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イリガミスルクの廃神殿は脆い建物だった。元々扉には鍵が掛かっていたのだろうが、今はそれも錆びて崩れ落ちている。誰でも簡単に出入りできるようになっているが、中も相当に荒れ果てており危険なために敢えてそこに入る住民もいないようだ。目立つ尖塔がある以外、神殿の中の造りはアッシュナークの大神殿を小さくしただけのようで特に変わったところはない。煉瓦造りの壊れた暖炉と、その周囲に木枠の腐ったソファがいくつか置かれている。石造りの床には灰のような埃が積もっており、そこに誰かが踏み入った形跡はなかった。
「見事に廃屋だね。頼成、ここは使われなくなってどのくらいになるの?」
埃に顔をしかめながら佐羽が問い掛け、頼成はその辺りのことはまるで気にならない様子で周囲を見回しながら答える。
「20年って言ってたか。それだけの間神殿が機能していなくて、それでも“天敵”は多かったっていうんだから余計におかしい」
「うん、それでよく町が保てたものだよね」
「誰かが“天敵”の発生とその駆除を操作していた。輝名はそう踏んでいるみたいだ」
大神殿が復旧してくるにつれ、輝名は地方の神殿の現状調査にも力を入れ始めている。“左腕”のない彼1人でできることではなく、頼成はアッシュナークを離れにくい輝名の代わりにこの世界を巡っている。
「うーん、この神殿は本当にただの廃屋なんじゃないかな。人の気配はないし、“天敵”が発生した割にはそれが入り込んだ形跡もない。もし人がいれば“天敵”は鍵のかかっていないここに入り込んでそれを食べようとするでしょう?」
佐羽の分析に、頼成も「違いねぇ」と頷く。そんな2人の会話をよそにるうかは神殿の壁に描かれた絵を眺めていた。イリガミスルクと思われる町並みの中心にこの神殿の尖塔が見えている、そのような絵だ。アッシュナークの大神殿にそのような壁画はなかった。荒れ果てた神殿の建物の中でその絵だけが奇妙なほどに綺麗に残っている。るうかは埃の積もった床を踏み、壁際へと近付いた。そして気付く。
「頼成さん、落石さん、ちょっとこれを見てください」
「ん? 何か見付けたのか」
るうかが呼ぶとすぐに頼成が、そして足元の埃を蹴立てないように注意しながら佐羽が近付いてくる。そして3人は壁画に描かれたそれを見た。るうかの指がそっと壁の絵具をなぞる。
「“契約の塔が我々を守る。鈍色の灰に埋もれ、誰の手も届かぬように、永久に立つ塔を我々は守る”」
壁画はよくよく目を凝らして見ると文字によるモザイク画になっていたのだ。細かく書き込まれた文字は呪文でこそないものの、何か呪いの言葉のようにも見える。
「“人が人でなくなったなら塔に遣れ。人を辞めたい者がいたなら塔に上れ。契約の神の子が迎え入れる。我々が契約の塔を守る限り”」
「……神殿は神官のなり手がいなくなって潰れたわけじゃなかったんだ」
るうかが読み上げたモザイク画の言葉を聞き、佐羽は溜め息混じりにそう言う。
「神官を追い出したのはこの町の人間だ。20年前、町の人は神殿のやり方を否定して大魔王に縋った。祝福でも呪いでもない方法で治癒術をうまく扱おうとしたんだ。その代償として大魔王は町に“天敵”の献上を要求した」
「……虹色の女王の領地とは逆の考え方だな」
かつてあった国の名を出し、頼成が納得顔で頷く。虹色の女王の領地では、治癒術師を殺すことで“天敵”の発生を抑止していた。この町ではどうやら鈍色の大魔王、阿也乃と契約して“天敵”となりかけた者を彼女に引き渡すことでその脅威から逃れていたらしい。結果として“天敵”の発生は増えたが、それによって町に被害が出ることは免れていたのだろう。
「ゆきさんにしてみれば貴重な“天敵”のサンプルが安定して手に入るから願ったりだね。その中から強そうなのを見付けて勇者を作ってもいいし、封印しておいて手駒にするっていうのもありだ。何にしても魔法の作用で変質した人間の細胞には色々と価値がある」
「となれば、その契約の塔とやらに何か仕掛けがあるんだろうな。蝶もそっから漏れてきたのか?」
佐羽と頼成がそれぞれに推論を口に出していく。2人の中ではもう大体この町で何が起きているのか見当が付いているようだ。るうかは彼ら程状況を理解できているわけではないが、それでもこれが阿也乃の残した何かだということは分かる。
「上がってみますか」
頼成が天井を指差し、るうか達は尖塔へ上るための階段を見付けてそれを上っていった。階段にも埃が積もり、歩く度にそれがもわりと舞い上がる。窓のない塔の内部は風もなく、舞い上がった埃は再び床へと戻っていく。かびの臭いの満ちる階段をしばらく上ったところで、佐羽が低い声でるうか達を呼び止めた。
「止まって。結界がある」
「……っと」
先を歩いていた頼成が寸でのところで踏みとどまった。るうかの目にはよく見えないものの、頼成の前に何か濃密な空気の層がわだかまっているように感じられる。これが結界らしい。
「ああ、転移結界か? 階段を上っていくと知らないうちにどっかに飛ばされるって仕組みか。単純だが、“天敵”を収容するんだったらいい手だな」
「行ってみる?」
「そうしねぇと何も分からねぇだろ」
ず、と頼成は勢いよく片腕を結界のある場所へと差し出した。その腕は肘から先がぷつりと消えたように見える。やはりそこに結界があるらしい。頼成はもう片方の手をるうかに向けて差し出す。
「行こう。多少危険はあるかもしれないが、俺と佐羽がいりゃあ何とでもなる」
「……はい」
るうかは小さく微笑んで頼成の手を取った。その手が少しだけ震えたことに気付いて頼成が一瞬不安そうにるうかを見る。るうかは「大丈夫です」と笑って彼を安心させた。
そう、頼成の手を取ってその先に進むことに対しては何の不安もない。彼の意思も佐羽の力もるうかにとって充分に信頼に足るものだからである。彼らは自分を守ってくれるだろう。しかしるうかはもう彼らを守ることができないのだ。
力が欲しい。転移結界に足を踏み入れながら、るうかは強くそう思う。自分を守ってくれる優しい人達を、大切な人を守ることのできる力が欲しい。繋がっている頼成の手を強く握る。勇者の怪力を失って久しいが、それに代わる何かが欲しくてたまらなかった。
結界を抜けるとそこは急に清潔な場所になる。汚れた壁も積もった埃も見当たらない、綺麗に掃除されたオフホワイトの壁と床、間接照明で柔らかく光る天井がある窓のない広い部屋だ。ああ、と佐羽が頷く。
「これは十中八九、ゆきさんの研究施設だね」
「場所は分かるか?」
「さあ? 地上なのか地下なのかも分からないし、どういう施設なのかも具体的には。出て調べてみよう」
頼成と佐羽が相談し合い、部屋にひとつだけある扉を開ける。その瞬間、佐羽が外へ向けて派手な破壊魔法を放った。
「るうかちゃん、下がって!」
「佐羽、援護しろ。ぶっ叩く!」
2人の反応は速かった。ギチギチ、と何か金属の擦れるような音が聞こえる。るうかは部屋の中に留まりながら、2人の戦闘を見守った。やがて静かになった頃合いを見計らって扉の外に顔を出すと、そこには10本脚の蜘蛛のような格好をした、高さ50センチメートルくらいの小回りの利く機械の残骸が5体分ばかり積み重なっていた。るうかにも見覚えのある、侵入者を排除するための掃除屋機械だ。
「こいつがいるってことは」
頼成が足元の掃除屋機械を軽く蹴り飛ばしながら溜め息をつく。
「この施設は相当重要、恐らくは勇者の培養をやっているってことで間違いないな」
「調べてみよう。あ、ねぇもしも黒い蝶の製造ラインがあったら潰しちゃっていいよね?」
「ああ。あとは封印された“天敵”に注意しろ。万が一生きていたら厄介だ」
「了解」
頼成と佐羽の息はぴったりだ。進んでいくうちにるうかもその施設の様子に見覚えがあることに気が付いた。明るかったのは最初の部屋だけで、あとは金属のパイプや配線が剥き出しになった薄暗い廊下が伸び、まるでSF映画に出てくる宇宙船の中か、あるいは秘密の化学工場かといった設備があちこちに見受けられる。そう、ここはるうかが勇者として初めてこの世界で目覚めた場所によく似ているのだった。
廊下のところどころには扉があり、中には掃除屋機械がいたり、何かよく分からない機械が置かれていたりした。頼成達は掃除屋機械が襲ってきた場合にだけそれらを壊し、あとのものにはできるだけ手を触れないようにして先へと進んでいく。一体何のための機械か分からないものを迂闊に破壊してしまっては面倒なことが起こりかねない、と頼成は言った。
「あ、頼成。ここ!」
いくつめの扉を開けたときだろうか。佐羽が喜色の混じった声を上げ、それとほとんど同時に力いっぱいの破壊魔法をその部屋の中へとぶち込む。中で轟音が響き、頼成はマントでるうかを包み込むようにしてその身体を懐に庇った。
「おい、いきなりぶっ放すんじゃねぇ!」
「だって、黒い蝶がいたんだもの。潰していいって言ったじゃない」
「馬鹿野郎! 万が一鱗粉が飛んだらどうする!」
「大丈夫、塵ひとつ残さない程度の魔法を使ったから」
にっこりと笑って佐羽はそう言ってのける。るうかは頼成のマントの中から顔を出して部屋を覗こうとしたが、すでにそこに部屋らしきものはない。壁と天井と中にあった機械のなれの果てと思われるものが全て粉々の瓦礫となって部屋の入口を埋めていた。呆気ないものだ、というべきなのかそれとも佐羽の破壊があまりにも度を越していたというべきなのだろうか。頼成が友人のしでかした大破壊を前に頭痛をこらえるような表情をする。
「お前……なおさら破壊に特化してねぇか?」
「俺にはそれしかないからね。さあ、次に行こうか」
上機嫌の佐羽が足取りも軽く進んでいく。るうかと頼成は一度顔を見合わせ、苦笑を交わしてからその後を追った。
執筆日2014/08/25




