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「舞場!」
教室に入ったるうかを真っ先に出迎えたのは桂木祝だった。彼は野球部の朝練で早くから登校しており、練習後に起きた正門前の騒ぎを教室の中から眺めていたらしい。彼もまた、その目で死体を見てるうかと同じ推測を立てていた。
「桂木くん、今いい?」
「ああ、どうせこれじゃ授業にもならねぇだろ」
2人はそっと示し合せると教室を抜け出し、校舎の端にあるあまり使われていない階段の踊り場に腰を落ち着けた。低い窓からはちょうど正門の様子を見ることができる。祝は溜め息をつきながら苛立った様子で口を開いた。
「舞場は、とりあえず無事なんだな。まさか出くわしたりしてねぇよな」
「うん。でも……あれは多分、ううん、間違いなく“天敵”の仕業だと思う」
「そんなわけあるか」
るうかの言葉をすぐさま切って捨てた祝だったが、はぁと小さく息を吐いて付け加える。
「……って、言いたいところなんだけどな」
その気持ちはるうかにも痛い程分かった。特に祝にしてみれば目の前の事実を否定したくもなるだろう。“天敵”はこちらの世界にはいないはずのものであり、向こうの世界の人間にとって最大の脅威だった。その存在に対してどう対処するかということが世界の秩序や文化の根本となっていたと言っても過言ではない。かつては祝もその渦の中にいたのだ。彼は虹色の女王と呼ばれる者が治める地域に生まれ、そこの習わしに従って“天敵”を生み出す可能性を持つ者……つまり治癒術師や賢者を狩ることを生業としていた。彼は元々向こうの世界で生まれ、こちらの世界を夢に見るようになった人間であり、結局生まれた世界を捨ててこちらの世界でのみ生きることに決めたのだった。その主な理由は、“天敵”に脅かされる世界とそこで己が行ってきた残虐な所業に疲れ果て、逃れたいと思ったことだ。「もうたくさんだ」と彼は言って、そうしてこちらの世界を選んだのだ。
だというのにどうしてこちらの世界に“天敵”が現れたのか。いや、勿論まだそうと決まったわけではない。何か大きな野生動物、例えば熊などが人里に現れて女子生徒を噛み殺したのかもしれない。いっそそうであってほしいとさえ思う。しかしるうかも祝も、それが儚い願望であることを感覚で理解していた。
「畜生、どういうことだよ」
祝が呟き、るうかは神妙な顔をしながら鞄の中の赤い携帯電話を取り出す。気付いた祝が顔をしかめた。
「槍昔さんに連絡するの」
祝の知る限りでは、頼成はるうか達を裏切ったことになっているはずだ。それはそれで間違いではなく、しかし今となってはどうでもいいことでもある。るうかは細かい事情を話すことはせずにただ頷いて祝に答える。伝えなくてはならないことは別にあった。
「うん、あと落石さん。……あのね、桂木くんには話してなかったけど……私、もう夢を見ていないんだ」
るうかの告白に祝は目を丸くする。るうかは頼成と佐羽に事態を伝えるメールを打ちながらとつとつと語る。
「私は、向こうの世界で……“天敵”、になって死んじゃったから」
「……秋頃休んでたのはそのせい?」
「そう……。だからもう勇者じゃないし、向こうのことも……ほとんど分からない」
「……」
祝は痛みをこらえるような目でるうかを見たが、やがてハッと気付いた様子で問い掛ける。
「ちょっと待て、じゃあなんでお前向こうのことを覚えてるんだ? 俺みたいに選んだわけじゃないんだろ。理紗は向こうのことなんてほとんど忘れてるんだぞ。夢で死んだら、それを覚えていたら本当に死んじまうって聞いたことある。それなのにお前、なんで」
「それは色々と」
祝の疑問はもっともだったが、そこを説明すると長くなるのでるうかは言葉を濁した。打ち終えたメールを一斉送信し、一息つく。祝は不満そうにるうかを見やったが「それはまぁ別に今じゃなくてもいいか」と独り言を漏らして窓から正門の方角を見やった。黄色いテープで封鎖された正門の向こうの路地へと数人の警官らしき人影が身を滑らせるようにして入っていく。
「っ、あそこ!」
るうかは思わず窓へと駆け寄り、ガラスにへばりつくようにして路地の奥を見ようと目を凝らした。祝が後ろから慌てた様子で尋ねる。
「どうした、舞場」
「あそこ、あそこの路地から“天敵”の臭いがした。あの人達、危ない……!」
「何だって……」
祝はその淡い茶色の瞳でるうかと同じように路地の方角を睨む。光が彼の目を透かしてそれを緑に輝かせた。10秒が過ぎ、30秒が過ぎ、3分程が経過する。じっと様子を見守っていた2人の視線の先には静かな路地があるだけだ。るうかは恐怖に小さく震え、祝はそんな彼女の肩に軽く手を添える。
「よそう、見ていたって何もできない」
「でも、さっきの人達が出てこないのは……」
「路地を通り抜けて向こうに行った」
「そうとは限らないよ」
「可能性はある。舞場、悪い方に考えるな」
「でも!」
くるりと振り返ったるうかのすぐ目の前に祝の顔があった。彼は長身を屈めてるうかの肩を掴み、必死な表情で彼女を見つめている。そして彼は幼い子どもに言い聞かせるようにゆっくりと、噛んで含めるように告げる。
「いいか、舞場。お前、この世界じゃ勇者でも何でもない、高校生だろ。たとえ本当に犯人が“天敵”でも、戦うのは高校生の役目じゃないし、お前が出ていったって何にもならない。ただ無様に死ぬだけだ。3回目死んだら、終わりなんだろ?」
「……うっ、あ」
るうかは何かを言おうとして、結局言葉にできずに黙る。確かに祝の言う通りだった。この世界のるうかに“天敵”と戦う力はなく、万が一本当にそれと出会ってしまえばただ餌になって死ぬだけだ。そしてこちらの世界でのるうかの死は彼女の存在全ての死になる。現実の死になる。これまで幾度奇蹟のような生還を果たしてきたとしても、それはあくまで夢の世界での話なのだ。
それにるうかは何もしなかったわけではない。警官に犯人が“天敵”である可能性を伝えた。この街はゲームの盤面であり、多くの住民が同じ夢を共有している。るうかが知る限りでもこの学校に同じ夢を見ていた者が3人いる。ここにいる祝と、彼の幼馴染みでありるうかの友人でもある理紗、そしてるうかの先輩に当たる元勇者の月岡侑衣である。ひとつの高校の中で、しかもるうかのさほど広くない交友関係のなかでさえそれだけの人数がいるのだから、警官の中にも同じ夢を見ている者がいると考えた方が自然だ。あるいは警官でなくとも消防や病院の関係者、報道機関の誰かがそうかもしれない。るうかが伝えた可能性が彼らのうちの誰かに届けば、“天敵”への対処も可能になるかもしれない。
るうかは自分にできることをしたのだ。あとは経過を見守ることしかできやしない。路地に入っていった警官達は一向に戻ってくる気配がない。
るうかの手の中で携帯電話が震えた。るうかは祝の探るような視線を受けながら折り畳み式のそれを開いて送信者の名前を確認する。メールの主は佐羽だった。
『連絡ありがとう
るうかちゃん、無事だよね?
今、電話いい?』
佐羽にしては随分と短い文面に彼の焦りが見て取れた。るうかはすぐに自分から佐羽の番号へと電話をかける。
「もしもし、落石さん。舞場です。無事です」
『良かった……っていうか、早いね。今授業中じゃないの?』
苦笑する佐羽にそれどころではないと告げて、るうかは彼に彼が持っている情報について尋ねる。
「落石さんの身の周りは大丈夫ですか。何かおかしなことが起きたりはしていないですか」
『俺が直接見たりはしていないけど、どうもこの街全域で似たような事件が起きているみたいだよ。るうかちゃん、今朝のニュース見た? 早岩井区で殺人事件。しかも頭と胴体が噛み千切られたような猟奇殺人だって。ネットだと他に向陽区と常葉区でも似たような死体が見付かったっていう速報が流れている。今日になっていきなりこれって、異常だよ』
はぁ、と佐羽が電話の向こうで溜め息をつく。合わせて4件ですか、とるうかが呟くと佐羽は「もっとかも」と微かに笑みを含んだ声で言う。
『もし万が一本当にこれが“天敵”の仕業なら……“一世”が情報の統制を図ってもおかしくない。それより“天敵”がこっちの世界で発生しているとしたら、そこに“一世”が関与していないはずがない』
「……どっちの、“一世”ですか」
るうかは敢えて尋ねた。答えは明白である。こちらの世界にいるはずのない“天敵”を持ち込むことで得をするのは阿也乃と柚橘葉、果たしてどちらだろうか。そう考えればすぐに目星はつく。ましてや向こうの世界でアッシュナークという希望の象徴たる都が崩れた後だ。次に手を打つとすれば、それはこちらの世界に対してその価値を下げることを試みようとする側である。
『……確証はないけどね。連絡がつかないんだ、ゆきさんも、緑さんも』
佐羽の声には悔しさすら滲んでいた。電話でこれほどまでに感情を顕わにする彼も珍しい。それだけ彼自身が今日のこの状況に憤りを感じているということだろう。
『るうかちゃん、とにかく君は自分の身の安全を最優先して。頼成の奴、こんなときだっていうのに学校に行っているみたいで連絡がつかないんだ。もう、講義どころじゃないのに』
「いえ、講義は大事だと思いますけど……落石さん、大学は?」
『サボったに決まっているでしょ。一応顔は出したけど、佐保里もいないし、いる意味がなかったから帰ってきた』
「落石さん……」
るうかは呆れた声を出したが、佐羽は全く悪びれる様子もない。彼にとって大学はその程度のものらしい。
『いいからとにかく無事でいてね、るうかちゃん。こっちでも情報収集はするし、輝名と湖澄にも勿論連絡するから。あとそっちで何か動きがあったらすぐに電話して。もし“天敵”の姿が確認できたら写メもお願い』
「分かりました。落石さんも気を付けて」
『ありがとう、るうかちゃん』
佐羽は最後に少しだけ嬉しそうにるうかの名前を呼んで電話を切った。祝が横から口を挿む。
「黄の魔王は大学サボって情報収集か……こっちにいても、魔王業が優先みたいだな」
「落石さんはそうなんだと思う」
るうかは祝の言葉を否定せず、そう答えて頷いた。窓から見える正門前の路地はひたすらに静かなままだった。
執筆日2014/06/01