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頼成と祝が“天敵”となった警官と戦っている間、るうかは校舎と外とを繋ぐ職員玄関の扉の陰に立ってその様子を見ていることしかできなかった。何しろこちらの世界の彼女には彼らのような恵まれた体格も体力も、そして頼成のようにためらいなく警官の銃を奪って発砲できるような度胸もない。この世界に生まれ育った彼女にはこの世界のルールを侵すことへの無意識の抵抗がある。たとえ自分の身が危険に晒されようと、武器を手にすることも相手の生命を奪うことも怖いのだ。それは彼女にとって夢と現実の大きな違いのひとつだった。
しかし、そんなるうかにも唯一できたことがあった。それは佐羽からのメールで頼まれていた“天敵”の写真を撮ることである。幸いにしてなりたての“天敵”は動作のひとつひとつがゆっくりとしていて、被写体とするには苦労が少なくて済んだ。るうか自身、夢の中であの肉塊の姿を見慣れていたためにおぞましさも感じなかった。彼女は警官が“天敵”になっていく様子を動画で撮影し、その後完全に“天敵”と化した彼の姿を何枚か静止画で撮影し、最後に頼成がその弱点を破壊した瞬間を写真に収めることに成功していた。
静かになった正門で、るうかは暗い顔のまま佐羽に今の画像を添付したメールを送信した。本文の部分には何と書いていいやら分からず、「こういうことになりました」と受け取った方が困惑するだろう文面を貼り付けることしかできなかった。そのうち落ち着いてから説明するしかないだろう。
そんなるうかを見て祝が「大丈夫?」と声をかける。
「顔色、悪いぞ。保健室ででも横になった方がいいんじゃないの」
「……そうかもしれない」
るうか自身、何ともいえない気持ちの悪さを感じていた。夢の中ではあまり強く感じることのなかった“天敵”への生理的な嫌悪感と恐怖感が喉元までせり上がってくる心地がする。それが現実なのだと、やっと彼女にも理解できてきていた。
逃れられない危機が迫っていると嫌でも実感させられている。目を覚まして終わる夢とは違う。死を迎えてなお終わらない夢とは違う。あれは人間にとっての“天敵”であり、何の恨みも憎しみもなく人間を捕食する生命体だ。ゆえにその対象には当然るうかも含まれ、そのことを知っているがために彼女は強い恐怖に襲われる。怖い、と思わずるうかは呟いた。
「舞場」
「どうしよう、桂木くん。私、今、すごく怖い」
そりゃあそうだろ、と祝は少し呆れたように言った。それから改めて「それが当たり前なんだよ」と噛み締めるように言う。
「お前、分かってなかったんだな」
彼にそう言われて、るうかは何も反論することができなかった。
しばらくしてから教室に戻ったるうか達を理紗が不安をたっぷり含ませた顔で出迎える。いつもの彼女であればどんなに気が滅入っていても「るーか!」と叫んで駆け寄ってくるというのに、今回ばかりは理紗も不安と恐怖に勝てずにいるようだった。
「るーか……祝と何してたの」
「そっち?」
るうかは軽く苦笑して誤魔化してみせるが、理紗は冗談やからかいや嫉妬といった意味でそう言ったのではなかった。彼女は窓から正門での一連の戦闘を見ていたのである。理紗の後ろから近付いてきた静稀もまた厳しい目でるうかと祝を見る。
「何があったの? あれは何なの? るうか、桂木、あれを知っているの?」
「清隆」
祝が静稀を牽制するように睨む。しかし静稀は大柄な祝に睨まれても1歩も引かない。
「ずっと見ていたんだよ。警察の人が何か黒い虫みたいなものにまとわりつかれて、追い払ったら急に苦しみ出して。そうしたらどんどん……人間じゃないみたいになっていったよね。でも桂木と、あとあれは槍昔さんでしょ? 2人は怖がりもしないで向かっていった。るうかもあの血まみれの状況に全然動じていなかった。私にはそう見えたけど、違う?」
「清隆、悪いけどそれは」
祝が言いかけ、るうかは彼の肩をぐいと引く。
「待って。あのね、桂木くん。きっと全部話しちゃった方がいいと思う。そうじゃないと静稀ちゃんも理紗ちゃんも……他のみんなも自分の身を守ることもできないと思うから」
「……」
「“天敵”がこっちの世界に出ているのはもう疑いようのないことだよ。だったら、ちゃんと対策を練らないと。みんなが“天敵”になったり殺されたりしたら私はどうしていいか分からない」
「舞場……」
いつの間にか教室内の生徒達が皆、るうか達を注目していた。何から話せばいいのか、るうかにも、そして祝にも恐らくよく分かっていない。それでも2人は生徒達の輪の中心に立って、2つの世界と“天敵”にまつわる情報を少しずつ話して聞かせたのだった。
夢によって行き来ができるもうひとつの世界がある。
その世界には魔法があり、現代医学では治すことのできない病気や怪我を治療することのできる治癒術がある。
しかしその治癒術は人間の細胞を異形化させ、最後には人間でなくしてしまう可能性を持っている。
細胞異形化により人間でなくなってしまったものは、人間を主食とする“天敵”となる。
そして今、どういうわけか本来治癒術も“天敵”もないはずのこちらの世界に“天敵”が出現している。
その原因として、黒い蝶の鱗粉が考えられる。それには健康な細胞を異形化させる働きがある。
ゆえに現在考えられる対策として、黒い蝶に近付かないこと、肉塊の化け物である“天敵”を見かけたらすぐに逃げることが挙げられる。
逆に言えば今できることはそれくらいしかない。あとは警察などのある程度の武器や戦闘能力を持った機関にこれらの情報を共有してもらい、対応してもらうしかないのだ。
るうか達が説明した内容に、生徒達は皆一様に難しい顔をして黙りこくっていた。それでも何人かの生徒の顔には「やっぱり」という納得の表情が見て取れる。きっと彼らはるうか達と同じ夢を共有している、あるいはしていたのだろう。疑問や反論が出てこないのは、恐らくまだ誰もが事実を受け止めきれていないからだろうと考えられた。
そんな中で静稀が落ち着いた声でるうかに問い掛ける。
「兄貴が言ってた“続き物の夢”って、そういうことだったんだね。るかりんも同じ夢を見ていたの?」
「見ていた、よ。今は見てない。私は夢の中で“天敵”になって死んじゃったから」
るうかは努めて何でもないことのように言ったが、その程度の演技で静稀を誤魔化せるものではなかった。彼女ははぁと大きな溜め息をついてるうかの方へと歩み寄る。
「馬鹿」
こつん、と静稀はるうかの額を軽く小突いた。
「そういうきついこと、どうして抱え込むの。私が信じないとでも思った?」
そんなことはない。るうかは内心でそう答える。きっと静稀はるうかの言葉であればどれだけ突飛なことでも信じてくれただろう。また、るうかも静稀の言うことであれば信じるだろう。静稀はそれだけの信頼に足る相手であり、静稀からるうかへの信頼もまた揺るぎないものだった。しかしるうかは静稀に対してひとつの負い目を感じている。それが枷となっていたかは分からないが、そのことを明らかにしないうちはるうかは静稀に対して全てを打ち明けることはできないだろう。
そう結論付け、るうかは改めて静稀に向かって口を開く。
「あのね、静稀ちゃん。私ずっと静稀ちゃんに黙っていたことがある。静稀ちゃんのお兄さん……湖澄さんのこと……」
「ストップ」
ぱちん、と静稀がるうかの目の前で自分の両手を打ち鳴らした。彼女は軽く顔をしかめつつも少しだけ口元に笑みを浮かべ、妹を諭すような調子で言う。
「今はいい、その話は後。それよりも大事なことがあるでしょ? 今朝の事件は本当は別の世界にしかいないはずの“天敵”が起こしたもので、原因は多分その黒い蝶。じゃあとにかく安全なところに隠れて、黒い蝶からも“天敵”からも身を守らなくちゃならないよ」
静稀の口から出たのは今後の具体的な行動についての提案だった。教室中の生徒達がざわめき、それぞれの携帯電話やスマートフォンで新たな情報がないか探し始める。その間に祝は近くに見える窓が全て閉まっていることを確認して回った。静稀も例に漏れずスマートフォンによる情報検索を始め、その傍らにいた理紗がつつ、とるうかの方へと近付いてくる。
「……るーか」
きゅっ、と彼女はるうかのブレザーの裾を握る。大きな瞳が不安をいっぱいに溜めてるうかを見上げていた。るうかは彼女に笑いかけ、告げる。
「大丈夫だよ、理紗ちゃん。私、こういうときに頼りにできそうな人を何人か知ってるから。その人達に頼んで調べてもらったりしてるから。安心して」
「違う」
理紗はそう言ってぐいとるうかの胴を抱き締めた。
「怖い、確かに怖い。でもその化け物が怖いんじゃない。あたし知ってる、るーかがあたし達を助けたいと思ってくれていることを知ってる。それが怖い!」
小柄な理紗の悲痛なまでの叫びに、るうかは一瞬頭が真っ白になる。彼女の指摘通り、るうかの考えの中には彼女達を助けたいという意思があった。しかし現実には彼女がそのためにできることなどないに等しいのだ。るうかは理紗を抱き締め返しながら、静かな声で語り掛ける。
「それも大丈夫だよ、理紗ちゃん。私は勇者なんかじゃないから、理紗ちゃん達を助けたりはもうできないから……」
大人しくしているよ。そう言ったるうかの目尻から一筋の涙が細く流れ落ちた。
執筆日2014/06/14