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 逃げてください、とるうかは言った。佐羽が逃げられるだけの体力を回復するまでは“天敵”にならないと決めていた。それは気力でどうにかなるようなものではないのかもしれないが、るうかにはもうそれを祈ることしかできなかったのだ。指先から始まった細胞の異形化は最早胸元から首にかけて広がっている。喉と口がその機能を失う前にと、るうかは言いたいことを呟いていく。

倖多(こうた)が育つために必要だった何かを私が奪ってしまったのかもしれない、って。そんな風に思っていました。私に責任があるわけじゃないとは思います。でもお母さんが時々泣いていて、それでも倖多の死をきっかけに助産師になるために勉強して、資格を取って。きっとお母さんもすごく苦しんだんだと思います。ちゃんと産んであげられなくてごめんね、って倖多のお墓に向かって言っているのを聞いたことがあるんです。だったら私は、生きている私は」

 佐羽がゆっくりと目を開けた。るうかは笑って、行ってくださいと彼に告げる。青い光は未だに2人を包み込んでいるが、その拘束は随分と緩くなっていた。今なら佐羽はもう自分の足で立って歩くことができるだろう。そして墓標のような鈍色の石に似せて造られた扉を開けて、地下にある小さな大魔王の塔から向こうの世界へと帰ることができるだろう。残ったるうかはこのまま身体の全ての細胞が異形化し、“天敵”となるに違いない。それでもここは近くに町も村もない草原だ。“天敵”となったるうかは食料となる人間を見付けることができずに飢えて死ぬのだろう。佐羽はその頃合いを見計らってまたこちらの世界に来ればいい。そしていつか、頼成と再会すればいいのだ。

「伝えてください、頼成さんに。もう“るうか”の残した思いを継ぐ必要はないって。私の思い違いかもしれませんけど、それが頼成さんを縛っているのだとしたら……もうちょっと、楽に生きてほしいなって思うんです」

 佐羽は何も言わず、ただじっとるうかの目を見つめている。鳶色の瞳からは止めどなく涙が流れ落ちる。

「落石さんも……あんまり自分を責めないでください。もういいじゃないですか。充分酷い目に遭ったんじゃないですか? 帳尻合わせなんて、そんなことのために自分を犠牲にするのは面白くないですよ」

 そこまで言って、るうかはふうと溜め息をつく。肺にうまく空気が入っていかないことが分かる。まさかもう一度“天敵”になる日が来るとは思っていなかったが、考えてみれば3年前に“天敵”になったそのときからこういう運命だと定められていたのかもしれない。ここまでるうかを育ててくれだ両親には申し訳ないが、倖多の死を乗り越えた彼らならどうにかまた進んでいけると信じるしかない。それにしても親不孝なことだ、とるうか自身もほとほと呆れ返る思いだ。せっかく永らえた生命を、倖多の代わりに生まれてきたような生命を、他人のために費やして死のうというのだから。

 しかしるうかはずっと、その道を選んで進んできた。

「倖多。私は……倖多みたいになりたかった。私を助けてくれた倖多みたいに、誰かを助けられる自分でいたかった……そうじゃないと生きていられないような気がしていたんだ」

「……そうか」

 不意に背中の方から耳に届く低音。るうかは自由に動かすことのできなくなった首をもどかしく思いながらも背後を振り向こうとする。しかしそれより早く温かい腕が後ろからるうかを抱き上げ、抱きすくめた。

「……それこそ、もう充分じゃねぇか。あんたは何度も、何人も、こんな華奢な身体で助けてきた。元々あんたは何も悪いことなんざしちゃいねぇし、もうあんたの弟にも充分報いただろ。あんたがそう思えなくても、俺がそう決めてやる。だからもういい。誰が……ここまできてこんな風にあんたを死なせるか」

 ぎゅう、と力を込めてるうかの身体をきつく抱く腕からは赤い血が滴っていた。それは空気に触れて青緑色に変わり、るうかの変化した皮膚に染み入っていく。彼女のために自ら傷付けたのだろう。たくましい腕にいくつも刻まれた切り傷は深く、溢れる血は簡単には止まりそうにない。細胞の異形化を食い止める力を持つ、聖者の血だ。

「……遅いよ。でも、間に合ったね……頼成」

 るうかの前で横たわっている佐羽には彼女の後ろにいる彼の姿が見えている。佐羽は文句を言いながらも曇りのない、綺麗な笑顔を浮かべた。よかった、とその唇が佐羽の心からの言葉を紡ぐ。

「俺達の3年間は無駄じゃなかった」

「……本当はもっと早く来るつもりだった。今朝からずっと、あの“サワネ”を追っていたんだよ」

 るうかを捕らえていた腕の力が少しだけ緩む。るうかの首も胸元も、腕から手の指先にかけてもほとんどの部分が元の皮膚の色を取り戻していた。細胞が変化していく過程で千切れた服の欠片が傷に引っ掛かるが、るうかは自らそれをぷちぷちと引き剥がしていく。そこに新しく溢れる赤い血に向かって、青緑色の癒しの光が注ぎ込まれた。

「あんたな、そう無茶なやり方をしてくれるんじゃない。潔いのは百も承知だからもっとこう、自分の身体を大事にしてちょうだいよ。あんた1人の身体じゃねぇんだぞ」

「……頼成さん!」

「ぶ、わっ!?」

 るうかは彼の言葉をほとんど聞き流し、やっと自由になった身体で振り向くとその顔をろくに見もしないままに大きく両腕を広げてその首元辺りに抱きついた。彼の温かな体温と、その皮膚の上でまだ熱を保ったままの血の温もりを感じながらるうかはこらえきれずに嗚咽を漏らす。

「会いたかったです。本当に、どうして……どうして私、あのときあなたの手を掴めなかったのか……」

「あんたのせいじゃねぇよ。俺の方こそ、どうして初めからあんただけを守ろうとしなかったのか……あんたにこんなになるまで思い詰めさせるんだったら、他の連中が何人死のうと構わないからあんただけ守っていたかった」

「でも、できなかったんですよね」

「あんたのせい、と言っておくか?」

「じゃあ、もういいです。“るうか”も私も、もう充分です」

「そうか……でも俺はまだまだ足りないんですがね」

 彼の腕がるうかをもう一度きつく抱き締め、それから今度は強い力で彼女の肩を掴んで自分の方を向かせる。るうかは真正面からその灰色の目つきの悪い瞳を見た。数ヵ月前までは毎日見ていた、こちらの世界での旅装束をまとった彼を見た。短い黒髪に青緑の血をこびりつかせた彼は、どうやらここへ来るまでにあの“サワネ”とやり合ったようだ。考えてみれば当然のことである。彼らはこちらの世界で行動を共にしていたのだから、世界が変わらなければ今朝もきっと同じ宿屋かどこかにいたのだろう。それが神の判断で2つの世界が切り離され、るうか達が緑の残した魔法を使ってそれを再び繋ぎ、結果としてこの世界にはあの“サワネ”が残された。佐羽が選ばなかった世界に残った黄の魔王の影のようなものだ。そして彼は阿也乃の命によって、佐羽を殺すためにこの場所までやってきた。

「頼成さん……あの“サワネ”さんを追いかけてここまで来たんですね」

 るうかが確かめるように問い掛けると、彼女の視線の先にいる強面の彼……頼成は苦々しく頷く。

「ああ。明らかに佐羽じゃねぇって分かったしな。ありゃあ何だ、ゆきさんの亡霊か? ゆきさんにそっくりな笑い方をしていた」

「悪かったね、俺だってああいう笑い方をするときもあったんだよ」

 ふてくされた佐羽の声がるうかの背後から聞こえる。それにしても、と佐羽は言葉を続ける。

「らいせーい、そこからの眺めはどう? いいもの見られてる?」

「あ?」

 佐羽の言葉にるうかは首を傾げる。長い横髪が剥き出しの肩に触れてくすぐったい。そして頼成はそんなるうかの首元から胸にかけてを、何やらじっくりと眺めている。

「まぁ、確かにいい眺めだな」

「……へえー」

「だが、このまま見ていたら確実に俺はるうかからアッパーくらうな」

「だろうね。さあるうかちゃん、君の可愛い胸をじっくり見つめているエロ彼氏に最高の一撃をお見舞いしてあげて」

 楽しそうな佐羽の声を聞いてやっとるうかも気が付いた。細胞の異形化に伴う皮膚の変化によってぼろぼろになった服を剥ぎ取ったせいで首から胸の上にかけての肌が丸見えになっていたのだ。頼成はるうかの胸から目を逸らそうとしない。急に恥ずかしくなったるうかは何とか胸元を隠そうとするが、彼女を抱いた頼成の力がそれを許さない。

「あの! そろそろ離してください!」

「嫌です。あのなぁ、いいじゃねぇか少しくらい。これまでもかなり我慢してきたのよ? これまで散々機会はあったっていうのに、それでもあんたに手を出さなかった俺を褒めてくれ」

「そういう問題じゃないです! 落石さんも見ているじゃないですか!」

「そうだな。で、今あんたが振り返るとあいつにあんたの綺麗なとこを見られる羽目になる。絶対に嫌だね」

「そういう問題でもないですよ!」

「いいだろ、あんたは俺のもんだ」

 ぎゅ、と頼成は上半身裸に近いるうかを大切そうにその胸にかき抱く。るうかの鼻先にはまだ血の色の残る彼の首筋が。そこから漂う彼の香りに、るうかは小さく溜め息をついて目を閉じたのだった。

執筆日2014/08/07

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