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輝名とのやり取りで当面の行動については目処が立った。学校にこもって“天敵”や黒い蝶から身を守ることと、輝名の到着を待って彼と共に今後の方針を相談することである。今のところ校内は静かで、目立った混乱は起きていない。るうかは腕時計を見て、小さく溜め息をついた。
「何とか……輝名さんが来るまで何もないようにしないと」
「取り敢えず、多少は情報収集した方がいいだろ。俺は部活の連中に連絡してみるわ」
祝がそう言って、侑衣もまた所属する剣道部を通じて情報を集めると言う。部活動をしていないるうかは一旦教室に戻り、待機しながら様子をみることにした。
るうかが教室に戻ると静稀と理紗が心配そうに駆け寄ってくる。静稀の手には彼女が愛用しているスマートフォンがあり、どうやら彼女はそれを使って外の情報を集めていたらしかった。
「るかりん、おかしいよ。ニュースとか、そういうのでは全然事件のことが話題になってない。SNSでは噂レベルで色々な情報が飛び交っているんだけど、うちの市内だけのことだからってほとんど相手にされてないし……なんだか日河岸市だけが孤立したみたいになってる」
「るーか、祝とあの先輩と何話してたの? お願いだから危ないことはやめてよ。るーかに何かあったらあたし!」
「落ち着いて、2人共……」
るうかはそう言いながらも内心で歯噛みする。少しずつではあるが、生徒達の胸に不安と恐怖が蓄積していっていることが分かる。そのフラストレーションが一定の域に達すれば、一度は落ち着いた生徒達の間で再び動揺と恐慌が起きても不思議はない。なるべく早く輝名が到着することを祈るばかりだが、外には“天敵”や黒い蝶、それに脱走したというテロリストもいるはずだ。そこを最短で移動するというのも難しいことになるのだろう。
輝名が到着するまでの時間、この学校の中を守る。るうか達にできそうなことはそれだけだった。ところがそのとき教室の中で誰かが大声で叫ぶ。
「うわああ! 蝶が!」
るうかはすぐに反応して声のした方を見た。そこには教室の窓に張り付くように無数の黒い蝶がたかっている。明るかった教室がにわかに暗くなり、それでもなお蝶はその数を増やし続ける。あっという間に窓は黒で埋め尽くされ、曲がりなりにも落ち着いていた教室が一瞬のうちに混乱に包まれる。悲鳴の飛び交う中、るうかは必死になって生徒達を窓から遠ざけるように誘導した。万が一にもパニックを起こして窓を開けられでもしては一巻の終わりだ。
「るうか、あの蝶は……」
「静稀ちゃん、あれに触ったら身体が変になって、最後には“天敵”っていう化け物になっちゃうから……とにかく絶対に窓を開けないで!」
分かった、と静稀は比較的落ち着いた様子で頷く。そしてつかつかと窓の方へと歩み寄ると非常に冷静な様子で窓にカーテンを引いていった。
「見えなければ取り敢えず少しは怖くなくなるでしょ」
「……さすが静稀ちゃん」
淡いクリーム色をしたカーテンが暗い外の光景を隠してくれる。理紗が教室の電灯のスイッチを入れ、再び明るさを取り戻した部屋の中で誰かがふうと長く溜め息をついた。
「おい、外は相当やばいぞ」
情報収集から戻ってきた祝がるうかの隣までやってきて、彼女にだけ聞こえるように言う。るうかは頷き、彼に成果を尋ねた。祝はがりがりと頭を掻きながら苦い顔で答える。
「朝練に来ていた連中は騒ぎの前に校舎に入っていてほとんど何が起きたか分かっていねぇ。ネットで調べた情報くらいしか見てないらしい。で、練習に来ていなかった奴のうち半分……4人とは連絡がつかねぇ」
「……」
「うちの学校だけでも今行方の分からねぇ奴が相当いると思った方がいいだろうな。考えたくもないが、こりゃあアッシュナークのテロとそう変わらない……」
「なんで」
るうかは思わずそう呟く。
「なんでこっちの世界でそんなことが起こるの……」
「……大神官代行の言い分じゃ、向こうの世界の連中がこっちに来たせいでこっちにも“天敵”が存在できるように世界の仕組みが歪んだっていうことなんだろ」
祝の答えは正確だと思われたが、るうかが聞きたいことはそのような理屈などではなかった。ある程度の平穏、少なくとも人間を主食とする“天敵”がいないことによる安寧が約束されていたはずのこの世界に“天敵”が出現し、その平和がまるで紙屑のように簡単に破れてしまったというその理不尽こそ、るうかが最も憤りを感じる部分なのだ。この世界で最も大切であったものがいとも簡単に、たったの数時間で破壊されたに等しいのだ。そのことに対する怒りを、疑問を、一体どこにぶつけてよいのやら。
「なんでこっちの世界で……人が“天敵”になって人を襲うの。こっちの世界の人は魔法も使えないし、武器だって持っていないし、“天敵”がどういうものかだって分かっていないのに。どうしていきなりこんなことになって……昨日までの世界じゃないみたいに」
「……舞場」
「桂木くん、私……こんなことになるなんて考えたこともなかった。向こうの世界は夢だから、ってどこかで思っていたんだと思う。だけど今は、現実……だよね」
るうかの問い掛けに祝は無言の頷きを返す。彼にとってかつて夢だったこの世界も、今ややはり現実なのだ。たったひとつの現実なのだ。
大丈夫か、と祝が尋ねる。この現実を受け止め、対処する覚悟はできたか、と。るうかは大きく頷いて祝を見た。
「輝名さんが来るまで持ちこたえなきゃ。落石さんにももう1回連絡してみる。あとは先生方とも話して、校舎の中に絶対に黒い蝶と“天敵”を入れないようにする」
「るうか、それなら私達で行くよ」
静稀が理紗を伴って話に割り込んでくる。除け者にしないでよね、と微笑む彼女にるうかは心からの感謝を込めて「お願い」と告げた。祝は校舎内の見回りに行くと言う。そんな彼に数名の男子生徒が同行を申し出た。
少しずつ現実的な対応ができるだけの平静さを取り戻しつつある教室の中でるうかは佐羽に電話を掛ける。5コールの後で返事があった。
『るうかちゃん、大丈夫?』
佐羽の第一声はるうかを心配するもので、その気遣いに一瞬涙がこみ上げてくるのを抑えつつるうかは「大丈夫です」と答える。しかし状況は深刻だ。
「学校が黒い蝶に覆われているみたいです。他のところもそうなんでしょうか」
『ああ、ひどいものだよ。人の集まるところに集中して黒い蝶が群がっているみたいだ。ちょっと言いにくいけど、ざっと調べただけでも“天敵”化とそれに捕食された死者を合わせた数は優に100を超えている。もうこれは事件なんていうものじゃない。大災害だよ』
「……」
『ああ、そうだ。“天敵”の写真と動画ありがとう。あれ、ちょっとネットで拡散して注意喚起に使わせてもらったから。もうとにかく自分の身は自分で守ってもらうしかない。魔法の使えない魔王なんてこの世界じゃ何の役にも立たないって……ようく分かったよ』
それはるうかも同じ思いだった。そしてるうかはもうひとつの気がかりについて佐羽に尋ねる。
「あの、頼成さんから何か連絡はありましたか?」
『頼成? いや、今のところ何もないけど。どうかしたの?』
そこでるうかは先程正門前での攻防の後、頼成がそのまま姿を消したことを佐羽に伝えた。佐羽は何やらムッとした様子で『ちょっと待ってて』と告げると何かカチカチと音を立てている。しばらくして彼はチッという舌打ちと共に呟いた。
『あーあ、電源切ってるよ……いや、充電切れただけかもしれないけど。頼成の緊急用携帯、応答しないや』
「頼成さん……大丈夫でしょうか」
『こっちの世界じゃ彼が俺達の中で一番強いよ。最低でも蝶や“天敵”から逃げおおせるだけの脚は持ってる。それよりるうかちゃんは自分の身を守ることを考えて。その方がきっと後で頼成も喜ぶから、ね』
最後にそう言った佐羽の声は明るく、愚痴を零しながらも頼成に対して強い信頼を持っていることが窺えた。何しろ幼馴染みでずっと共に過ごしてきた彼らのことだ。その佐羽が言うのだから、信頼度は充分である。るうかは「はい」と先程よりも大分強い声で答えた。
『じゃあ、引き続き情報交換しながら……とにかく身を守ろう。輝名からさっき電話があったよ。そっちに行くって言ってたから、それまで頑張って』
「はい、落石さんも気を付けてください」
『うん、またね』
通話の切れた携帯電話を握り締めてるうかは「よし」と小さく呟く。佐羽と話したことで大分頭がすっきりしてきた。そう、まるで向こうの世界で“天敵”への対処を考えているときのような、その感覚が戻ってきているのだ。共に戦線を潜り抜けてきた仲間との繋がりがるうかの意識を勇者のそれへと引き上げる。
そうは言っても肝心の勇者の能力はこの世界のるうかにはない。あるのは夢で培った経験と知識だけだ。それをどう活かしてこの学校を守るか、るうかがその手段を考え始めたそのときだった。
控え目なノックの音がして、教室の後方のドアがゆっくりと開かれる。
「赤の勇者さんは、いる?」
ぞくり、とるうかの背筋が震える。するりと滑り込むように教室へと入ってきた1人の少女が、硬い表情でるうかを睨んでいた。るうかは彼女を見て、その姿を見て驚く。少女はこの世界のものとは思えないローブを身にまとい、手に抜き身のナイフを持っていた。そして彼女はるうかを見据えてもう一度、向こうの世界の呼び名でるうかを呼ぶ。
「こっちではこんな風に暮らしているのね、赤の勇者」
「……あなたも、脱走したテロリストの1人ってわけ」
るうかの言葉に少女……かつてアッシュナーク大神殿の地下において神官達を“天敵”化させ、頼成を刺し、その後輝名によって拘束されたはずの魔術師の少女が虚ろな笑みを浮かべながら頷いた。
執筆日2014/06/14