、とんでもない大物出てきた。
「いちおううちの父さんの会社もグループ企業のひとつなんだけど、チロ助は知らなかったんだね」
頭を抱えたまま、千路は道流の言葉にうなずいた。
つまり何か、自分の父親は、大金持ちのぼんぼんで、恋愛結婚を貫いたために勘当された、と。
「ぜんぜん聞いてないんですけど!」
「うん、道昭おじさん、チロ助を自分の父親に会わせるつもりも、東堂本家に関わらせるつもりもなかったから」
だから千路は頼道の家に預けられていたのだ。自分のいない間にも、千路を決して東堂本家に渡したりしないと信頼できる相手に。
「絶対道昭おじさんがいない間に手出ししてくると思ってたから送迎させてたのに、千路は逃げ出すし、竹林たちは逃がしちゃうし」
困っちゃったよ、とちっとも困ってなさそうな調子で言う道流に、三者三様に返事する。
「それは、何も知らなかったから――」
「すみません……」
「面目ございません」
運転席と助手席の竹林と大牟田は肩を落としているようだが、千路はふとあることに気がついて再び道流をじっと見上げた。
「道流さん。ところでどうして私の居場所が分かったんですか?」
竹林と大牟田の落ちていた肩が、ぎくりと強ばった。何だその反応。
対する道流は楽しそうに笑う。
「あれ、気づいちゃった?」
「迎えに来てくれたことには感謝してますけど、それとこれとは話が別です」
さあ白状してください、と詰め寄ると、ぺろりと白状する。
「千路のバッグに特製の発信機をつけたんだよ」
「やめてくださいよ!」
誘拐もどきで孫娘との再会を果たそうとする祖父も祖父だが、いくら千路が逃げ出すからといって本人の同意なく発信機なんてものをつけてしまうはとこもはとこだ。
何で軽く犯罪行為に走るのか。うちの親戚にはそんな人間しかいないのか。
千路は手を伸ばして置いてあったスクールバッグを引き寄せると、中を覗き込んだ。
「どこにつけたんです」
そう言いつつ、片っ端から物を出していく。教科書やペンケースを取り出した後に、ひっくり返してばさばさとやっていると、ころり、と床に落ちたものがある。
あ、まずい。血相を変えた千路が手を伸ばすよりも早く、道流のほっそりとした指がそれを拾い上げた。
「あれ? これって――」
「返してください!」
千路が手を伸ばしても、道流はにやにや笑うばかりだ。
「捨てたって言ってなかったっけー?」
プラスチックの、おもちゃの指輪。昔々、目の前の彼から、幼い約束と一緒にもらった。
顔を覗き込まれ、千路は頬を染めて目を泳がせた。
「……今日、捨てに行く予定でした」
ぶっきらぼうに言い捨てると、道流は首をかしげる。
「何で捨てちゃうの? 俺、前も言ったけど、チロ助のことが一番大切だよ?」
あまりに軽い言葉に、千路は頬を赤くしたまま彼を睨みつけた。
「道流さんは嘘つきです」
言われたほうは、器用に右の眉だけを上げて見せた。微笑みながらも、どうにも不機嫌そうだ。
この人の、こういうところが嫌だ。感情をあからさまに面に出してくれないから、彼をつかめなくて翻弄される。
「嘘つき? 心外だなぁ。どうしてそんなこと言うの?」
うん? とさらに間合いを詰められ、後ずさってみても、車内では限界がある。すぐに追い詰められ、ドアを背にうつむくこととなった。
「わ、私知ってるんですから」
「何を?」
ごくり、と唾を飲み込み、千路はからからの口を開く。
「道流さんの今までの彼女の数が、もう両手じゃ足りないってことです」
「誰に聞いたの、そんな話」
「初音さんです」と彼の母親の名を出すと、道流はくしゃりと前髪を乱して「母さん……」とうめいた。
「それで? それのどこが問題?」
が、平然と続けられた言葉に、千路はぎっと相手を睨みつけた。
「そ、そんな人に一番大切だよ、なんて言われて、信じられるわけがないじゃないですか!」
もう心臓が爆発しそうだ。怒りと、羞恥と、自分でも理解できないざわめきで。
「私のこと、一番で特別だって言うんだったら、私のことだけ見てよ!!」
つい敬語もかなぐり捨てて叫んでから、自分の言ったことの恥ずかしさに愕然とする。顔どころか首筋まで真っ赤にして黙り込み、ちらり、と道流の顔色を窺った。彼は思わぬことを聞いた、と言わんばかりに軽く目を見開いて、驚きの感情をあからさまにしている。
ああもう穴でも掘って埋まりたい、とりあえずこの車から降ろしてもらいたい。
竹林に声をかけてそうさせてもらおう、と声を上げようとした千路だったが、それよりも先に自分の頬に触れた感触にびくりと身を強ばらせて息を呑んだ。
視線を上げれば、全身を硬直させて自分を見上げる彼女の頬を手のひらで包みながら、道流は蕩けんばかりの笑みを浮かべている。
「ねえ、チロ助。俺、本当に君のことが一番大切なんだよ」
こんな甘い声、千路は聞いたことがない。
「だからね、俺、ずっと君の望みを叶えようとしてきたし、君にとっていいようにって思ってきた」
頬に触れているのとは反対の手が、彼女の左手をとる。
「チロ助は、俺が“誰よりも優しい親戚のお兄さん”でいた方が嬉しいんだと思ってたんだけどな」
だけどそう言うことならもう遠慮しない。
耳元で囁かれた言葉に、千路は何故だか背筋に戦慄に似た震えが走った。
ふふふ、と笑い声をこぼすと、道流は自分の持っていたおもちゃの指輪を千路の手の中に落とした。
「これはもう海に投げ捨ててくれて構わない」
怪訝そうな顔をすれば、彼は悪戯っぽく目を輝かせる。すっと道流の細くて長い指が千路の左手の薬指を撫で上げた。
「そのかわり、ね。俺が卒業して就職したら、そう簡単に投げ捨てられないような指輪を贈ってあげる」
給料三か月分のやつ、と満面の笑みで言われ、理解が及ばなかった千路はきょとんと瞬きを繰り返したが、聞き耳を立てていたらしい竹林と大牟田がぶほっとふき出した。
遅ればせながらその言葉の意味に気づき、千路はこれまでになく動揺した。
「それ、絶対軽々しくもらっちゃいけないやつですよね」
結構です、とぶんぶん首を振って遠慮申し上げようとしたのだが、相手は許してくれない。
「んー、ダメだよ。俺の一番はチロ助で、チロ助の一番は俺ってずっと前に決まってるんだから」
心底嬉しそうな相手の顔を見上げながら、千路は青ざめ、いつかの母の言葉を思い出していた。
『でもね、千路。軽い気持ちで指輪を贈ったり受けとったりしてはダメよ』
幼いなりによく考えて受け取ったはずだが、考えが甘かったらしい。
「何考えてるかしらないけど、逃がしたりなんてしないから」
頬に触れていた手が顎にかかり、千路の顔を上げさせた。
「覚悟してね、千路」
甘い甘い笑顔が近づいてきて、羽根のような軽さで唇が額に触れる。
絶句していた千路だったが、自分を見つめる道流の目に宿る真摯な光に小さく息を呑んだ。
そこには、確かに特別な熱量があって、まっすぐに自分を射抜いていたから。
ああこれは勝てない。だけど、そう簡単に降参するつもりもない。
内心そう呟くと、千路は小さく笑った。
***
自分が実は大金持ちの孫娘だと判明し、自分のことを親戚だとしか思っていないと信じきっていたはとこ殿に求婚された。
転げれば転げるほどベタな展開になっていく人生。
それでも、もう少しだけこの規定路線に抵抗して生きてみよう。
千路は道流に恋してるだなんて認めない。
今はまだ。
ぐだぐだで後悔はしている。しかし、趣味をぶちこめて満足もしています。お目汚し申し訳ないです。