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それからるうかはバスと地下鉄を乗り継いで学校の最寄り駅まで戻ってきた。まだ新しい赤色の自転車を押しながらうっすらと雪の積もった道を進む。その足取りは重い。やがてるうかは夏に幾度も訪れた頼成のアパートの前に辿り着いた。記憶にある部屋番号を押してインターホンを鳴らすが、応答はない。るうかは溜め息をつきながらその場で自分の携帯電話を開いた。
アドレス帳に確かに登録してあったはずの頼成の名前がない。彼と交わしたメールも、通話の履歴も残っていない。所詮データに過ぎないそれらはるうかの前から忽然と消えてしまった。そして頼成本人さえも。
るうかは憔悴した表情でアパートを出て、そのまま自転車を押しながら近くにある春国大学の敷地へと入っていく。以前は通学のためによく利用していた敷地だ。基本的に出入りに規制はなく、近所の住人や観光客が散歩に訪れるような、開かれた場所である。夏には青々とした芝生に彩られていた緑地も、今は霜と雪に覆われて仄白い。黒色をした木々の幹と相まって、モノクロームの光景が広がっていた。
このまま家に帰ろうと思った。これ以上何かを探してもきっと徒労に終わるだけだ。るうかの胸にはそのような諦めが広がっている。もういいじゃない、と彼女の中の疲れた彼女が呟く。
もういいじゃない。調べられそうなところは調べたじゃない。
静稀や理紗、祝もそれなりに楽しく幸せそうに過ごしている。それを敢えて否定する必要はない。るうかが覚えている夢の記憶もやがては薄れていくのだろう。頼成と出会い、心を通わせたこともやがては綺麗な思い出のひとつとなって彼女の過去に置き去られていく。
それは悲しい想像だったが、るうかにとっても決して嫌な想像ではなかった。そういう未来があってもいいと思うことができた。しかし、それでもまだどこかに諦めきれていない彼女がいる。
「頼成、さん……」
ゲームの終わる瞬間、最後に伸ばした手が触れていたら何か変わっていただろうか。冷たい空気の中でるうかは立ち止まって大きく息を吸う。雪の匂いのする清らかな空気が彼女の胸を満たしていく。
言い訳はよそう。
冷えた雪の香りに洗い流されたるうかの心に残ったのはただひとつの感情だった。
「会いたい」
ぽつり、とるうかは呟く。その目に浮かびかけていた涙はもうない。会えない、とるうかは再び呟く。その口元は微かに笑みの形を描く。
「会えない?」
本当にそうだろうか。可能性はどこかに残されていないだろうか。諦めることはいつでもできるが、可能性を掴むためには時期を逃してはならない。だったらもう少しくらい粘ってみてもいいではないか。
「会いたい!」
小声ながらも確かな声でるうかは叫ぶ。灰色の空に吸い込まれた彼女の声はすぐには消えず、大学の建物の壁に反響してうっすらと余韻を残した。いつの間にか彼女は建物と建物に挟まれた狭い空間に入り込んでいたのだ。どうやら考え事をしながら歩いていたためにメインストリートを外れて妙な場所に迷い込んでしまったらしい。
以前は毎日のように敷地を通り抜けていたとはいえ、彼女は当然ながらこの大学の学生ではない。よってその地理にそこまで精通しているはずもない。ましてや春国大学は広大な敷地面積を持つことで有名な学校ですらある。さて困った、とるうかは辺りを見回す。後ろを振り返ってもそこには建物に挟まれて入り組んだ細い道があるばかりで、そこを通れば元のメインストリートに戻れるのかどうかもよく分からないのだ。まるで迷路だ、とるうかは顔をしかめながら改めて前を向く。
遠くに少しだけ開けた場所があるように見えた。黒い幹の木々が生えて、葉の落ちたそれらの向こうに何やら建物が見える。周囲の堅牢な建物とは異なりややこぢんまりとした印象を受ける建物だ。るうかはしばらく目を凝らしてその光景を見つめていたが、やがて意を決して赤い自転車を押しながら建物の見える方へと歩き出した。
建物までの距離は見た目よりも長かった。眺めたときにはまっすぐに見えていた道が、辿ってみると不思議と曲がりくねっている。るうかの鼓動が速さを増す。胸から腹にかけてがじんわりと熱くなっているように感じて、るうかはふうと息を吐いた。その息すらもどこか熱を帯びている。
「なんだろう、変な感じ」
そう呟いたるうかの目にさらに奇妙なものが映り込む。それは彼女の両脇にそびえる大学の建物の壁に走る青い線だった。先程見たときにはなかったはずのものだ。そしてその青い線は時折ぴかりと思い出したように光りながら、小さくうねる。
「これ、まさか」
るうかは青い線を睨みながらも足を止めることなく歩き続けた。どうしてかは分からないが、歩みを止めてはいけない気がしたのだ。身体の奥がとても熱い。壁に走る光る線はいつしかはっきりとした文字の羅列としてるうかの目に映るようになっていた。
“帰れ、戻れ、帰れ、帰れ。夢を夢のままにしていたいなら”
“行け、進め、行け、行け。夢も現実もその胸に受け止める覚悟があるのなら”
“資格のない者には通れない道だ。通ることができる者は考えなければならない”
“進むも戻るも己の判断でできることだ。しかしその結果もまた己自身に降りかかるものだ”
“思考せよ、判断せよ、思考せよ、思考せよ。夢と現実を知る者、その記憶を繋ぐ者”
“同じ夜の夢をもう一度見たいと望むなら、この道を進め”
「誰が、どうして、何のためにこんな!」
るうかは思わず叫んでいた。返る答えはあるはずもなく、響いた彼女の声だけが両脇の壁に反響しながら狭い空へと吸い上げられていく。間違いない、壁に走る文字は呪文だ。この道を封じ、求める者にだけ見えるようにと丁寧に組み上げられた魔法がそこに刻まれているのだ。
何故今のるうかがその呪文を読み解くことができるのか、るうかにはそれさえ分からない。しかし身体を駆け巡る熱が滾るように彼女にその意味を伝えてくる。
“この道を通る者へ、最後に遺す”
道の終わりが見えてきた。目指す建物はもう目の前だ。
“全て、君が決めていい。これは僕の最後の意思だ。人間でない僕が君に遺すことのできる精一杯のものだ”
黒い木々に紛れるように濃い灰色の模様が描かれた建物。見事な迷彩、見事な塗装である。
“僕は君の決断を見届けることができない。それが少しだけ悔しいし、悲しい。でもいいんだ”
壁が途切れる。るうかは黒い木々の林に踏み入り、やっと立ち止まった。最後の呪文は彼女の前に立つ1本の太い灰色の木の幹に、青い光の帯となって絡み付いていた。
“どうか僕の遺すものが君の願いを叶えますように。どんな未来も選択できる、その可能性を僕はここに遺す。だから全て、君が決めていい。君に決めてほしい”
「……み、どり、さん……?」
呪文が音声となってるうかの耳に届く。それは紛れもなく緑の声だった。彼はこの大学に通う大学院生でもあった。それならばこのような仕掛けを作ることもできたかもしれない。しかしまだゲームの最中であった頃、この敷地は彼にとっては敵にあたる鼠色の大神官、浅海柚橘葉の懐の中だったはずだ。それでいてなおこれほどの呪文を残すことができたというのか。
緑の言葉は彼らしい穏やかさと、そして彼が最後に託したであろう情熱によって強くるうかの胸に染み入っていく。
“君に決めてほしい、未来を”
いいんですか、と思わずるうかは呟く。返る答えがないことは分かっていても、それでも問いかけずにはいられなかった。
「私が決めて、いいんですか。みんなは今の方がいいって言うかもしれないのに」
るうかは恐怖を感じていたのだ。自転車のハンドルを掴む手が震えている。彼女が緑の魔法によってここに導かれてきたことは間違いないのだろう。しかしだからといって彼女が本当に今ある穏やかな日常を変えてしまったなら、それは果たして許されることなのだろうか。それで平穏を失う人がいたとして、その人物は彼女を知ることはないかもしれない。得られたはずの平穏を再び奪われた人にとって、その現実は一体どれほど辛いものだろうか。
このままがいい、という人間は少なくないはずだ。
「私が、決めるなんて」
できない、とるうかが言いかけたそのときである。
「いいんだよ、君が決めて」
優しく柔らかい声がそう言って彼女を振り向かせた。
執筆日2014/07/15




