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やあ、と亜麻色の髪を揺らしてふんわりと微笑む青年に、るうかはぽかんと口を開いた間抜けな表情を向けるばかりだった。どうして彼がここにいるのだろうか。るうかが何も言えずにいると、彼……落石佐羽は少しだけ口先を尖らせる。
「何? るうかちゃん、もしかして俺のこと忘れちゃった?」
「え? いいえ、それはありませんけど」
「じゃあがっかりした? 緑さん本人が出てくると思った? あ、もしかして頼成がいると思って期待しちゃった? それは悪いことをしたかな。でも残念だけどあの馬鹿ならいないよ」
さくり、と佐羽の言葉が針より太い刃となってるうかの胸を刺す。
「いない……っていうのは、ここにいないっていう意味ではないんですよね」
るうかが確かめるように問うと佐羽はうん、と柔らかい笑顔で頷く。
「どうやらこの世界に頼成はいないみたいだ。本当、馬鹿だよね。彼は選んだんだ、向こうの世界を」
「……」
神のゲームが終わるとき、人間は2つの世界のうちどちらを現実とするかを選択する。そしてより選択者の多かった世界を陣地とする“一世”が勝利する。勝者の世界は残り、その世界を選んだ人間はそこで生き続けることができる。しかし、敗者の世界は。
「……っ」
るうかはびくりと身を震わせた。こらえきれない嗚咽が口から漏れそうになるのを必死に抑えていると、佐羽がふわりと包み込むようにるうかの身体を抱き締めた。
「大丈夫、るうかちゃん……ゆきさんは勝っていない。向こうの世界は多分消えていないよ」
「……?」
「あれだけのルール違反をしてゆきさんが勝てるはずがないんだ。盤面を全部ひっくり返してゲーム自体を台無しにしちゃったようなものだもの。浅海柚橘葉だって似たようなものだけどね。でも彼が勝ちを収めそうになったその瞬間をゆきさんが狙っていたのも事実だ。それに君の存在を利用したのは正直腹が立つけど、ゆきさんはきっとずっとこの結末を狙っていたんだよ」
佐羽は穏やかな口調でそう語り、それからもう一度顔をしかめて不服そうに告げる。
「ただどうして頼成の馬鹿が向こうを選んじゃったのか、それは分からないけどね。君がいない世界を選ぶなんてどうかしているよ」
るうかの身体を抱いたまま佐羽はそうやって友人に対して文句を連ねた。るうかは涙が引っ込んでいくのを感じながら彼の言葉を聞いていたが、やがてふと気付いてそれを遮る。
「違うと思います」
「ん?」
「頼成さんは……私のできないことをしようとして向こうの世界を選んだんじゃないでしょうか。私にはそう思えます」
るうかはそう言いながら苦く笑った。佐羽は訝しげな顔をして、それでも優しくるうかに問い掛ける。
「君のできないこと……勇者として向こうの世界の人々を守ること?」
「いいえ、治癒術師として向こうの世界の人々の苦しみを少しでも和らげることです。勇者の私は柚木さんに作られたクローンで、元々の“るうか”じゃありません。頼成さんはずっと治癒術師の“るうか”の成し遂げられなかったことをしようとしていたように思えるんです。自分の身を削って、誰かを助けて。やり方は少し違いましたけど、やっていることそのものは“るうか”と同じでした」
確かに、と佐羽は頷く。
「3年前、治癒術師だった君が湖澄を助けようとして“天敵”になってしまって、それを見てから俺達は随分と生き方を変えたよ。頼成は賢者になったし、俺も魔王になった。でも、彼のああいう性格は昔からだよ。彼はね、自分をぶっ飛ばした相手にだって思いやりを持って優しい言葉を掛けられるんだ。一体どういう親から生まれたらああなるのか不思議なくらいだよ。馬鹿なんだ。馬鹿みたいに誰かを助けようとするんだ。ああ、でもそれこそ君とよく似ているのかもね?」
皮肉の混じった佐羽の口調は、しかし面白いほどに嫌味がない。むしろ頬を紅潮させて語る様は彼の言うところの“馬鹿”に憧れているかのようである。るうかはそんな佐羽を見つめながらこくりと首を縦に振った。
「そうですね。私は自分を犠牲にしようとまでは思いませんけど」
「でもしているじゃない」
「自然にそうなっちゃうんです。そうじゃない方法をうまく見付けられないんです」
「なるほどね。それは頼成とは違う部分かな?」
「はい。頼成さんは自分の身体や幸せよりも誰かを助けることを優先したがる人です。私も時々、馬鹿じゃないかと思います。そうやってどんどん傷付いていく様子を見せられる方の気持ちにもなってみてほしいと思ったりもします」
「全く同感だよ。ねぇるうかちゃん、俺と君って結構気が合うのかもしれないね」
「そうですね、頼成さんに関しては特に」
「まったくだよ、あの馬鹿!」
そう言って佐羽はあははと明るい声を立てて笑った。ひとしきり笑った後でふうと息を吐いた彼は「さてと」と呟きながら辺りを見回す。
「いない馬鹿の話はひとまずここまでにしようか。るうかちゃん、緑さんの遺したメッセージは聞こえたよね?」
「……はい」
るうかもまた表情を引き締めて頷く。佐羽は辺りの黒い木々を見やり、それからるうかの目の前にある迷彩柄の建物に視線を移した。
「随分とまぁ丁寧に隠して作ったものだね。巧妙だ、見事だ。あの人は本当にゆきさんの持てる技術と許された権限の全てを費やして作られたゆきさんのパートナーだったんだね。浅海柚橘葉の牙城であるこの世界の、この大学の敷地内に彼に干渉されない施設を作ってしまうなんて」
「大学の構内に勝手に建物を作っちゃったんですね……」
「緑さんなら全然気にしないでやっちゃいそうだよね」
そうですね、とるうかは深い実感をもって頷いた。西浜緑という青年はまったく破天荒で、おっとりと笑いながらどんな無茶も無法もやってのける。そういう意味ではやはりあの阿也乃に最も近しい存在だったのだろう。そして彼は人間ではなく、“一世”に作られたパラヒューマノイド・プログラムと呼ばれるまさしくただの魔法のようなもので、それでいてるうか達にこうしてメッセージを残したのだ。
「西浜さんは……どうして、ここにこんなものを……?」
「それは中に入ってみれば分かるんじゃないかな。彼はゆきさんの意に背くことはしない。でも、ゆきさんよりもずっと人間らしくて優しかった」
佐羽はそう言いながら迷彩柄の建物を楽しげに眺める。彼は3年前の事件の折に“天敵”となった治癒術師のるうかを封印した緑のことを憎んでいた。しかしこの半年ばかりの間でそのわだかまりもほとんどなくなったようで、今の彼の表情に暗いところは見受けられない。
「緑さんねぇ、俺にパンケーキを焼いてくれたんだよ」
がさり、と佐羽の足が建物へと続く枯葉の道を踏みしめる。霜に凍えたそれが割れて砕けてぱらぱらと散っていく。
「パンケーキ、ですか」
「何が食べたい? って聞かれたことがあってね。ふっと思いついたのがパンケーキだった。俺、普段あんまり甘いものは食べないんだけどね……なんだか急に、そう思って」
がさり、がさり。るうかは佐羽の後について建物へと向かう。自転車は黒い幹の木の横に置いておくことにした。
「小さい頃。俺達が孤児院で育ったことは頼成から聞いているよね? 俺が頼成と初めて会った頃、一番のごちそうがパンケーキだった。特別な日にだけ食べられるものだった」
「そう……だったんですか。特別な日って?」
「誕生日とか、かな。あとはお祭りとか。俺はあんまりそういう催しって好きじゃなかったけど、パンケーキは嫌いじゃなかったな。普段大したものを食べていなかったから、単純なお菓子でもすごく魅力的に思えてさ」
昔を語る佐羽の目は、しかしただ目前の建物を楽しそうに見つめている。彼は言葉で過去を語りながらも現在ここにある緑の思いを見ているらしかった。
「ああ、そういえばあの頃から頼成は馬鹿だったなぁ。頼成の誕生日、5月なんだけどね? その日もパンケーキが出たんだ。でもあの馬鹿、自分は甘いものは苦手だって言ってそれを俺に寄越したんだよ」
「……」
「俺、その前の日に喧嘩して施設の子を1人殺したんだ」
佐羽の告白に、るうかは思わず頬を引きつらせた。前を歩く佐羽からはるうかの表情など見えないだろう。ひょっとすると、そのために彼は先を歩いていたのかもしれない。
佐羽の魔法は幼い頃から強力だったのだという。そして彼自身、怒りに任せてその力をふるうことにさしたる抵抗もなかった、らしい。本当のところはどうなのか分からないが、彼はそう語った。
「俺は懲罰室っていう狭い部屋に入れられて、しばらく外に出してもらえなかった。食事も減らされた。死ねばいいって思われていたんじゃないかって、今は思う。でも頼成は俺を庇った」
「どういう、喧嘩だったんですか」
「ちょっとからかわれただけだよ。本当によくある子どもの喧嘩だ。悪いのは俺。頼成に情けをかけてもらえるほど、俺は正しくないし正しくあろうとも思っていなかった。腹が立ったから魔法をぶつけたら相手が死んじゃったっていう……ひどい話」
「……」
「頼成は悪人にも平気で親切にできる。そういう意味じゃ彼も結構な悪人だよ。でもね、そのときのパンケーキはやっぱり美味しかったんだ」
そこまで言うと佐羽は足を止め、一度るうかの方へと振り向いた。
「そんな昔話のせいもあって、俺はたまにパンケーキが食べたくなる。無性にね。そして緑さんが最後に俺に作ってくれたのもパンケーキだった。小さい頃に食べたのとは比べ物にならないくらい豪華で、甘さ控えめのクリームと濃いめのキャラメルソースに熟したバナナの切ったものまで添えてあって、どこかのカフェで出される商品かっていうくらいに綺麗だった。緑さん、すごく嬉しそうにそれを俺に出してくれたんだ」
にこにこと笑う緑の様子がるうかの脳裏に浮かぶ。いつだったか、黄色いエプロンをして豪華な料理を嬉々として用意していた彼をるうかも知っている。佐羽はほんの少しだけ悔しそうに、しかしとても嬉しそうに笑って言った。
「食べ物に釣られたっていうのもちょっと情けないけど、俺はもうあの人を疑うことはしない。あの笑顔は作り物じゃないよ。あんなに美味しいパンケーキを作ってくれた人なら、信じていい」
「ちょっと無理がありませんか」
「俺には充分な理由なんだ」
そういうものなのだろう。すっきりした表情で言い切る佐羽を見て、るうかも諦めて頷く。そして2人はやはり迷彩柄に塗られた扉を開けて、緑の遺した建物に踏み入った。
執筆日2014/07/28




