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静稀の攻撃を受けるのは久しぶりだ、と妹馬鹿の銀髪青年はどことなく楽しそうに語った。騒動もひと段落した今、彼はるうか達と共に窓際の席に座っている。そこには静稀の他に理紗と祝も集まっていた。
「……清隆の兄貴、ねぇ……そりゃまた、何ていうか」
祝がどこまでも呆れた調子で呟くと湖澄はやっと彼に気付いた様子で軽く目を瞠る。
「ああ、お前は確か……」
「おい」
「大丈夫だ、確か桂木……だったな。頼成から聞いている」
「あー……どうも。桂木祝っす。……なぁ清隆、色々説明してほしいんだけど」
向こうの世界で一度会ったことのある湖澄と祝だが、勿論そのことをここで話題にするわけにもいかない。今となっては全て明らかにしてしまっても構わないのかもしれないが、それをするには時間が足りない。そこで祝はこの場でもっとも話を滞りなく進めることに長けていそうな静稀に説明を求めた。そういうことなのだろう。静稀はひとつ頷いてから軽く兄を睨む。
「清隆湖澄、私の兄さん。3年前に急に家を出ていなくなって、今日いきなり戻ってきた。今年の夏に1回電話があったけど……そのときにもとにかく何でもいいから戻ってこいって言ったんだけど」
「ああ、すまなかった。あのときはどうしても戻れない事情があったんだ」
「その辺、全部説明できるの?」
「長い話になる」
「兄貴の話はいつもすごく長いかすごく短いかだよ」
「そうだったか?」
そうだよ、と静稀は呆れた調子で溜め息をつく。なるほど、輝名とはまた別の意味でマイペースな湖澄のことだから、いつもこうやって妹に呆れられながらも仲良く過ごしていたのだろう。それが3年前に突然途切れた。湖澄が向こうの世界で石化し、無謀にもそれを助けようとした治癒術師のるうかが“天敵”となって封印され、石化の解けた湖澄は彼女のために聖者の血を差し出した。結局そこのところを湖澄から直接聞くことはできなかったが、るうかはその推測が真実だろうと確信している。湖澄は否定できることであればしただろう。否定しなかったということは事実であるということだ。そしてその事件を機に彼は己の生き方に迷い、向こうの世界ではネグノスの里と呼ばれる死を待つ人々の住む地に腰を落ち着けた。そしてこちらの世界では清隆の家を出て、朝倉医院で住み込みで働いていた。
元々こちらの世界の湖澄と静稀は血の繋がりのない兄妹だ。湖澄が“二世”であるのだから当然のことである。輝名と同じように湖澄もまたこの世界にルーツを持たない特殊な存在で、それでも紛れもなく人間なのだった。彼は幼い頃に清隆の家に引き取られ、それからすぐに静稀という妹がその家に生まれ、そうして2人は兄妹となった。静稀は兄が失踪するまでその事実を知らなかったのだという。そのことが彼女をどれだけ苦しめていたのか、湖澄は知っているのだろうか。
「湖澄さん、あたしのこと覚えてますか?」
兄妹の会話に口を挟んだのは理紗だった。彼女はちんまりとした身体に不気味な迫力を滲ませて凄む。その程度で動じる湖澄ではないが、彼女の雰囲気に何か感じるところがあったらしい。そっと居住まいを正して理紗へと向き合う。
「ああ、確か松ヶ枝さんだろう。中学の頃から静稀と仲良くしてくれていた」
「そう、覚えているなら話は早い。ちょっと言わせてもらっていいですか?」
「何だ」
湖澄が応じると理紗はすう、と大きく息を吸い込んだ。そして改めて口を開く。
「3年もの間どこをほっつき歩いていたんだこの唐変木ーっ! 静稀がどれだけ心配したと思ってるんだーっ! まずは謝れ! 謝って許しを請え! 話はそれからだろう!!」
教室中、いや廊下にまで確実に響き渡った理紗の声に、横で聞いていた祝が耳を塞ぎながらもうんうんと頷いている。静稀は何とも言えない目つきで友人を、そして兄を見た。るうかも似たような視線を湖澄へと送る。そして当の湖澄はたっぷり10秒は黙った後、静稀の目を見てゆっくりと告げた。
「ああ……すまなかった。長い間留守にして、心配をかけたことを謝らせてほしい」
湖澄の言葉に、ついに静稀は目に涙を浮かべる。湖澄はいささか感覚がずれているものの、どこまでも真摯だった。彼は彼なりにずっと妹を、そして義理の両親を大切に思ってきたのだ。
「静稀、また俺を家族として迎えてくれるだろうか」
これまでの経緯は後で話す。湖澄はそう約束して妹に再び自分と共に暮らしてくれるかと問い掛けた。静稀は何も答えず、ただ涙ぐんで兄を見つめる。その唇がわなないて、一度ぎゅっと噛み締められて、それからまるで呆れ返った口ぶりで彼女は告げる。
「馬鹿なこと言わないで。兄貴はずっとうちの家族だよ」
そのときるうかは湖澄の身体が小さく震えるのを見た。以前よりも短くなった銀色の、それでも長く美しい髪がふわりと揺れる。色白の頬を一筋の涙が伝った。
「……ありがとう、静稀」
そう言って湖澄はこれまでにるうかが見てきた彼の笑顔のどれよりも美しく、優しく、温かく微笑んだのだった。
驚いたことに、湖澄はこの学校に編入するという形で高校生活に戻ることにしたのだという。元は市内でも有数の名門校に通っていたというのにどういう風の吹き回しかと思えば何のことはない。静稀の傍にいたいからだと彼は答えた。呆れるるうか達に対してさらに彼はとんでもないことを言い出す。なんと、本来なら高校1年生から履修し直すべきところを彼はるうか達と同じ高校2年生の、しかもこの冬の学期から始めるというのだ。学力審査は問題ないと彼は言う。どうやらそれまで名門校でここよりも進んだカリキュラムの授業を受けていたことで必要な単位は半分以上取得できているらしい。では残りの半分はどうするのかと尋ねた祝に湖澄は「放課後と休日に補習を受ける」とこともなげに言った。
「そこまでして……静稀の傍にいたいか……」
さすがの理紗も幾分腰の引けた様子で呟く。静稀は頭を抱えて「この馬鹿兄」と呻いている。るうかは正門の近くで出会った輝名のことを思い出しながらこっそりと湖澄に尋ねる。
「もしかして、輝名さんが来ていたのもその手続きのためだったんですか?」
すると湖澄はこれまたなんでもないことのように頷いた。
「ああ。あいつはその手の交渉事が得意だからな。頼らせてもらった」
「……もしかして、うちのクラスに……?」
「その手筈になっている。人数的には何ら問題ないそうだ」
「はい、問題になるのはそこじゃないと思います」
血が繋がっていないとはいえ妹と同じクラスに2つ歳の離れた兄が在籍しているというのは随分と奇妙な状況だ。その状況を整えるに当たって輝名が一役買ったというのも驚くべきことだが、それよりもやはり問題は湖澄である。久しぶりに妹に会い、また共に暮らせることになって嬉しいということはよく分かる。しかしだからと言って何も学校やクラスまで共にしなくてもいいのではないだろうか。
「湖澄さん……静稀ちゃん、困っていますよ」
るうかがやんわりと言うと、湖澄はふと不思議な目をしてみせた。
「ああ」
「分かっていてやっているんですか」
「そういうことになる」
「どうして?」
「舞場さん」
湖澄は深く静かな声でるうかの苗字を呼んだ。そこに込められた意味を、るうかはすぐに汲み取ることができない。だからただ彼の次の言葉を待つ。
「俺はいつか有磯の籍に入ろうと思っている」
「……え?」
「輝名は構わないそうだ。そして改めて清隆の籍に入る」
この名前がとても気に入っているから、と湖澄は微笑みを浮かべながら言った。るうかは彼が何を言わんとしているのかを全く理解することができない。しかしどことなく輝名と似た笑みを浮かべて静稀の方を見ている湖澄を眺めているとほんの少しだけではあるが想像がついた。これはまた、何やらろくでもないことになりそうである。静稀の渋面もまたそれを証明している。
「大神官代行といい、本当にとんでもねぇ……」
周囲に聞こえないようにぼそりと呟かれた祝の言葉に、るうかはただただ大きく頷きを返すだけだった。
執筆日2014/08/14




