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まだ夜も明けきらない時刻、凍てつく空気に無造作にジャケットを着ただけの青年が家と家の間を縫うようにさまよい歩いている。どこに行けばよいものか迷っているような足取りで、背負ったバックパックを時折重そうに担ぎ直しながら。そしてたまに交差点で立ち止まり、そっと周囲の様子を窺う。
青年はそこに誰もいないことを確かめる度に少しだけ安堵したような表情を見せる。そこから少しだけ考える間をおいて、彼はいささか明るい方向へと歩き始めた。
「槍昔、頼成……だな?」
まだ車通りもほとんどない川沿いの道で後ろから声を掛けられた青年は「あ?」と面倒くさそうに振り返った。その強面が一瞬だけ歪み、すぐに色を失う。
「悪いな。あいつは俺のものなんだ」
ちっとも悪いとは思っていない口調で告げ、黒髪の青年は自分と同じ顔をした青年の身体を横手の川へと突き落とした。大柄な身体は少しの間川の流れに揺られ、間もなく濁った水の底へと沈んで見えなくなった。黒髪の青年はそれだけを見届けると、特に何の感慨もない様子ですたすたとその場から立ち去った。
目覚まし時計が起床時刻を知らせる。るうかは温かい布団の中からもぞもぞと手を伸ばして、鳴り響く電子音を止めた。赤い目覚まし時計は律儀に時を刻み、今日もまた掛け替えのない一日が始まる。
「おはよう、お母さん」
るうかは着替えを済ませてダイニングへと向かう。おはよう、と返した順はどこか上の空のようで、その声にいつもの張りはない。るうかは何故だかどきりとして母親に問い掛けた。
「どうかしたの?」
「ん? うん、ちょっとね。夢見があんまりよくなかっただけ」
顔に出てる? と順は尋ねる。出てるよ、とるうかが頷くと彼女は嫌だ嫌だと自分の顔をもみ始めた。しかもかなりの強さでもみ始めた。
「お母さん、顔変になるよ」
「表情筋をほぐしているのよ」
「もう充分ほぐれたと思うよ」
「ふう」
何やら満足そうに順が溜め息をついたので、るうかは彼女を手伝って朝食の用意をした。父親の聡はもう家を出発した後である。今日は夜勤だという順に後片付けを任せて、るうかは鞄を手に家を出た。昨日の雪はもう残っていない。玄関脇に停めておいた赤い自転車に跨ると、冷たい朝の空気を切って颯爽と漕ぎ出す。
だからるうかは、リビングのテレビが臨時ニュースを放送していたことに気付かなかった。日河岸市を流れる日河岸川の河口付近で黒髪の青年の溺死体が発見された。そんな内容のニュースだった。
遺体の身元はまだ分かっていないとのことだった。
るうかは春国大学のメインストリートを自転車で駆け抜けていく。自動車のあまり通らないこの道は通学路としては比較的安全で、何より景色がいい。大学の敷地だというのに緑豊かな公園や鴨のいる池もあるこの場所は近所の住民の散歩コースになるような場所だ。朝のひんやりとした風を切って自転車を走らせれば、鼻の奥に湿った土の香りが届く。
もう迷い込むような道はない。緑がいつの間にか作っていたらしいあの研究所の建物は一体どこにあったのだろうか。彼は工学院の所属だったというから、工学部の辺りだったのだろうか。
昨日の出来事だというのに、まるで遠い昔に見た不思議な夢を思い出しているような感覚だった。緑の存在も、彼がいた日々も、彼の笑顔や手料理の味も何もかもが遠い。そもそもるうかが頼成や佐羽と再び出会うきっかけを作ったのは彼であるともいえる。彼が緑色の魔術師として“天敵”となったるうかを封印したからこそ、るうかは向こうの世界で勇者として再びの生を歩むことができた。だからこそ、頼成や佐羽と共に戦うことができた。今はもうそれも過去の話だが、るうかにとってあの世界もそこで過ごした時間も紛れもない現実だ。その事実だけは決して変わらないのだった。
夢を忘れたように代わり映えのしない朝の時間が進んでいく。大学の敷地を出て高校近くの道を走っていると、他にもちらほらとるうかと同じ制服を着た学生の姿が増え始める。いつもと同じ、それでいてその平穏ぶりを愛しく思うこの朝だ。るうかは少しだけ口元に笑みを浮かべて彼らの間を縫うように走り抜けた。
正門から勢いよく高校の敷地へ。あまり褒められたことではないが、今日のるうかは少しばかり浮かれていた。するとちょうどそこへ歩いてきた1人の男子学生とぶつかりそうになる。あ、と思った時にはもうるうかは自ら自転車のハンドルを大きく切って男子学生を避け、さらに身体を地面の上に投げ出す羽目になっていた。
「……何やってるんだ。大丈夫か?」
呆れたような声が、それでも多少は心配そうにるうかへと近付いてくる。るうかはというと、近付いてくる彼の顔をまじまじと見て口をあんぐりと開けていた。間抜け面だな、とその男子学生が言う。
初冬の穏やかな陽射しにきらきらと輝く短い髪はまるで凍てついた雪原のよう。色白の顔に一際目立つ紫がかった淡い青の瞳は鋭く、しかし澄み切ってるうかを見つめている。この学校のものではない紺色のブレザーを着込んだ彼の左袖は、中に何もない様子で風に吹かれて揺れていた。何も言えずにいるるうかに対して彼はふっと柔らかく微笑んでみせる。
「おい、いつまで俺に見とれているつもりだ? 頼成にそのアホ面を送りつけてやろうか」
「や、やめてください」
「ならしゃんとしろ」
はい、と何故かるうかは改まって頷きながら身体を起こす。立ち上がろうとして足がもつれたのは緊張と驚きのせいだ。
「……輝名さん……」
誰の手を借りることもなく起き上がったるうかは改めて彼に向き直り、その名前を呼んだ。すると銀色の髪を煌めかせた彼は嬉しそうに「ああ」と返事をする。
「驚かせたみてぇだな。だがお前、その運転はいくらなんでも荒すぎる。事故を起こす前に改めることだな」
「あ……はい、ごめんなさい。怪我はありませんか?」
「俺は平気だ。自分はどうなんだ」
呆れながらも心配を口にする輝名に、るうかは大丈夫ですと答えて苦笑する。これまでにすでに何度か自転車事故を起こしているとは言えなかった。これで案外と彼は親切で、心配性なのだ。
「輝名さん……いなくなったわけじゃ、なかったんですね」
感慨を込めて言ったるうかに、輝名は一度ぐるりと辺りを見回してから少しだけ肩をすくめて頷く。
「まあな。“二世”の役はもうない。この世界に残る必然性はなかった」
「……」
「俺達にはルーツがねぇからな。いくら人間と身体的には変わりなくても、役目のために生み出された存在であるっていう点では“一世”に近いものだ。それでも……未練はあった」
「未練、ですか」
「女々しい言い方だが、そう呼ぶのが一番近い」
くっ、と喉を鳴らして輝名は笑う。どこか恥ずかしそうなその様子にるうかは彼の言う「未練」が何であるのかを悟った。
「侑衣先輩、ですか」
「……ルーツがねぇなら、作ればいいと思わねぇか?」
ルーツというのは家族のことだろう。るうかに順と聡という両親がいるように、人間は親となる人間から生まれてくる。輝名にはそれがない。彼のルーツを作ることはできない。しかし、これから彼がルーツとなることは決して不可能ではない。
ただしそれには相手の同意、というよりもむしろ相手との絆を深める過程が不可欠だ。
「先輩はまだ来ていないんですか」
「ああ、ここで待たせてもらうぜ。教室は覚えたから、もう案内は不要だ」
「もう教室突撃はやめてください」
以前輝名は侑衣に会うためにここへ来たことがある。そして彼女の教室に赴き、色々ととんでもないことをしでかした。最早ちょっとした伝説である。
かつては向こうの世界で大神官代行を務める輝名の“左腕”として常に傍にいた侑衣だが、彼女の勇者としての生命が尽きた後はもうその関係は消えてしまった。侑衣は向こうの世界での記憶の一切をなくしたのだ。それが夢と現実を行き来しながら生きるときの決まりごとのようなもので、輝名もその事実を受け容れていた。そしてその上で、改めて侑衣に会いに来たのだ。その情熱は計り知れない。
「うまくいくといいですね」
るうかが言うと、輝名は「いかねぇわけがねぇだろ」と自信たっぷりに笑った。曇りのないその表情を見てるうかは呆れながらも大きく頷きを返した。
執筆日2014/08/14




