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るうかの手から治癒魔法が発現する。もう二度とないだろうと思っていた、いやそうとすら考えていなかったことが今るうかの目の前で起きている。それはかつて彼女自身に悲劇をもたらした力だ。しかし今はこうして佐羽の傷を癒すことができている。傷そのものは深いが単純な切り傷であるため、それを治す程度の治癒術で細胞の異形化は起こるまい。微笑み、治療をするるうかの目を見つめながら佐羽はどこか泣きそうな様子で瞳を潤ませていた。
「……ふふっ」
そのとき、2人からやや距離を置いた土の上で血みどろの布の塊……己の血にまみれたローブをまとったサワネがもぞりと身体を起こした。治療を終えたるうかと傷の癒えた佐羽は同時に彼を見て、そしてやはり同時にびくりと身体を震わせる。
サワネの綺麗な顔の半分が、おそらくは爆風によると思われる熱のためにひどい火傷を負い、溶けかけていた。最早衣服としての意味をなしていないローブは元の色を失い、血と泥にまみれて黒々と染め上げられている。彼の左腕はその足元に転がっている。ぐちゃぐちゃになった断面を晒す肘の先から勢いを失った黒とオレンジの血がぼたりぼたりと落ちる。血が失われているに従って失せていくサワネの肌の色。生きている人間とは思えないほどの灰色に近い白さがるうか達の背に怖気を走らせる。
「……しぶといね、さすが俺」
呆れたような口ぶりをしてみせる佐羽だが、その声は微かに震えていた。やはりいくら敵として相対しているとはいえ自分と同じ姿をした青年がこれほどまでに凄惨な格好になっている様子を見ることには生理的な抵抗があるのだろう。そしてそんな佐羽の声を聞いてサワネは半分だけになった唇の端をにい、と吊り上げる。
「そうだね、しぶといよ……刺されても、撃たれても、蹴られても、ビルから飛び降りても、死ねなかった俺だもの。このくらいで……くたばるわけない、でしょう?」
「わあ……今更言うのもあれだけど、俺ってすごい、モンスターだね」
佐羽は幾分落ち着きを取り戻したらしく、そう答えて溜め息をつく。深い深い溜め息には様々な思いが込められているようだが、るうかにはきっとその半分、いや三割も理解できてはいないのだろう。佐羽がこれまで生きてきた時間の全てが込められたような、そんな溜め息だった。
「でも、今度ばかりはちゃんと止めを刺してあげる。安心して、サワネ」
佐羽が腕を伸ばし、呪文を唱えようとしたその瞬間だった。サワネが突如としてけたたましい笑い声を立てる。さながら警報のように響いたそれはるうかの耳に呪文となって届いた。佐羽にも聞こえたのだろう、彼はサッと顔色を変えるとぎゅっと目を閉じながらるうかのその身体で覆うように抱き込んだ。
るうかの視界から色が消え、ただ風の唸るようなごうごうという音と佐羽の荒い息遣いだけが耳に届く。一瞬なのか、数分なのか。それすらも分からなくなるような時を経て、やがてるうかを抱く佐羽の手から力が抜け落ちた。ずるり、とるうかにもたれかかるようにして彼の身体が地面に崩れ落ちる。
るうかの晴れた視界の中にはもう1人の青年が笑ったまま倒れていた。その身体は先程目にしたときよりもさらに酷く損なわれており、大きく裂けた胸の辺りから弛緩した内臓が零れている。くらくらするような血と臓腑の臭いを放ち、彼は笑顔で事切れていた。佐羽が止めを刺すより早く、彼はその身を全て魔法へと変えることで最後にして最大の破壊魔法としたのだ。土色の皮膚の表面が脆い砂のようにさらさらと崩れていく。細胞のひとつひとつ、そこに刻まれた遺伝情報のひとつひとつに己への憎悪を込めて、彼は死んだ。その事実はるうかを打ちのめしたが、足元から聞こえた呻き声が彼女を現実へと引き戻す。
「落石さん……!」
「……」
るうかは佐羽の横に屈み込み、その顔を覗き込んだ。傷は深い。辺りの草も土も全て彼の血によってどす黒く塗られ、彼自身は白い顔を晒してひゅう、と細い息を繰り返すばかりだ。閉じられた瞳の端から透明な涙が零れている。その唇が、空気を求めるように何度か動いた。
「……落石さん」
るうかが呼んでも佐羽は答えない。声が届いているのかどうかすら怪しい。他に生きる者のいなくなっただだっ広い草原で、るうかは今にも死んでしまいそうな佐羽を見つめた。迷っている時間はない。
しかし、展望もない。今はもう、緑色の魔術師もいない。どんな悲劇が起きても、誰も助けてはくれないのだ。それが神の去った世界の真実なのだとるうかはここに至って初めて理解した。奇蹟はない。
るうかには2つの選択肢がある。ひとつは佐羽の生命を諦め、頼成を捜すことも諦めて元の世界に戻ること。佐羽を見捨てた時点でもう頼成には会えない。それだけは強く感じる。
そしてもうひとつは、無理を承知で佐羽に治癒術を施すことだ。彼の生命を助けられる可能性はゼロではないだろう。しかしその術は同時に彼を“天敵”へと変えてしまいかねない。明らかに致命的な傷を癒そうというのだ。細胞にかかる負荷は相当のものであり、るうかにはそれを軽くするための能力はない。ただ彼の細胞が増殖し、傷を塞いで器官を再生することを促進するだけだ。その過程で細胞にどんな変異が起きたとしてもるうかには止められない。
悲劇が繰り返される予感に、るうかは震える。しかし彼女は2つの選択肢を前にほとんど迷ったりはしなかった。可能性があるなら、ゼロでないのなら、そちらを選ぶのが彼女……舞場るうかという人間なのだ。
「助けます、落石さん」
絶対に、とは言えなかった。るうかはありったけの思いを込めて呪文を紡いでいく。
“落石さんの傷を、傷付いている内臓を、切れてしまった血管や神経やその他の大事な器官を、元のように治します。痛いですよね。死んでしまいそうな痛みも軽くします。脳が死んでしまうと大変なんですよね。じゃあ、脳にちゃんと酸素と栄養がいくようにまずはそのための血管を治します。肺とか心臓とか、生命を取り戻すのに大切な内臓をどんどん治していきます。ああ、こんなことならもっとちゃんと生物の勉強をしておくんだった。人間の身体がどうなっているのか、私にはまだよく分からないんです。細胞の仕組みとか、まだ細かいところは習っていないんです。頼成さんなら分かるんですよね。そのために頼成さんは薬学部に行ったんですもんね。私の力じゃ足りないかもしれない。でも、落石さんの細胞がおかしくなるくらいなら、それは私に”
るうかの身体を青い光の帯が包み込む。彼女の必死の祈りが込められたそれはゆるゆると解けながら佐羽の身体へと移っていく。2人を繋ぎ合わせるように流れ回り明滅する青色の光は消えることなくその場に留まり続ける。るうかの呪文もどこまでも続いていく。
「私が“天敵”になったら……今度は逃げてくださいね、落石さん。そして頼成さんに会ってください」
「……る、か、ちゃん……」
意識の戻ったらしい佐羽がるうかの名を呼び、青い光に包まれた腕を彼女の方へと伸ばす。るうかはその手を取ることなく微笑んだ。彼女は気付いていた。自分の唱えた呪文がしっかりとその通りの効果を発現していることに。
るうかの指先が変形している。佐羽に治癒術を使ったことによって彼の体細胞に生じた変異は、るうかが願った通りに彼女へと移行された。るうか自身、よくそれほどの緻密な魔法を使うことができたものだと感心する。3年もの間忘れていた治癒魔法を使えたというだけでも驚きに値するというのに、まさか細胞異形化の移行までできるとは。どうやらるうかの持っている魔法の力というものもなかなかのものだったらしい。
「今度こそ、無駄じゃないですね。落石さんを助けられるんですもんね」
3年前は無駄だった。呪いによって石化しかけていた湖澄を助けるためのものとして、治癒術では何の意味もなかった。それを知らなかったるうかは必死に無理を通そうとしたが、それはやはり無理だったのだ。結果としてるうかはただ自らの姿を“天敵”と変えるだけの悲劇を引き起こした。その愚かな過ちも、こうして清算されるのなら道理なのかもしれない。3年前から始まった因縁に終わりを告げるのがこの魔法であるというのなら。
「私は、ずっと誰かを助けたかった。私が生まれてきた意味が何かないかと探していたんです。そうじゃないと、倖多に申し訳なくって」
佐羽の傷が癒えていく。それに比例するように、るうかの指先から手首、腕にかけての皮膚がぼこりぼこりと脈打ち始める。変化は速い。
「落石さんに話したこと、ありましたっけ? 私には双子の弟がいたんです。でも、生まれる前から死んじゃうことが決まっている弟でした。お母さんの身体の中で、私と倖多がいて、倖多はうまく育たなかったんです。私だけがちゃんと育って、生まれて」
佐羽は何も言わずにるうかの言葉を聞いている。その目は未だ閉じられたままだが、溢れる涙の量が彼がるうかの声を聞き取っていることを示している。るうかはそれを確かめると、ゆっくりと身体を地面に横たえた。
執筆日2014/08/07




