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湖澄というとんでもない編入生を迎えながらも授業は滞りなく進んだ。湖澄も授業の内容についていくことに関しては何も問題がないようで、静稀に教科書を見せてもらいながら熱心に授業に臨んでいた。教科書がないことを口実に妹の隣の席を手に入れた彼はどこか楽しそうで、そんな彼が浮かべる微笑に見とれる女子生徒が後を絶たず、静稀はひたすら頭を抱えていた。昼休みには他の学年からも湖澄を一目見ようと見物客が押し寄せたりもしたが、当人が何も気にせずひたすらに妹との空白の時間を埋めようとしているのでこれもまた呆れた話だった。
“二世”という役目から解放された彼はやっと彼個人の、人間としての生活を謳歌しようとしているのだ。たとえ少々目立っていようと、それによって静稀がほとほと困り果てていようと、ここしばらくは大目に見てもいいようにるうかは思う。輝名にしても同じことだ。
静稀はいずれ湖澄から多くの話を聞くのだろう。夢の世界を知らない彼女がそれをどのように受け止めるかは分からない。しかしそう悪いことにはならないに違いない。そう信じることが今のるうかにできるただひとつのことだった。
全ての授業を終えて帰途につく。湖澄は静稀と共に清隆の家に帰ると言って先に学校を出た。理紗は部活があるからとそちらへ向かい、祝も野球部の練習に向かった。そこでるうかは1人で駐輪場へ行き、今朝傷をつけてしまった愛車を取って正門の方角を見る。そしてそこに見覚えのある姿を見付けた。るうかが声をかけるより早くその短い黒髪の青年が彼女を見て、そしてどこかぎこちなく微笑む。どう見ても強面の彼の頬に浮かぶ笑みはわずかに影を帯びて、一瞬だけるうかを不安にさせた。それを振り払い、るうかは自転車を半ば引きずるようにして押しながら彼の元へと急ぐ。
「頼成さん……!」
「よう、お疲れ」
頼成は昨夜別れたときとは異なる、そしてるうかにも見覚えのあるシャツと暖かそうな黒色の上着をまとってにっと笑った。
「悪いな、ちょっと待たせてもらった」
「全然構いませんけど、携帯に連絡をくれればよかったんじゃないですか?」
「あんたを驚かせようと思ったんだよ。……大して驚きもしていないようですが」
「あ……いえ、驚きましたよ、少し」
「少し?」
苦笑する頼成に、るうかは何とも返すことができずに少しだけ俯く。何故か彼がそこにいることに対する驚きはとても薄かった。いつか正門前で佐羽と2人、賑やかにやりとりをしながらるうかを待ち構えていた頼成の姿を思い出す。あれから半年ばかりの時間が過ぎた。
「向こうの世界は大丈夫ですか。あと、大学の方は」
「ああ。その辺のことをあんたに話そうと思って待ってたんだ。場所、移すか。あの店でいいか?」
「大きくて安いパフェのある喫茶店ですね。いいですよ」
そして2人は連れ立って歩き、裏通りにある喫茶店に入る。もう何度訪れたか分からないその店で奥のボックス席を選んで座り、るうかはブレンドコーヒーを、そして頼成は苺パフェをオーダーする。この寒い中でも頼成の選択は変わらない。やがて出てきた白と赤、そしてピンクのコントラストも鮮やかなパフェにスプーンを刺し入れながら頼成はゆるりと口を開く。
「今日、湖澄と輝名に会ったか?」
るうかはコーヒーに角砂糖を1個だけ落としてそれをかき混ぜながら「はい」と頷く。そうか、と返した頼成の口元には呆れたような笑みが浮かんだ。
「あいつら、今朝揃ってうちに顔出していきやがったんだ。挨拶だとか言ってな……朝の6時に」
「それはまた、随分早いですね」
「高校に行くからその途中で……とか言っていたな。が、どう考えてもその時間に行ったって誰もいやしねぇ。要は俺を捕まえたかったんだろ」
ふ、とひとつ笑みを零して頼成はピンク色をした苺のアイスクリームをスプーンで一掬いする。そして何を思ったかそれをるうかの口元へと差し出した。るうかは一度瞬きをして、そして小さく口を開く。
「それじゃ入らないんですがね」
「あ、はい……」
何がどうして喫茶店でこのような恥ずかしいことをしなくてはならないのか。恋人同士というよりも小動物に餌を食べさせるような頼成の手つきはあくまでぎこちない。それでも彼が嫌に幸せそうに微笑むのでるうかは何も言わずにアイスクリームを味わった。酸味の聞いた苺の味はるうかとしても嫌いではない。
「美味しいです。ありがとうございます」
「ん。俺もあんたが美味そうに食う顔を見られて大変満足です」
そう言って頼成はまた柔らかく微笑む。るうかはそんな彼の表情に小さな違和感を覚えた。その正体が何であるのか分からないまま、2人は互いに今日あった出来事などを取り留めもなく話していく。るうかは勿論学校での湖澄の様子について語り、頼成を思い切り呆れさせた。
「あー、あの湖澄がねぇ……。妹のこととなるとそこまで変わるもんか」
「面白かったです。それに、髪を切っていたのも少しびっくりしました」
「ああ。まぁさすがにあの長髪で高校生はやってらんねぇでしょうよ。あいつも輝名も癖毛だから、思いっきり短くするか少し伸ばしてくくるかしないと大変なことになるんだと」
「それでまだ少し長めだったんですね。銀髪の人なんてなかなかいませんから、ものすごく目立っていました」
だろうな、と頼成はまた少しばかり歪んだ笑みを浮かべてみせる。彼は元々少々怖い顔立ちをしており、目の色が薄いことも相まってその眼差しはどこか人間離れして見えることがある。それでもるうかや佐羽などに向ける目線はいつも優しさを含んでいて、そこに頼成の人となりがよく表れていた。しかし今はそれに加えて何か後ろめたいような色が紛れ込んでいる。
頼成は昨夜こちらの世界に戻ってきた後、自宅アパートに帰って休んだのだという。そして今朝は輝名と湖澄の来訪によって起こされ、その後二度寝をする気にもなれずに部屋の片付けなどをして、それから大学に休学届を出しにいったのだそうだ。
「休学、するんですか」
「ああ、1年間。来年の後期からまた2年生を始めることにした。1年は向こうの復興に費やす……なんて言えば格好はつくが、まぁ実際は後始末だな。ゆきさんに近かった身としちゃあ、あの混乱を放置するってわけにもいかねぇ。輝名も大神殿の方は何とかするって言っていたが、あいつ1人でってわけにもいかねぇだろうし」
るうかはこくりと頷いて頼成の表情を窺う。真剣な瞳でこの先の予定を語る彼の目に先程の曇りはない。勘違いだったのだろうか。るうかの不安な心がそう見せていただけのことなのだろうか。
「大学はね、1年程度遅れたところでそんなに大きな影響はねぇし。それより向こうの方が今は大事だ」
「そうですね。……たまにはこっちの世界にも戻ってくるんですか?」
「ああ。あんたの休みに合わせて戻ろうかと思ってる」
デートするならこっちの世界の方が安全で楽しめるしな、と頼成は何でもないことのように言ってみせる。るうかはほんのりと顔を赤らめながら頼成の目を見て、そこにやはり小さな曇りの色を見た。尋ねてもいいものなのだろうか。一体彼が何を気に病んでいるのか、明らかにしたいと思ってしまってもいいのだろうか。
「……頼成さん」
「るうか」
るうかが言いかけるのを遮るかのように頼成が彼女の名前を呼んだ。はい、とるうかが応じると頼成はふとその顔から笑みを消した。彼は低く小さな声で言う。
「今が最後の機会かもしれねぇから、聞いておく。あんた、これから先も俺と付き合っていくのか?」
「……え?」
思いがけない問い掛けに戸惑うるうかを見て、頼成は表情の失せた顔を少しだけ彼女の方へと寄せた。
「知っての通り、俺は勝手な男だ。あんたのいる世界を選ばずに向こうの世界を選んだ。あんたよりも自分のやりたいことを選んだ。佐羽にどやされたのも当然だ。それに俺は、佐羽よりよっぽど卑劣な外道だ」
「……」
「今朝、ニュースを見たか?」
るうかが首を横に振ると頼成はそうかと小さく頷く。
「多分夕方のローカルニュースでも少しは取り上げられるだろう。明日の朝刊にも載る。日河岸川が海に流れ込むところで若い男の死体が揚がった。正直、こんなに早くに見付かるとは思っていなかった。どうせ身元は分からないだろうし、心配事は別にない。だがあんたには、黙っておいちゃまずい気がした」
どくんどくん、とるうかの心臓が大きく鼓動を打つ。頼成が何をしたのか、そしてどうしてその瞳を曇らせているのか、るうかにももう想像がついていた。だから彼女は尋ねる。
「死体の身元は、分からないんですか。短い黒い髪に、背の高い、大学生くらいの男の人なんでしょう」
「……ああ」
「槍昔頼成だ、ということにはならないんですか」
「身分証も携帯も財布も、何もかも抜き取った。あれは俺のものだ」
頼成の顔が邪悪に歪む。
「鋭いな。そう、俺はこの世界に残った“槍昔頼成”の影を消した。それが俺が向こうの世界に残ってなおこっちの世界で動くには必要なことだった。佐羽も同じことをしたんだが、あいつの場合は自分が殺されそうになったから仕方ないとも言える。だが俺は逃げる槍昔を追い掛けて、何も気付いていないただの大学生の槍昔を殺した。死体がある以上はこの世界では犯罪だ。それもあって俺は1年、ほとぼりが冷めるまでこの世界から隠れることにした」
俺はそういう奴だ、と頼成は自嘲気味に苦く笑って言う。それでもいいのか、と彼はるうかに決断を迫る。るうかの答えは初めから決まっていた。
「私は多分、頼成さんが思っているほど心根の綺麗な人間じゃありませんよ」
ふふ、と笑みを浮かべながらるうかはほどよく甘みのあるブレンドを口に含んだ。香ばしい苦みと酸味、そして広がる芳香がるうかの中にある倫理観や正義感をふんわりと麻痺させていく。
「いいじゃないですか、どっちも頼成さんだったんです。頼成さんが、頼成さんをどうしようと頼成さんの勝手ですよ」
「……そりゃあまた、ひでぇ理屈だな」
「落石さんみたいなことになるよりいいです。あれだけのものを見せられれば、そういう感じ方にもなります」
「そして今度は他人のせいにしますか。あんた、そんな人だっけ?」
「舞場るうかを死なせたのは私ですよ」
るうかは敢えて際どい言葉を選び、笑顔を添えて頼成へと投げる。しかし決して嘘や誇張の類ではない。3年前、夢の中とはいえ全く無謀極まりないことをしでかして治癒術師の“るうか”を死に追いやったのは紛れもなくるうか自身だった。彼女の無知と無謀が彼女を死に至らしめた。そしてるうかは“るうか”としての記憶を失い、それまでの舞場るうかという人間を死なせた。今のるうかにはいくらかその当時の記憶が蘇っている。しかしそれもひどくおぼろげな儚い夢のようなものでしかない。それが現実であったという感覚は全くないのである。
「ひどいことだとは思います。こっちの世界に残った槍昔さんに、何も罪はありません。それを殺していいとは思いません」
「……」
「でも、この世界を変えた私や落石さんにそれを責めることはできません。言ってしまえば、私達が簡単に諦めていれば槍昔さんは殺されずに済んだし、頼成さんも殺さずに済んだんです。誰が悪いかは分かりません」
「……そうだな。そうやって俺達はひどく危うい場所で、それでもこうやって何とか顔を合わせて話ができる。俺はそれでいいと思ったからやった」
後悔はない。そう言って頼成はわずかに曇りの晴れた目で笑う。るうかもまたそんな彼に穏やかな微笑を向けた。
「秘密にしましょう。私達だけの、悪い秘密に」
「……ですね。あんたにそれを背負わせるのは酷かと思ったが、どうやらそうでもねぇみたいだ」
「はい」
るうかは迷いのない目で頷き、冷めかけたコーヒーを飲み干した。
目を閉じるとぼんやりといつか見た湖の景色が蘇る。その水際で佇むるうかは1人だ。白昼夢、るうかは記憶の湖に背を向けて遠くに見える街の明かりを目指し歩き出す。忘れてしまえ。
忘れてしまえ、過ぎ去った過去、取り戻すことなどできない過ちの記憶など。ただそれがあったという事実だけを抱いて進もう。後悔も無念も全てこの水際に置いて、るうか達は目の前にある今という時間を生きるのだ。
るうかが目を開けると、頼成が苺パフェの最後の一口を食べようとしているところだった。るうかの視線に気付いた頼成がその一掬いを乗せたスプーンをるうかの方へと差し出す。るうかは2人を隔てるテーブルの上に身を乗り出すようにしてそれをぱくりとくわえた。クリームと苺のソースにまみれたスポンジケーキに金属の味が混じる。飲み下して笑えば、頼成もまたにい、と愉悦に満ちて笑うのだった。
執筆日2014/08/14




