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それからしばらくして、校内放送が全校生徒に窓と昇降口扉の閉鎖を指示した。また、黒い蝶と肉塊の化け物……“天敵”に対する警告もなされた。どうやらこの学校の教師達か、あるいは生徒の誰かが事実に気付いてその情報を全校生徒に伝えようとしているようだ。一体どのくらいの割合で同じ夢を共有している者がいるのかは分からないが、ひとまずるうかのクラスは静かにその放送内容を受け容れた。るうかと祝が事前に説明したことが功を奏したのだろう。しかし他のクラスではそうもいかないようで、どこからかパニックに陥った生徒の悲鳴が聞こえてきた。
「ったく、なんでこうなった?」
るうかの隣の自席に座り、祝が忌々しそうに呟く。向こうの世界では“天敵”が存在するために残酷な秩序を守らなくてはならない。そんな世界を捨ててこちらの世界を選んだ彼にとって、こちらの世界に“天敵”が出現したということはあまりにも過酷な現実なのだろう。しかし彼はぼやきながらも何かを真剣に考えているようだった。るうかは思い切って彼に尋ねる。
「桂木くん、今何を考えてるの?」
「俺に何ができるか」
答えはすぐに返った。彼はるうかへと視線を向け、彼女を睨むようにして言う。
「武器さえあれば、俺だってそこそこ戦える。槍昔さんにばっかいいとこ取られてたまるかよ」
「戦う? ここは夢じゃないし、剣もないよ」
「部室のバットなら結構な強度がある。一撃じゃ無理だろうが、連続で叩き込めば……」
「そんなことしてるうちに食べられるよ」
「あの人みたいに拳銃ぶっ放せるほど、俺はこの世界を捨てちゃいねぇよ」
「……」
祝の言い分にるうかは不覚にも言葉を失った。そうなのだ。頼成はこの法律で取り締まられた世界でも自分の信念に基づいて簡単にそれを破ることができる。彼が従っているのは法ではなく、己の信念と向こうの世界の秩序だ。“天敵”は弱点を破壊しなければ倒すことができず、放っておけば人間を食らう。だから近くにいた警官の銃を奪って撃ち殺した。頼成にとってはたったそれだけのことだったのだろう。それがどの法律にどのように触れるかということも彼は知っているのだろうが、だからといって囚われることはない。彼にとってこの世界の法律とは守るべき規範ですらないのかもしれない。
祝が呆れたように呟く。
「何の自慢にもならねぇけど、俺はこの世界では随分大人しく生きてきたよ。喧嘩だってほとんどしてねぇし、勿論人を殺したこともねぇ。向こうでは嫌ってほど殺したけど……こっちの俺の手は綺麗だってまだ思えた。それが結構、大事だと思ってた」
そう言って彼は自分の両手を広げてその掌を見つめる。
「“天敵”と戦うことには別に何の抵抗もねぇよ。怖いけど、それだけだ。けど法律を無視して銃でばかすか撃てるようなタマじゃねぇわ、俺……」
「多分、それが普通だと思うよ」
るうかにはそう返すことしかできなかった。何しろ頼成や佐羽は柚木阿也乃の元で養育され、歳を重ねてきたのである。その道程にはたとえこちらの世界であっても血生臭い出来事がごろごろと転がっていたに違いない。佐羽が女性を甘言で陥れて自死にまで追い込むことを役割としているように。そしてそれによるトラブルを解決するために頼成が警察でも持っていないような大型の銃をたやすく取り出してひとつの遠慮容赦もなく乱射したように。彼らはこの世界に生きていてもこの世界の秩序に縛られるということがない。それは彼らがこの世界でも“天敵”と対等に戦えるということを意味していたが、同時に彼らの生きる世界が本当は夢の向こう側にあるということの何よりの証でもあった。
るうかは彼らと自分との違いを今更になって痛感させられる。彼らにとってこちらの世界は夢なのかもしれないが、彼らは己の生まれた世界を生き抜いてきたようにこちらの世界をも生き抜いてきた。るうかが両親に守られながらこの世界で育ち、培ってきた常識とはまったく異なる価値観が彼らをこれまで生かしてきた。だから彼らはこの異常な事態にも対応できるし、相手が人間だろうと“天敵”だろうと必要ならばそれを殺すことにためらいなどない。
まさしく、阿也乃が彼らをそのように育て上げたのだろう。そしてそれは恐らくだが、今、この時のためだったに違いない。
鼠色の大神官・浅海柚橘葉が向こうの世界で切り札となる手を打ったように、鈍色の大魔王・柚木阿也乃もまたこちらの世界を混沌に陥れるための策を講じたのだ。それがこの世界に本来いないはずの“天敵”を持ち込むということであり、そのための手段として黒い蝶を用いた。あるいは、頼成が柚橘葉の依頼に基づいて黒い蝶を製作したこと自体が阿也乃の差し金だったのかもしれない。それによって本来この世界では起こりえないはずの人間の細胞異形化が生じ、結果として“天敵”が生み出されているのだ。
柚木阿也乃はこの勝負に勝とうとしている。今のるうかにはそれがはっきりと分かっていた。それも彼女がいかにも好みそうな残酷で、醜く、いわば最悪の方法でそれを為そうとしているのだ。浅海柚橘葉も随分と非人道的な方法で向こうの世界から希望の芽を摘み取った。しかし阿也乃のそれはさらに上を行く。何故なら、本来この世界に存在しないはずの脅威を持ち込むことによってこちらの世界で生まれた者にも、向こうの世界で生まれた者にも同じように絶望を与えることになるからだ。
阿也乃の方法はともすれば人々からどちらの世界を選ぶかという選択肢すら奪いかねない。どうせどちらにいても“天敵”に襲われるのなら、“天敵”になってしまう可能性があるのなら、どちらに生きても同じだ。いや、それよりももっと問題となるのは、どちらに生きることも苦痛でしかなくなると感じる人々が少なからず現れるだろうということだ。
佐羽が多くの女性にこの世界を捨て去るほどの絶望を与えてきたように、阿也乃もまた多くの人々に生きることそのものに対して希望を失わせるような策を取った。それは柚橘葉が選んだ手段よりも一層残酷で、おそらくは阿也乃にしかできない最悪の手であるに違いない。彼女は今、一体どのような顔で笑っているのだろうか。
そのとき、教室の後方にあるドアが外側から控え目にノックされた。教室内に緊張が走るが、“天敵”がドアをノックするはずもない。それでも警戒を怠らない祝が他の生徒を制してドアへと歩み寄る。
「誰ですか」
「3年の月岡です。舞場るうかさんはいますか」
がたり、とるうかは音を立てて椅子から立ち上がるとそのまま足をもつれさせながら後方ドアへ駆け寄った。気を付けろよ、と祝が苦笑しながらドアを開ける。するとそこには眼鏡をかけた黒髪の凛とした女子生徒が祝と似たような表情を浮かべて立っていた。
「るうか、あまり慌てると転ぶよ」
優しくそんなことを言う侑衣は、しかしすぐに表情を引き締めてるうかを廊下へと誘い出した。心配してか、祝もついてくる。見咎めて侑衣が祝を軽く睨んだ。
「君は?」
「桂木祝。元、虹色の王国の色のない騎士だ……って言ってもあんたももう分からないのか」
「そうか、向こうの世界を知っているんだな。だったら同席してもらってもいいか」
向こうの世界での記憶を失っている侑衣だったが、彼女は彼女自身が遺したノートによって向こうの世界のことをいくらかなりと理解している。るうかがそう説明すると祝は納得したように頷いた。
「さすが大神官代行の“左腕”と呼ばれるだけのことはあるんだな。大した覚悟だ」
「そういう君も以前の私のことをよく知っているようだ。なら、今朝から始まったこの状況がいかに異常で、それに対してどう対処すべきかということも考えることができているとみていいか?」
侑衣は祝を試すような調子でそう言った。祝は軽く笑って首を振る。
「事の異常さは理解してるよ。けど、どうしようもねぇ」
それを聞いた侑衣の顔がわずかに険しくなり、るうかはそんな彼女に向かって何故ここに来たのかと問い掛ける。すると侑衣はしかめた顔にさらに沈痛な色を浮かべて小さく項垂れた。
「今朝亡くなったのは私のクラスメイトだった。“天敵”がどういうものか、私は自分のノートで知っていた。けれどもそれはすでに私の感じる現実ではなくて、実感がまるで湧かなかった。悪い冗談だと思いたかった」
るうかと祝は共に息を呑んで侑衣の独白に聞き入る。
「夢と現実は違う。“天敵”という化け物が現実に現れているなら、それはもう夢の代物じゃないということだ。それを受け容れるところから始めなくては対処も何もない」
「……道理だな」
祝が相槌を打つと、侑衣は彼の顔を見上げて大きく頷いた。
「ああ。君も向こうの世界のことを知っているなら、この現実を受け容れた上での対処を考えるのに協力してほしい。るうか、君にもそれを頼みにきた」
「侑衣先輩……でも、私達ももう向こうの世界には行けないんです。同じ夢は、見ていないんです」
そしてるうかは自分が向こうの世界で“天敵”となって死亡し、この世界で無理矢理に記憶を取り戻した経緯を侑衣に話して聞かせた。祝もまた、彼自身が決断して向こうの世界と決別したことを告げる。しかし侑衣は微塵も動揺することなく2人に向かって微かに笑いかける。
「なるほど、そうなのか。けれど2人共、この事態にただ黙って誰かが助けてくれるのを待つほど悠長な性格をしているわけじゃないんだろう? それともなにか。夢の世界を捨てたらもう“天敵”と戦うことさえ捨ててしまうのか。それで勇者? 騎士? とんだ笑い話じゃないか」
その言葉にるうか達は思わず目を剥いて侑衣を睨んだ。
執筆日2014/06/14