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るうかと祝はそれからしばらくの間、飽きもせずに正門の方角を見ていた。正門前の遺体はすでに運び去られ、規制線が張られて2人の警官が見張りに立っていること以外に今朝の惨状を思わせるものはない。アスファルトに残された血の染みはあまりに大きく、そして時間の経過とともに黒く変色したためにとても血痕であるようには見えなかった。
穏やかで涼しい風がるうか達と正門との間を吹き抜けていく。薄い雲がたなびく初冬の空から降り注ぐぼんやりとした光が門の影を長くしていた。それでも、日はまだ高い。
「舞場、教室に戻る?」
祝が少しだけためらいがちにそう言った。るうかが未だに真剣な表情をして正門の方角を睨んでいたからである。るうかは唇を噛み締めながら頷いた。いくら睨んでも、そこにるうかができる何かが見付かるわけではない。
るうかがあまりにも悔しそうな顔をしていたためだろう。溜め息をついた祝が彼女の肩に軽く手を置き、ぽんぽんとあやすようにそこを叩く。
「もういいよ、お前は戦わなくていいよ。これまで充分やってきたんだよ」
「……」
他愛のない慰めの言葉は2人の間を素通りして消えた。きっと祝も分かっているのだ。彼は彼自身の生まれた世界から目を逸らし、そこを捨てて生きることを選んだ。それがいかに辛い葛藤の末の選択だったとしても、彼がそれまでに向こうの世界で犯してきた罪は消えない。そして彼という人間はその罪を忘れて生きることができない程度には善人だった。だからこそ、るうかの無念も今の状況に対する疑問と苛立ちも理解できるのだろう。それでも彼はるうかの目を現実から逸らさせようとする。
「舞場」
祝がどこか切ない声でるうかを呼んだ。大柄な彼の大きな手がるうかの目を塞ぐ。戸惑いがちな彼の声だけがるうかの耳に届く。
「俺はさ……もうこれ以上傷付くお前を見たくない。死ぬまで戦ったんだろ。それってすげぇよ。俺には絶対できなかった。俺は逃げた。お前は逃げずに戦った。それで充分だ。だからもう」
「ごめん、桂木くん。私はまだ」
視界を塞がれたまま、るうかは祝の言葉を遮った。祝はそこにさらに被せるように言う。
「強情だな! いいんだよ、もういい。お前、もう戦えないだろ。だったら大人しく自分の身だけ守るようにしていればいい。ああ、必要だったら俺が身体張るから! だから本当、もう、あんま無茶なこと……」
祝は最後まで言い終わらないうちにるうかの目元から手を離し、その身体を包み込むようにかき抱いた。るうかにも分かる。生命のやり取りを日常とするような厳しい現実に晒されてきた彼だからこそ、そこから逃げる機会の貴重さを痛いほどに理解しているのだろう。そして今のるうかがどうしたところで、たとえ今朝の惨劇が“天敵”の仕業であったとしてもそれに対して何の影響も与えられないことを理屈で分かっているのだろう。それは正論で、るうかにも反論はできない。彼がるうかを大切に想っていてくれることはるうか自身もありがたく感じる。だからこのとき、るうかはしばらくの間彼のしたいようにさせておくことにする。
祝の身体は熱かった。彼はるうかを抱き締めたまま身動きひとつしない。まるで彼女をその場に縫い止めておこうとでもいうかのように、彼は動かなかった。そうすることで彼はるうかを守ろうとしているようだった。
現代日本という場所で考えれば、彼の行為はやや常軌を逸しているといえるのかもしれない。何しろ彼は一度るうかに告白をして振られている。しかもるうかには現在も頼成という恋人がいる。しかし彼はるうかを離さず、るうかもまた自分から彼を振りほどこうとも思わなかった。あの過酷な世界を知る2人は互いに互いが存在していることの重みをこの場でも痛い程に理解しているのだ。たとえ恋人でなくとも、好きな相手を、自分を好きだと言ってくれた大切な相手を失う可能性があると思えばその恐ろしさを痛感することができるのだ。
もしも本当にこちらの世界に“天敵”が出現しているのであれば、平和な日常など一瞬にして崩れかねない。穏やかな風が正門の規制線を揺らしている。見張りの警官の1人が一瞬路地の方を向いて、それからまたすぐに視線を別の方角へと振った。直後、警官達の周囲にちらりと黒い何かがよぎる。
るうか達はそれを見ていなかった。光の射しこむ踊り場で一塊になったままただじっとして、現実から目を逸らしていた。しかしその静寂は慌ただしい足音によって掻き消される。
「……おいこらてめぇ……!」
どすの効いた声と共に階段を駆け上がってきた黒髪に長身、強面の男が全力で祝をるうかから引き剥がす。剥がされた祝は大層不満そうな表情で男を睨んで文句を言った。
「久し振りっすね、青の聖者。なんでここにいるんすか」
「随分なご挨拶じゃねぇか……てめぇ、るうかに手ぇ出しやがったらタダじゃ済まさねぇぞこら」
「うるせぇな、偉そうに言えた立場かよ。つうかあんた部外者だろ」
「残念だな、俺はここの卒業生っだっ!?」
「何やってるんですか」
ごすっ、とるうかの拳が黒髪の男……頼成の顎を下から突き上げる。威力はないが、それで頼成も祝も気が削がれたようだ。頼成は祝を掴んでいた手を離して、それでも不愉快そうな表情はそのままに彼を睨む。
「ったく、しつけぇ男だなてめぇも」
「……あ?」
「るうかから聞いてるぞ。てめぇ、るうかに告白したんだってな? で、振られたと。それでまぁよくこんな真似ができたもんだこと」
「あんたに言われたくはねぇなぁ……舞場を散々苦しめてきたクソ彼氏はどこのどいつだぁ……?」
「んだとこらァ!」
「なめんじゃねぇよ、裏切り者がぁ!」
「だから何やってるの、って」
ばきっ。るうかは今度は祝の顎を打ち抜く。思ったよりもいい音がした。両成敗の憂き目に遭った2人はるうかを挟んで睨み合うも、さすがにそれ以上の口論をしようとはしない。るうかは心の底から呆れながらも、とりあえず頼成の方を向いて尋ねた。
「あの、どうしてここに?」
「どうしてって、そりゃああんたが心配だったからに決まってるでしょうよ。メール、見た。“天敵”の臭いがしたって?」
「……結局こっちも大学はサボりか」
祝がぼそりと言い、るうかも彼の言葉に頷きを返す。そうみたい、と言ったるうかに頼成が首を傾げた。
「ん?」
「さっき落石さんから連絡があったんです。分かっているだけで同じような事件が4件起きているそうです。それで、柚木さんや西浜さん、佐保里さんとも連絡がつかない……って。落石さんが言うには、もし“天敵”がこの世界に現れているならそれに“一世”が関係していないはずがないということでした」
「……そうか」
頼成は難しい顔で頷くと、ふうとひとつ大きな溜め息をつく。
「まぁとにかくあんたが無事でよかった。あんたのことだから、無茶して“天敵”を追ったりしなきゃいいと思ってたんだが……」
「それはさすがに、できません」
「だな」
「でも、何もしないでもいられなくて。だって、こうしている間にも誰かが……」
るうかがそう言いかけたその時だった。窓の外から微かな叫び声が彼女達の耳へと届く。最初に駆け出したのは頼成だった。
彼は真っ直ぐに階段を下りて一番近い職員用の玄関から校舎の外へと飛び出す。祝も舌打ちをしながら後を追った。るうかも2人を追って外に出たが、そこで2人から同時に怒鳴られる。
「来るな、そこにいろ!」
「舞場、動くなっ!」
びくりと身をすくませて立ち止まったるうかの目の前を駆けていく頼成達の行く先には正門があった。黄色い規制線の中で警官の1人がうずくまって何か叫んでいる。もう1人の警官が彼に触れようとして、そしてそこへ飛び込んだ頼成のタックルによって1メートル程吹き飛ばされて地面に倒された。
「桂木!」
「うるせぇ!」
頼成が祝に呼び掛ける。祝は文句を言いながらもその足でうずくまる警官を蹴り飛ばした。その顔に浮かび上がるのはぼこりぼこりと脈打つ真っ赤な肉の塊であり、最早そこに人間らしい顔は影も形もない。頼成に倒された警官が同僚の変貌を目の当たりにして恐怖のあまりに叫び声を上げた。
「うわああ!?」
「はっ……マジかよ。どっからどう見ても細胞異形化真っ只中じゃねぇか」
頼成が歯噛みしながら言い、祝もまた拳を握って肉塊の顔を持つ警官を睨みつける。
「どうする、聖者」
「槍昔頼成、だ。こっちの世界で聖者も何もねぇよ。で、どうするもこうするも……」
「……くっそ、せめてバットくらい持っておくんだった」
「お前も思考が切り替わらねぇのな。中身はまだ色のない騎士のままか」
「うるせぇな。あんたが聖者ならこのなりかけの“天敵”を何とかしろよ」
「できるもんならそうしてる」
悔しそうに頼成は言う。そう、向こうの世界であれば頼成には異形化した細胞を殺して元の人間の細胞増殖を促進する効果を持つ聖者の血が流れているのだ。それを使えば警官を助けることもできるはずである。しかしこちらの世界の頼成の身体に流れているのはただの人間の血に過ぎない。
「う、があ……」
顔の変形した警官がどこからか声を出して呻く。彼の手が自分の顔を覆い、そこから伝染するようにして彼の両手が赤に染まっていく。皮膚が弾け、中から奇妙な形の肉の塊がぼこりぼこりと湧き出てくる。
最悪だ、と頼成が吐き捨てるように呟いた。
執筆日2014/06/01