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青い渦の中心から零れ落ちたものは、まるで初めからそう決められていたかのようにるうかの手の中へと落ちる。それは一粒の小さな種だった。球形で、わずかに青みがかった黒色をしたその種はるうかの手の平の上でころりと簡単に転がる。うっかり落としてしまわないようにとるうかは種をぎゅっと握り込んだ。
「これ、一体何ですか」
「さあ? ここにこれだけ植物があったことを考えれば、種が残るのも不思議ではないけど……でも魔法そのものはもう発現しているみたいだし、何の意味があるのかは俺にもよく分からないな」
2人がそのような会話をしている間に、天井近くにあった青い光の渦はゆるゆると解け始める。それは波打つ光の波紋となって部屋中に広がり、るうか達の見ている前で紺色の壁をすり抜けてさらに外へと広がっていく。もう止められないのだ、とるうかはぼんやりとした不安を感じた。世界は再び夢によって繋がる。確証があるわけではないのだが、緑ならそれができても不思議でないと思うことは簡単にできた。
「あ」
青い波紋を見つめていたるうかは一瞬、そこに綴られた文字列に目を奪われる。緑の遺した魔法は世界の変化を元へ戻すための呪文だ。しかしそこにはもっと別の彼の思いも織り込まれていたのだ。
“世界を生きる生命に、僕らのようなプログラムが干渉することは許されないことなのかもしれない。それでも僕らはこの世界で同じ時を過ごし、同じ夢に立っていた。プログラムだからといってそれをなかったことにされるのは我慢がならない。これから始まる未来は僕らがいた過去から続く未来でもある。だから僕はこの未来を望む。ごめんね、本当は僕のわがままなんだ”
「……西浜さん」
「あはは、緑さんも案外人間っぽいところがあったんだね。わがまま、か」
るうかと同じものを読み取ったのだろう。佐羽はそんな風に言って楽しそうに笑う。
「だったら、俺のもわがままだ。ごめんね、るうかちゃん」
「……え?」
何を言われているのか分からず、るうかはきょとんとして佐羽の方へと顔を向ける。佐羽はほんの少しだけ眉尻を下げて申し訳なさそうに微笑んでいた。そして彼は囁く。「わがままだったんだよ」と。
「君をけしかけて決断させたこと、実は俺のわがままでした……って話。本当のことを言うと、俺も自分では決められないと思ったんだ。だから君に押し付けた」
「……落石さん、それはちょっとひどいです」
「うん、だからごめんって。……でもね、俺だって頼成に会いたいんだよ」
佐羽の口から出た名前にるうかは不覚にもびくりと震える。そうだ、るうかは彼に会いたいと思ってここまで来たのだ。街中を捜し、その変化した世界に彼がいないことを確かめて茫然としたのだ。その新しい現実を受け容れられなかったのだ。
「私も会いたいです、頼成さんに」
「会えるよ。俺が会わせてあげる」
「でも、いくら世界が昨日までみたいに夢で繋がっても……私はもう同じ夢を見ることはできないですよ。向こうの世界の私は死んでしまいました」
「そうだね。それにいくら世界の仕組みそのものが昨日までのものに戻ったとしても、俺達がゲームの最後に選択した事実そのものは変わらないだろう。俺の存在もきっと、向こうの世界の“サワネ”とはもう繋がらない。それを繋ぐことができるのは神だけだ」
ふふっ、と佐羽はどこか気味の悪い笑みを漏らす。
「嫌だなぁ……俺じゃない俺が向こうの世界にいるなんて、すごく嫌だ」
「落石さん……」
「それもそのうち何とかしないとね。……と、終わりそうだ」
佐羽が一体何を考えているのか、るうかには分からない。しかし天井を満たしていた青い光の渦がごくごく小さくなっていることには気が付いていた。緑の魔法は街中に広がっていったのだろう。雪の降る灰色の空を青い光の帯が網のように包み、人々は驚きながらそれを見上げたのだろう。最後に残った青い光の球が一瞬ぎゅっと収縮したかと思うと、次の瞬間に爆発した。
そう、爆発だ。大きな音を立てて眩しい光を放ち、青い球が弾けた。突然の出来事にるうかはただ目を瞑ることしかできず、身体を震わせる衝撃にたたらを踏む。目を閉じていてもなお真っ青になった視界に影が射し、るうかの身体は誰かの手によって柔らかく包み込まれた。誰かとは改めて問うまでもなく佐羽だろう。彼はるうかを庇っている。それだけを感じながらるうかは束の間、意識を手放した。
夏のことだった。
ある暑い日、夏休みで家にいたるうかの元へ佐羽から1通のメールが届いた。次の土曜日に皆で遊びに行こうという誘いだった。それまで遊びの誘いは頼成から届くことが多かったのだが、その日は佐羽からだった。行先は街の南側の川のある大きな公園で、そこでバーベキューをしようという企画にるうかも賛同した。
いつものように頼成も含めた3人で遊ぶものだと思っていた。しかし当日に待ち合わせの場所に着いてみると、そこにはどういうわけか輝名と湖澄、そして緑も揃っていたのだ。夏の陽射しに一際輝く鮮やかな緑色の髪を惜しげもなく晒して、彼はとびきり気持ちよさそうに笑っていた。そして公園に着くといつものように黄色いエプロンをつけて嬉々として肉や野菜を焼き、締めには特製のソースを使った魚介たっぷりの焼きそばまで振る舞ってくれたのだった。
輝名は湖澄と共に河川敷で釣りをしていた。この現実の世界ではほとんど共にいるところを見たことのない彼らが並んで、川面に投げた釣り糸の先を眺めている様子は妙に微笑ましかった。左腕の使えない輝名の代わりに竿を投げる湖澄も、それを当然のように見ながら片手で竿を受け取る輝名も、その日だけは役目も何も忘れて楽しんでいるようだった。
るうかは頼成と2人で川の上流にある小さな滝を見に行った。陽射しを程よく遮る木立の中で木製の端の上に立ち、細かな水飛沫を撒き散らす滝の周囲の涼しい空気に身を任せていると、身を焦がす暑さもどこかへ遠のいていった。いつしか2人はそうすることがとても自然であるように手を繋いで、しかしそれ以上に近付くことはせずに黙って滝を眺めていた。
そろそろ帰るよ、と2人を呼びに来たのは緑だった。るうかは彼に美味しい料理の礼を言った。すると彼は「こちらこそ」と言って笑ったのだ。
楽しい時間をどうもありがとう。
そんな夏の日の思い出がるうかの脳裏に鮮やかに蘇り、そして再び記憶の中へと大事にしまわれていった。
気が付くとるうかは冷たい土の上に横たわっていた。彼女に覆いかぶさるような格好で倒れている佐羽は目を閉じたまま動かない。るうかの視界には雪の止んだ灰色の空と、辺りに広がる葉の落ちた黒い木の幹、そしてそのモノクロームの景色にただひとつ際立った彩りを添える鮮やかな緑色の葉を茂らせた大きな木がある。そこにあったはずの建物はもうどこにもなかった。世界は再び変わったのだ。
「落石さん……」
るうかが呼び掛けると、佐羽はうーんと唸りながら少しだけ身をよじる。
「落石さん、守ってもらっておいてこんなことを言うのは何ですけど、重いです」
「んー……。……俺、多分るうかちゃんより軽い……よ」
「そんなに違わないですよ」
「そうかなぁ……だってるうかちゃん、ほら、柔らかいし……ねぇ?」
「これ以上余計なことを言うとぶちますよ」
「いいよ」
るうかの上でぱちりと目を開けて、佐羽は悪戯っぽく笑ってみせる。思った以上に顔が近い。
「殴ってよ、思いっきり。そうしたら夢じゃないって分かるでしょう?」
「……泣いている人を殴れませんよ」
「あれ? 泣いてるの、俺」
泣いていますよ。そう言ってるうかは手を伸ばして佐羽の目尻から零れる雫を指先で拭った。彼はわがままだと言ったが、それでも敢えて彼自身の罪を残したままの未来を選んだのだ。きっとその先には彼にとって辛いことが多く待ち受けている。報いは必ず彼の元へと降りかかる。
「そっか……俺、泣いているんだ」
そう言いながら佐羽は自分の涙を慈しむようにるうかの指に触れ、それから身を起こして彼女の脇に立つ。差しのべられた手を取り、るうかもまた立ち上がった。濃い緑の匂いを孕んだ空気が2人を包み込んでいる。
「……この木、季節外れですね」
るうかが言うと、佐羽も深く頷く。
「緑さんだからね。マイペースなんだよ」
「そうですね」
るうかは近くの木陰に横倒しになっていた赤い自転車を起こすと、佐羽と共にその場を後にした。緑の匂いを運ぶ風は少しの間2人の後をついて吹き、やがて雪の香りに紛れて消える。
春国大学の敷地にある、冬でも濃い緑を茂らせる木が一種の伝説として街の人々の間に語り継がれるのはもう少し先の話だ。
執筆日2014/07/28




