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舞場家の電話が鳴ったのは、年度が変わって間もないある休日の朝のことだった。その日は順が夜勤のためにまだ家に帰っておらず、聡は休日返上で出張に出掛けていたためにるうかしかその電話を取ることのできる者がいなかった。るうかはいつものように受話器を取り上げて「はい、舞場です」と応対する。そこにどこかで聞いたことのあるような、しかしやはり聞き覚えのないような穏やかな声が届いた。
『おはようございます。初めまして、比羅岡クリニック院長の比羅岡といいます。るうかさんでいらっしゃいますか』
それはかつて朝倉医院と呼ばれていた医院からの電話だった。るうかはわずかにどきりとしながら「はい」と答える。比羅岡院長は少しだけ間を空けて、それからゆっくりと告げた。
『当院にて入院療養を行っていた宝喜美香さんが、昨夜息を引き取られました』
「……」
るうかの胸にじんわりとした悲しみが広がる。しかし驚きは少なかった。そうですか、と沈んだ声で言うるうかに比羅岡院長は喜美香の家族からるうかに対して通夜に参列してほしいという申し出があったと話す。るうかはそれに頷きながら、3か月程前のある日のことを思い出していた。
正月が過ぎ、じきに新しい学期が始まろうかという頃だった。小雪のちらつく中、るうかは1人比羅岡クリニックを訪れていた。目的は喜美香に会うこと、それだけだった。
緑の残した魔法によって世界があの日の続きを取り戻したといっても、朝倉医院は比羅岡クリニックに変わったままだった。それは取りも直さずそこが特殊な場所であるということを意味していたが、るうかは臆せず医院の中に踏み入った。受付の事務員に声を掛けて喜美香に面会できるかどうか問い合わせる。しばらくして、白衣を着た若い男性がるうかのところにやってきた。彼は目にも鮮やかな紅い髪を短めに刈っており、やはり赤みを帯びた目をしていてるうかを驚かせる。どうやら染めたりしているのではなく、元の色であるらしい。
男性はこの医院に勤める内科医で市ヶ谷という名だった。喜美香の担当医をしているとのことで、彼が先に立ってるうかを喜美香のいる病室まで案内してくれた。
病室のドアの脇に掛けられた小さなネームプレートにはやはり“宝喜美香”という文字がある。かつて向こうの世界でアッシュナーク大神殿のテロに参加し、るうかと対決をしたこともあるあの少女の名前だった。そして向こうの世界の喜美香は阿也乃と佐保里が仕掛けた策によって“天敵”となり、輝名によってその悲惨な生を閉じられた。だからそこにいる彼女はもう向こうの世界を夢に見ることはないのだろう。勿論るうかのことも覚えているはずがない。
そこまで考えてるうかは躊躇した。通りすがりの廊下で彼女の名前を見付け、そこに彼女がいることを確かめたあの日からいつか見舞いに来ようとは思っていたのだ。しかしそのことに何の意味があるのかは分からなかった。分からないまま、ただ来た。
家族の承諾は得られている、と市ヶ谷医師が言う。本人の承諾は、とるうかが尋ねると彼は小さく肩をすくめ、黙ってるうかを部屋の中へ入るように促した。
受話器を置いたるうかは天井を仰ぎ、零れそうになる涙をこらえる。あまり泣いては今夜の通夜に酷い顔で出席することになってしまう。それはきっと喜美香を不機嫌にさせるだろう。るうかにはそう思えた。
3か月前の見舞いの際に、るうかは初めてこちらの世界の喜美香に会うことができた。しかしある意味では全く会うことができなかった。喜美香は数年前から意識の混濁が頻繁に起こるようになり、1年程前からは数日に一度、ほんのわずかの間だけ一言か二言の話ができるような状態が続いていたのだという。それが年が明けてからは全く目を覚まさなくなったのだと市ヶ谷医師は言っていた。病室にいた喜美香の母親は彼女と同じピンクがかった金茶色の髪と青みを帯びた目を持っていて、静かに微笑んでるうかに頭を下げたのだった。
病名は聞かなかった。そして今の電話でも、死因を尋ねることはしなかった。るうかは洗面所へ行くと蛇口から流れるままの冷たい水で顔を洗い、赤くなった目元をよく冷やす。それからしばらくして帰宅した順に事情を話し、彼女の喪服を借りた。通夜が始まるまでにはまだ時間があったので、少し外を散歩してくることにする。玄関を出ようとしたるうかに順が少しだけ心配そうに声を掛けた。
「大丈夫?」
「うん」
短い会話だけを交わして、るうかは外に出る。春の陽射しはとても穏やかで、悲しい知らせに沈むるうかの心を優しく宥めるようなそよ風が吹いていた。
そうしてしばらくぶらぶらしながら時間を潰し、夕刻には黒い喪服を着込んで通夜の会場へと向かう。普段は乗ることのない路線の地下鉄に乗り、少しだけ道に迷って辿り着いたそこには以前に出会った喜美香の母親と、彼女と同じ年頃に見える黒髪の男性、そして紅い髪の市ヶ谷医師がいてるうかを静かに歓迎してくれた。
喜美香は長いこと入院生活を強いられていて、学校にもほとんど通うことができなかったらしい。そのために友人もおらず、家庭の事情もあって見舞いに来るのは両親に限られていたのだそうだ。そこへ突然現れたるうかが何者で、喜美香とどういう知り合いであるのか、彼女の両親は何も聞かなかった。ただ娘の死を悼む1人としてるうかをその場に受け容れた。
通夜は彼らと、そしてるうかのために設けられたようなものだった。明日には火葬にされる喜美香の遺体の傍で静かに時を過ごすうち、彼女の母親がるうかに声を掛ける。喜美香の顔を見るか、と聞かれてるうかは頷いた。
白木の棺に納まった喜美香の表情は穏やかで、健康的に見えた。その顔は3か月前に見舞いに行ったときとは全く異なっており、まるで向こうの世界の喜美香がそこにいるかのようだった。年頃の少女らしくふっくらとした頬にほんのりと色付いた唇。目元にも仄かに赤みが差している。肌は白くきめが細かく、つつけば柔らかいであろうと思われるものになっていた。
少女の遺体に蓋をして、るうかは堪えきれずに涙を落とす。この世界でるうかは無力で、死んでいこうとしている彼女に対して何もすることができなかった。いや、本当はやろうと思えばできたのだ。るうかの体内には今も阿也乃に飲まされた魔法の宝石のようなものが残っている。そして彼女の持って生まれた魔法は治癒の方向に長けている。喜美香の生命を助けることも、もしかしたらできたのかもしれない。
しかし言うまでもなくそれには大きな代償が生じる可能性があった。喜美香を再び“天敵”にしてしまうかもしれない。それを避けられたとしても、るうかがまた“天敵”になってしまうかもしれない。向こうの世界であれば“天敵”と戦うことのできる者もいる。しかしこちらの世界でそれを望むのは無理だ。だからるうかは何もできず、何もせず、深く眠る喜美香に触れることすらできずに彼女の病室を後にした。
触れただけでその生命が散ってしまいそうなほどに儚く見えた少女は今、棺の中という最も安寧を約束された場所でその身体が灰へと変わる時を待っている。鼓動を失い冷たくなった身体であれば、るうかが触れても散ることはなく“天敵”に変わることもない。死とは、それ以上決して変わらなくなることなのだとるうかは思い知らされる。
夜が更ける前にるうかは斎場を出て家に戻った。順は娘の帰宅を見届けてから出勤し、聡は明後日まで帰らない。1人きりで自分の部屋に入り、るうかは窓辺に置いた小さな鉢植えを持ち上げる。
「……あ」
るうかは小さく目を見開き、声を上げた。丸い鉢の中、黒い土の上に緑色をした小さな芽が顔を覗かせていたのだ。昨夜見たときにはなかったはずの芽である。種を蒔いたのが昨年の末頃であったので、実のところはほとんど諦めかけていた。
それはあの日、緑の研究所でるうかの手の中に落ちてきた種だった。何の種かも分からず、そもそも本当に種であるのかすら分からなかったものだ。球形で、わずかに青みがかった黒色をしたその種の正体を謎として留めたまま、るうかはそれを鉢の土に埋めた。花でも咲いたら教えてくれ、と頼成に言われたことを思い出す。芽が出たということは種であることは間違いないのだから、そのうちに花が咲くかもしれない。そうなればいい、とるうかは思った。
そしてるうかは身支度を整えてベッドに入り、自分だけの夢を見る眠りに落ちていった。
執筆日2014/08/25




