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中に入ってすぐの部屋には研究施設らしく机やパソコンが並んでいた。ただし電子機器はすべて電源が落とされており、佐羽が触ってみても起動しない。どうやら現在この施設には電気が届いていないらしい。
「まさか魔法だけ残しておいて肝心のものはデータごと吹っ飛んじゃったとか言わないよね?」
佐羽が懸念を口にしながら手近なキーボードを叩く。応答はない。るうかは部屋の中を見回し、その白っぽい壁に一箇所だけわずかに異なる色で塗り固められたような部分があることに気付いた。佐羽を呼び、その部分を指差す。
「ふうん? 隠し扉とかそういう感じかな。ありがちだけど、緑さんならやりかねないかもね……妙なところで子どもっぽい人だから」
そう言うと佐羽は羽織っていたベージュの上着の内ポケットからあろうことか拳銃を取り出した。顔をしかめるるうかの前で彼は壁に向けて遠慮なく引き金を引く。3発撃ったところで壁の表面が数箇所、衝撃に負けてぼろぼろと剥がれ落ちた。佐羽はそこを目掛けて近くにあったパイプ椅子を叩き付ける。コンクリートの破片が周囲に飛び散り、砕けた壁の向こうに薄暗い通路が現れた。
「うーん、力技って大変」
「……落石さんの魔法ならきっと建物ごと吹き飛ばせますね」
「うん、さすがにそれはまずいと思ったからこういう方法にしたんだよ」
佐羽はごく簡単な調子で言い、それを聞いたるうかは何も言えずにこっそりと溜め息をついた。それにしても不思議なのがどうしてるうかと佐羽はこの世界に残ってなお記憶を失うことなく、しかも緑の遺した魔法を読み取ることができたのだろうかということである。薄暗い道を歩きながらるうかはその疑問を佐羽に投げかけた。すると佐羽は落ち着き払って答える。
「るうかちゃん、ゆきさんから何かもらわなかった?」
「え?」
「宝石みたいな、歪な形をした小さな……それを飲み込めば魔法が使えるって言って飲まされたよ」
「……」
るうかは思い出す。阿也乃と最後に会話をしたとき、彼女から口移しで何かを飲まされたことを。ひょっとするとあれがそうだったのだろうか。
「魔法が使えるんですか。この世界で?」
「うん。俺もあんまり詳しくは知らないんだけど、そもそもこっちの世界にも魔法はあるんだ。ただそれを使うための条件が厳しくて……コンピュータで言えばアクセス制限みたいなものかな? 人間が普通に魔法を使うっていうことはできないようになっている。“一世”や“二世”みたいな特殊な存在は別だよ。あの人達はその役割を果たすために特別な権限を持っているから、この世界でも元々魔法が使える。浅海柚橘葉が大学の敷地に結界を張って頼成を捕まえたことがあったじゃない。ああいった類のね」
薄暗い廊下は長く、それでも行く先には光が見える。温かく柔らかい光だ。
「ゆきさんがくれたものは多分、この世界で魔法を使うためのアクセスキーなんだろうね」
「だから私達はこの世界で緑さんのメッセージを受け取ることができたんですね」
「そうだね。ゆきさんももしかするとここのことを知っていたのかもしれない。俺としては、ここは緑さんが自分で考えて残した場所だと思っているんだけど」
るうかは同意の意思を込めて頷く。阿也乃はこの世界の未来になど興味はない様子だった。150年という長い時間の拘束から解き放たれることを喜んでいるように見えたものだ。緑がおそらくはるうか達に未来を託そうとこの施設を作ったというのなら、阿也乃はそれに積極的に手を貸すような真似はしないだろう。しかし興味がないことを敢えて阻む必要もない。緑が頼めば阿也乃はるうか達に魔法のキーを預けるくらいのことをしてもおかしくない。
「結局柚木さんは何がしたかったんでしょうか。ひどいことをたくさんして」
「ん……俺もあんまり分かっていないけどね。あの人はつまらないゲームを粛々と進めていく性格をしてはいなかったよ。勝っても負けてもどちらでも、あの人にとって痛快な展開を望んでいたはずだ。だからそれさえできれば後はどうだってよかったんじゃないかな。俺を使っていたのも、きっとただの趣味みたいなもので」
佐羽の語調にはどこか突き放すような様子が混じっていた。彼は阿也乃に気に入られ、彼女の手元で育てられながらその手駒として非道の限りを尽くしてきた人間だ。彼女が勝利すら求めていないことに気付いていてなお、その思想に従い続けたのだ。彼はそんな自分の罪とでもいうべきものを強く自覚している。
「だからさ、俺はこっちの世界を選んだんだ」
ふ、と切ない笑みを浮かべて佐羽は言う。るうかは深く追及せずにおいたが、彼の言葉は不思議と腑に落ちた。
廊下の先に見えていた光が近付いてくる。それと同時に何かの匂いがるうかの鼻をついた。不快な匂いではない。むしろ夏の山のような、今の季節にはまるでそぐわない類の香り……緑の萌える香りだ。佐羽も同じものを感じたらしく不可解そうに眉根を寄せてほんの少し歩みを早める。光が漏れる部屋に近付くにつれて匂いも濃くなっていく。
そして2人が辿り着いた先にそれはあった。
阿也乃の家の地下室にあったものとよく似た、おそらくはサーバ室と呼ばれるだろう部屋である。真四角に近い形をしたそこそこの広さの部屋の中央には立体映像を映し出すための装置があり、その上にはまるで太陽のように眩しく熱い光を放つ球体が浮かんでいた。その周囲には天井から細いケーブルで吊るされた実体を持つ球体がいくつも浮かんでいる。紺色の壁と相まってそれらはまるで宇宙にある天体を表した模型のように見えたが、それにしては決定的におかしな部分があった。
部屋には鮮やかな緑色をした植物が床一面を埋め尽くすように生き生きと葉を茂らせていたのだ。葉の表面には葉脈に沿って青色の光の帯が浮かんでいる。近付いてよく見てみれば、それは案の定魔法を示す呪文の文字列だ。佐羽は何のためらいもなくそれらの葉の1枚をぷちりと摘み取ると、そこに浮かぶ呪文を読み上げた。
「“神の所業に否を唱えるなら、世界の条理は元のまま。両の世界が対をなし、夢と現を行き来する”」
「……夢と、現……ですか」
「大体予想通りだな。あの人ならきっとこういうものを作ってくれると思っていた」
佐羽はとても嬉しそうに言うと、るうかの手にその1枚の葉を乗せた。葉はるうかの手のひらの上でキラキラと葉脈を光らせ、やがて空間に溶けるように消える。
「選ぶって、そういうことなんですか。また同じ夢を見られるようにできるっていうことなんですか?」
るうかはすでに気がついていた。緑がここに残したものが何であるのか、このおそらくはサーバ室であろう施設で一体何をしていたのか。彼はここでいつか夢が終わる日のことを考えていたのだ。そしてそれをよしとしない、そのことに納得のできないるうかや佐羽のような誰かがここを見付けることを望んでいたに違いない。彼はこの場に手段を残した。
「ゲームの主催者は自分の責任として後始末をつけていったんだろうけど。考えてみれば勝手な話だよね。世界の仕組みを変えて、人の記憶まで勝手に書き換えてさ。俺達はコンピュータのデータじゃないんだ。書き換えられて、なかったことにされて、そんなのたまんないよ」
「……あの、でも、もしかしたら今のこの世界では落石さんのしてきたことだってなかったことになっているんじゃないですか?」
思わずるうかはそう問い掛けていた。その可能性に気付いてしまったのだ。佐羽が阿也乃の命令に従ってこの世界の希望を絶やすような真似をしていたのは紛れもなく“一世”達のゲームの手としての行為だった。だからゲームの終了と同時にそれもまた書き換えられていておかしくない。理紗の悪夢や祝の選択の記憶がなくなっているように、佐羽を恨み憎む誰かの記憶も失われているのではないだろうか。るうかの指摘に対して佐羽は苦く微笑んで答える。
「それこそ、俺は耐えられない。俺がしてきたことが全部なしになるなんて」
「……でも、落石さんはやりたくてやっていたわけじゃないですよね」
「どうかな? るうかちゃん、君は俺をちょっと買い被っているのかもしれないね。悪いけど俺は結構楽しんでやっていたんだよ。そりゃあ初めはゆきさんの命令で義務的にやっていた。女性を口説いて、優しい言葉とプレゼントで釣り上げて、たくさん幸せにしてあげてから手ひどく裏切るんだ。最初は当然、自己嫌悪を感じもした。だけどそのうち慣れちゃった。あのねるうかちゃん、自分の思った通りに誰かが壊れる瞬間を見るのは快感だよ。俺は彼女達を征服できた。俺が支配者だった。その恋も人生も全部手玉に取って弄んであげられた」
高揚した口調で語る佐羽の表情は恍惚として、どこか阿也乃の浮かべるもとと似た悪意に満ちた笑みを湛えている。るうかには理解できない。るうか達に対して彼が見せる優しく思いやりのある顔と、彼が他の女性に向ける邪悪を隠した巧妙な笑顔。どちらも彼にとっては真実なのだろう。
そして彼はその事実から目を背けることを望んではいない。
「みんなの記憶が戻ったら、またひどい目に遭うかもしれませんよ」
佐羽は以前暴力団絡みの事件の当事者となったことがある。そのとき彼は頼成によってその生命を救われたが、直後に自らビルの屋上から身を投げた。
「そうだね。でもそれは当たり前でしょう? 俺はひどい人間だもの」
恨まれて当然、と佐羽は言う。なるほど、とるうかはひとり納得して頷いた。どうして彼がこちらの世界に残ったのか、そしてどうしてそのことに対してるうかもあまり疑問を抱かずにいたのか、その理由がはっきりと分かったのである。佐羽はこちらの世界で死ぬ、あるいは殺されて人生を終えることを望んでいたのだ。彼の罪はこの世界にあり、故にその報いもまたこの世界にある。彼はそう考えてこの世界をやがて死に至る生の場として選んだに違いない。
「それでいいんですか」
るうかが確かめるように尋ねると、佐羽は存外さっぱりとした笑顔でうんと頷く。
「現実から目を背けないこと。それを俺はある女の子から教わったんだ。俺のそれは尊くはないけれど、せめてそれくらいの誠実さを残して生きていたいよ。悪人にだって良心の欠片くらいある」
そう言うと佐羽は気分を切り替えるようにぱちんと両手の平を打ち鳴らす。
「さて、るうかちゃん。俺の話も聞いたところで腹は決まったかい? 緑さんは言った。未来を君に決めてほしい……って。さあ、どうする?」
るうかは佐羽の言葉を聞き、改めてその緑色に彩られた不可思議な部屋を見回した。
執筆日2014/07/28




