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それにしても、とるうかは輝名に尋ねる。
「輝名さん、自分の学校はいいんですか」
輝名は中身のないブレザーの左袖を風に遊ばせながら「ん」と小さく声を出す。彼にしてはとても珍しいことに、どうやら返答に迷っているらしい。そんな様子を見ているうちにるうかはひとつの違和感に気付く。
以前、輝名はこちらの世界にいるとき三角巾とベルトを使って左腕を吊っていた。彼の左腕は向こうの世界において“天敵”となりかけたために斬り落とされて失われたのだ。その影響でこちらの世界でも彼の左腕は全く動かないものとなった。麻痺した腕が自重で抜けたり、負傷したりしないようにといつも保護していたことをるうかも覚えている。
しかし今の彼は三角巾をまとっていない。その腕は向こうの世界にいたときと同じように、そのものがなくなっているのだった。驚きと戸惑いを隠せないるうかに対して輝名は親切にも説明をくれる。
「どうせ動かねぇ腕だ。こうなった以上は切り落としちまった方が楽なんだよ」
「……そういうものですか」
「ああ。それこそ残しておいても未練がましいだけだ。腕の1本で済むなら安いもんだろうが」
「ええと、何がですか?」
「この世界に対して俺達……遊戯の主催側がやらかしたことだよ。何の咎もねぇ人間達を駒として扱ってゲームをしていたってだけでどれだけの非道だ。ましてや人間でもある俺達はある意味で人間を裏切りながらその中で生活していた。真実を隠しながらな」
それは償わなければならない罪だと彼は言う。るうかにしてみれば輝名はもうこの世界、そして向こうの世界のために充分な働きをしてきたように思われる。何もそこまで背負い込まなくても、と言いたいところをぐっとこらえてるうかは輝名に微笑みを向けた。それは輝名が決めることだ。そして彼は償いのために自分を犠牲にする性格でもない。自分の幸せを追い求めることと世界に対する償いを両立させるというとてつもないことをやってのけるだけの実力と気概を持ち合わせた人物、それが有磯輝名なのだ。
「侑衣先輩のこと、応援しています」
「……ああ、ありがとう」
ふ、と優しく輝名は微笑む。そしてふと右手を伸ばすとるうかの頭の上にそっと乗せた。
「お前も、頼成の奴とうまくやれよ。あいつは救いようのねぇ馬鹿な部分もあるが、根は真面目な男だ。そういう意味ではお前とお似合いだろうな」
「どういう意味ですか」
「お前、自分が馬鹿じゃねぇとでも思っているのか?」
意地の悪い言葉を口にしながらも輝名の声と手はあくまで優しい。
「世界が分かれて、繋がりが絶たれて、普通はそれで諦めるだろうと誰もが思っていたんだぜ。まさかそれを繋ぎ直してもう一度向こうの世界と行き来できるようにしちまうなんてな。それだから俺達も主催側の人間として内部から世界の行く末をある程度見届けるようにと新しい役割を与えられちまった。肩書も何もない人間として、ただこの世界で生きろ……ってなぁ」
「……え?」
「お前らが世界の仕組みを戻したから、“二世”の役を解かれた俺達にお守り役のお鉢が回ってきたって言っているんだよ。理解できねぇのか? おい舞場るうか、お前は自分のしでかしたことの意味を本当に理解していないのか?」
責め立てるように告げられる、その言葉にやはり棘はない。ただ優しいばかりの声音で、るうかの頭をよしよしと撫でながら、嬉しそうに輝名は言うのだ。よくやった。そう言って輝名はるうかの頭から手を離す。
「あいつも直接礼を言いたいとか言っていたな」
「あいつ……?」
「お前、今日どうして俺がここに来たと思ってる? わざわざ学校に半休の届けまで出して来てやったんだ。言っておくが、侑衣に会うためじゃねぇ。それなら忙しい朝の時間に来たりしねぇよ。もうこれから先時間はたっぷりあるんだ。焦らなくても直に俺の方を向かせてやる」
輝名の言い分には色々と言い返したいこともあるるうかだったが、それよりも気にかかるのは彼の言うここへ来た理由だ。答えはすでにるうかの脳裏に閃いている。しかし逸る鼓動がそれを真実だと認めたがらない。震えるほどの興奮と緊張がるうかの身体の芯から指先にまで行き渡る。
「輝名さん、それってまさか……」
「有磯さん?」
怪訝そうに掛けられた声がるうかの言葉を遮った。るうかと輝名は同時に声のした方へと目を向け、そこに立つ長い黒髪の少女を認めた。るうかが何か言うより早く輝名が先程までよりもいくらか明るい声で右手を挙げる。
「よう、侑衣。会いに来てやったぜ」
「平日の朝からどうしてここにいるんですか。学校は?」
「冗談の通じねぇ奴だな。まぁいい。今日の放課後、時間はあるか? あるなら少し俺に付き合え」
「……」
侑衣は何やら慣れた様子で溜め息をつき、「分かりました」と答える。どうやら彼女も満更ではないようだが、輝名の強引さや傲慢な口ぶりに少々困ってもいるらしい。とはいえ彼女は勿論知っているのだろう。輝名の言葉や態度の裏に隠された深い洞察と愛情、そしてひたむきさに。だからこそ侑衣も放課後のデートの申し出を承諾した。
目的を達したらしい輝名は「じゃあな」と軽い挨拶を残して歩き去る。紺色のブレザーの左袖をなびかせて遠ざかるその背中を見るともなしに見送りながら、るうかは再び速くなる鼓動を感じていた。侑衣がるうかに言う。
「もうじき予鈴が鳴る。早く教室に行った方がいい」
「あ、そうですね。じゃあ侑衣先輩、また」
「ああ、また。るうか、そのうちまたカラオケにでも行こう」
君の歌声を聴いてみたい。侑衣はそんなことを言い残して生徒玄関へと向かっていった。るうかはその辺りに倒れていた自転車を起こして駐輪場に置くというひと手間をかけてから、同じように玄関へと向かった。まだ新しい自転車のフレームに少しの傷がついてしまったが、そのようなことはどうでもいいと思えた。ただ今後はもう少し周囲に気を配って運転しようとだけ心に留めておいた。
るうかが自分の教室に向かうと、不自然なざわめきが行く手から聞こえてくる。どうやら騒々しさの元はるうかの教室にあるらしい。普段教室にいる以上の人数がそこに集っているようで、人垣が廊下にまではみ出している。ああ、とるうかは何となく事態を察しながら、その圧倒的に女子生徒の比率が高い人垣の間に割って入った。
「すみません、通してください!」
大きな声を出して人をかき分け、やっとの思いで自分の教室に入ったるうかが見たものは、教室の真ん中に立って向き合う一組の男女の姿だった。どちらもこの学校の制服を身に着けている。女子生徒の方はセミロングの黒髪で、厳しい瞳で相手を見つめている。そして男子生徒は銀糸のような煌めく髪を長く伸ばしてうなじの辺りでひとつに結わえ、緑がかった淡い青色の瞳を少しだけ細めて女子生徒の視線を受け止めていた。ただしその髪はるうかの記憶にあるものよりかなり短い。
声をかけることがためらわれ、るうかはただその光景を見つめる。清隆の姓を持つ、血の繋がりのない兄と妹が3年の時を経てやっと顔を合わせたその奇蹟のような光景を。
「……静稀」
兄である銀髪の男子生徒、湖澄が口を開くと辺りを取り囲む生徒達がまたざわめく。何やら既視感がないでもないが、少なくとも湖澄は輝名と比べればまた良識がある、はずだ。しかし彼がどうしてこの学校の制服を着てここにいるのか、その辺りの疑問は残る。そして何よりこうして妹の前に姿を現した彼が何を言おうとしているのか。るうかはじっと彼ら兄妹の会話を見守る態勢に入る。その矢先だった。
「少し、リボンが曲がっている」
湖澄はそう呟いたかと思うと静稀の方へと2、3歩歩み寄り、左手を伸ばして彼女の胸元にある学校指定のリボンの傾きを直した。よし、と言いながら微笑む湖澄に対して静稀は思い切り顔をしかめて、それから。
「兄貴……他に言うことは?」
「ん……? いや、服装に関しては特に問題ない。スカートも指定の長さだろう」
「そういうことじゃない」
「頭髪も乱れてはいないし、化粧もほとんどしていないだろう。問題はないと思うが」
雲行きが怪しくなってきた。るうかは頭を抱えるべきか、思い切ってツッコミを入れるべきか迷ったものの結局黙って成り行きを見届けることにする。他人が口を出すよりも妹から直接言ってもらった方が湖澄には効くことだろう。輝名はわざと常識破りのことをやってのけるが、湖澄は素でこういったとぼけ方をするのだ。向こうの世界では兄弟であった2人だが、似ていないようでよく似ている。どちらにしても人間の間で暮らすにはどこかずれている。しかし、それでもいい。
「兄貴、なんでここにいるの? 3年もどっかに行っていたのにいきなり現れて、しかもうちの制服を着て、挨拶もなしになんで生徒指導の先生みたいなことを言っているの!」
一息にまくし立てた静稀に対して首を傾げた湖澄が妹にどつかれるまで約3秒。湖澄の呻き声と共に人垣から上がった謎の黄色い歓声がるうかの耳を激しく叩いた。
湖澄はそれでも涼しい顔をしている。やはりこの兄弟はどこかおかしい、とるうかは認識を新たにしたのだった。
執筆日2014/08/14




