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してやったり、という侑衣の表情にるうかはむっと顔をしかめながら言う。
「嫌な言い方をしてくれますね」
「そう怒らないでほしい。今のは私自身にも向けて言ったつもりだ。私も1人ではどうにもできないと感じたから君を訪ねてきたんだよ」
「1人では……ですか」
るうかはそう言いながら祝を見る。祝は納得顔で頷きを返した。
「そうだな。俺にしてもお前にしても1人じゃどうにもできやしねぇ。でも月岡先輩も交えて……あとはこの学校内で同じ夢のことを知っている奴にうまく働きかければ、最低でも学校だけは守れるんじゃねぇか?」
やってやろうじゃねぇか、と祝は言う。侑衣もまた祝の意見に対して大きく頷いた。そのとき、ちょうど頃合いを見計らったようにるうかの携帯電話が着信を知らせる。見ると電話の相手は輝名だった。るうかは少し驚きながらも侑衣達に断りを入れてから通話ボタンを押す。
「はい、舞場です」
『ああ、無事か?』
単刀直入な輝名の言葉に、るうかは彼が相当に切羽詰まった心境でいることを悟る。そこで彼女は努めて冷静な口調で現在の状況と学校の様子について語った。輝名はほとんど相槌も打たずにるうかの言葉を聞いていたが、最後にぽつりとこう尋ねる。
『おい……侑衣はどうしているか、分かるか?』
彼にしては大変に珍しい、心細そうな声だった。電話が繋がらないのだと彼は言う。るうかはそっと横目で侑衣を窺った。彼女はるうかの視線に気付いてわずかに首を傾げるが、その動作に特に不審な点は見られない。るうかは少し考えてから、無言のまま自分の携帯電話を侑衣に手渡した。侑衣は困惑しながらも電話を耳に当てて声を発する。
「もしもし」
さて、彼女の声に対して輝名はどう反応するのだろうか。るうかはそっと侑衣の様子を見ながら小さく溜め息をつく。祝が呆れ顔でるうかを見やった。
「今の、大神官代行か?」
「うん。侑衣先輩のことが心配だったみたい」
「どいつもこいつも……まぁいいけどさ。それにしたって、まずはこれからどうするかってのが問題だ。学校内で情報を共有できる奴はどれくらいいるか、いたとしてどうやって連携を取るか。そもそも籠城以外に自衛の手段はあるか? いつまで警戒していりゃあいいのかだって分からねぇのに」
祝は難しい顔をしながら今後の具体的な動きに関する考えを口に出していく。るうかは頷きながら彼の話を聞いていたが、生憎返すことのできる言葉は何もなかった。侑衣はまだ電話で輝名と話している。
「電話? ああ、学校内では基本的に電源を入れていないんです。緊急事態……確かにそうですけれど。どうしてあなたがそんなに怒るんですか」
輝名と侑衣の会話は果たして噛み合っているのだろうか。少なくとも2人の互いに対する心情に大きな温度差があることは間違いなさそうだ。ややあって、侑衣が電話の向こうの輝名に向かって静かな声で告げる。
「分かりました。自分の身を大切にするという点については約束します。それじゃあ、るうかに換わりますね」
はい、と返された赤い携帯電話を受け取って、るうかは輝名に問い掛ける。
「もういいんですか?」
『ああ。それでるうか、そっちの事情は分かった。今から重大なことを話すからそのつもりで聞いてくれ』
輝名の声に緊張が滲む。るうかは「はい」と頷きながら自らも姿勢を正した。輝名は少しの間を置いてから話し始める。
『アッシュナーク大神殿で拘束していた例のテログループの一部が脱走した。どうやら内通者がいたようだ。……そもそもテロリストといっても元は内部の奴らだからな。“一世”がどう関わっているかまでは分からないが、それよりも厄介なことが分かっている』
「厄介な……何ですか?」
『奴らは境界を越えた可能性がある』
輝名はそう言って、るうかの反応を窺うように間を置いた。るうかは彼の言った言葉の意味を考え、そして返す。
「向こうとこっちの世界の境界……ですか?」
『察しがいいな、その通りだ』
「そんなことって……!」
『理論上は可能だが、まぁ普通はそんな方法を知っているわけがねぇ。誰かが手引きをしたことは間違いねぇな。そしてさらに面倒なことに、脱走してこちらの世界に来た可能性のある連中のほとんどがこの世界に何かしらの憎悪を抱いていると考えられる』
「憎悪?」
聞き捨てならない単語にるうかは顔をしかめて問い返す。輝名は溜め息をつきながら言う。
『お前には分からないかも知れねぇが……ままならないことがあればその周囲全てを憎んで自己の心の安寧を守ろうとする人間は少なくない。たとえばこの世界で重い病気を患い、向こうの世界を夢見ることで自由を得ていた者がいるとする。そいつは向こうの世界の“天敵”とそれを生み出す仕組み、さらに他の犠牲によって行使される治癒術に反発する……自分の安寧を脅かす、あるいは自分の存在を否定しかねないぎりぎりのところで声を上げ、拳を振り上げる。そして結果あの通り向こうの世界では神殿というひとつの秩序が破壊された。そいつらが次に狙うのは……こちらの世界の混沌だ』
「……」
るうかは輝名の言葉の意味を今ひとつ理解できないままに黙ってその話を聞く。つまりどういうことなのだろうか。
『いいか、るうか。そいつらが境界を越えたことでこの世界はひどく不安定になっている。本来いるべきでない存在がいることで……つまり同じ人間のデータが世界上に同時に2つ存在していることで、普通なら起こりえない障害が生じる可能性がある。そのひとつが“天敵”の出現だ。奴らが存在するために起きた世界の理の変化が“天敵”の存在も可能にしているんだ。今回のことは大神殿襲撃なんてレベルじゃねぇ。だからお前達はとにかく……警戒を怠るな。“天敵”への対処は勿論だが、連中が直接こっちの世界で人間が多く集まる場所に乗り込んでくる可能性も捨てきれない』
「……向こうの世界の人が、ですか」
ぞくり、とるうかの背筋が震えた。頼成や佐羽、それに祝にも言えることだが、向こうの世界の常識に慣れた者はこちらの世界の常識では計り知れない考えを持っている場合がある。祝などはむしろこちらの世界にうまく順応している方なのだろう。“天敵”がおらず、向こうの世界と比べれば平穏でゆるゆるとした日常が続いていくこの世界で、頼成や佐羽はいつも何かと戦っていた。向こうの世界の者にとってそれは常識の範疇であり、彼らにしてみればこちらの世界が甘すぎるということにもなりかねない。
そのような思考を持つテロリストの一部がこちらの世界で入り込んでいるとすれば、それはるうかが想像するより遥かに大事になるのかもしれない。何故なら彼らは“天敵”の脅威に晒され続けるあの世界において治癒術を否定し、それによる“天敵”の発生を悪しきものとしていた。かつて祝が暮らしていた虹色の女王の領地もそうだが、そのような考え方はやがて治癒術師達の排斥や彼らの行為による“天敵”の発生を肩代わりする神官への抗議活動へと移っていく。そこに暴力的手段を用いてきたのが大神殿を襲撃したテロリスト達だ。
彼らは治癒術の安全を保障するための神官制度に反対しており、“天敵”化しかけた神官達を完全に“天敵”化させて神殿や都を襲わせるという最悪の手段でその意思を世間に知らしめた。るうかにしてみれば彼らの行為こそが生命への冒涜である。神官達がどのような思いで祝福という名の死の砂時計を背負ったのか、治ることのない病に苦しむ人々が神官や治癒術師の犠牲を知っていてなお健康な身体を望むことの葛藤がどれほどのものなのか、彼らは考えているのだろうか。考えたとして、どうしてそこに単なるエゴイズム以外の意味を見出すことができないのだろうか。
るうかは思う。確かに、癒えない病を治すために他人を犠牲にしてでも高度な治癒術を欲するということには少なからず問題があるだろう。しかしそれを否定しては、その人はただ死んでいくしかないのだ。誰かが生きたいと願うことを、そこに存在する手段に手を伸ばすことを、誰が頭ごなしに否定できるだろう。人間は生命の終わる瀬戸際に立たされたとき、生きることに対してひどく貪欲になる。自分が死ぬという現実を否定し、生きるために何でもしようという気になる。それは人間に限らず、生きとし生けるもの全ての本能だろう。
さて、この本能を否定してテロリズムに走る集団に対して一体どう対処すればよいというのか。話し合いの余地があるのであればまだいい。しかし大神殿を襲撃し、拘束されていた場所から脱走してこちらの世界にまでやってきた彼らは最早引き返すことのできる一線を越えてしまっている可能性がある。るうかは恐怖と悪寒を感じながら輝名に尋ねた。
「輝名さん達の方でもテロリストを捕まえたり、そういうことは考えているんですか?」
『ああ、勿論だ。あとは“二世”の権限として当然、両世界の行き来を封じることになる。このままじゃ世界の仕組みそのものが崩壊しかねねぇ』
「……じゃあ、私達には何ができますか? 桂木くんと侑衣先輩とも話していたんです。学校にはきっと向こうの世界のことを知っている人が他にもいます。“天敵”のことを知っているだけでも強みになります。学校の中に閉じこもることはできますけど、それでいつまでも持ちこたえられるかは分かりません。何か、できることはないですか?」
るうかの問い掛けに輝名はしばらくの間沈黙した。そしてやがて『分かった』と何かを決意した様子で告げる。
『確かに、お前達の学校にも何人か同じ夢を共有している奴がいる。役に立つかは分からねぇが、少なくともお前や侑衣、それに桂木祝は信頼できる。今からそっちに行くから、少し待ってろ。俺が直接指示を出す。他は湖澄の奴に任せりゃいい』
「……分かりました、お願いします」
『ああ、俺が行くまで下手は打つなよ。まずは身を守ることを考えろ。いいな』
輝名はそう言って電話を切る。るうかは顔を上げて携帯電話をしまうと、侑衣達に向き直った。
執筆日2014/06/14