3
放課後、引き留める友人達をうまくかわしてるうかは1人街に出た。雪はまだ降り続いている。灰色のアスファルトを黒く濡らす雪に足を取られないように、彼女は自転車を手で押しながら慎重に歩みを進めた。そして最寄りの地下鉄駅にある駐輪場に愛車を置くと、そのまま地下への階段を下っていった。
その日の目覚めはとても平凡で平穏なものだった。目を開いて薄明かりを漏らすカーテンを見たとき、るうかは溢れる涙を抑えることができなかった。半身を侵していたはずの異形化した細胞やそれのもたらす痛みはどこにもない。穏やかな目覚めはるうかが本当の意味で夢から覚めてしまったということを示していた。そしてるうかはどういうわけか、これまでに経験してきたこと、つまり神のゲームとやらの中で体験したあれやこれやを昨日と同じように記憶していた。
携帯電話で日付を確認すると、それはこちらの世界に“天敵”が現れたあの最後の日と同じだった。るうかにしてみれば時間が巻き戻されたような感覚である。そして世界は何事もなかったかのように新しい一日を迎えたのだろう。テレビをつけても天気予報で上空に真冬並みの寒気が流れ込んでいるという話題があるくらいで、日河岸市内で殺人事件があったなどという物騒な速報は流れないのだろう。
自転車を漕いで学校に行っても正門の前に女子生徒の死体はないのだろう。いつものようにゆるりとした調子で授業が始まり、そして昼頃に降り出した雪を見て理紗辺りがはしゃぐのだろう。
それはるうかにとって簡単な想像だった。そして、当然ながら悪い想像ではなかった。あの悪夢のような一日がなかったことになるならそれに越したことはない。しかし、それでもるうかの両目から溢れる涙は止まることがなかった。
結局母親が仕事で留守にしているのをいいことにるうかは午前中の授業をサボった。昼前に殊勝な声色を使って寝坊したため遅刻するという旨で学校に連絡を入れ、それからやっと制服に着替えて家を出た。学校に着いたときにはすでに昼休みで、るうかがいないために暇を持て余していた理紗からいきなりゲームに誘われたのだった。
緑色をした盤面で黒と白の駒による陣取りを行うゲームは嫌でも昨日までの神のゲームを思い起こさせる。理紗も静稀も何も覚えてはいないようだった。祝でさえもそうだ。静稀は自分に兄がいたことを知らない。理紗も悪夢に脅えた日々を覚えていない。祝に至ってはるうかに告白をしたことさえ忘れている。そんな友人達を見ているうちにるうかは悲しいよりも腹が立ってきたのだ。
このような結末があっていいものか。彼女達が流した血と涙はゲームの終わりと共にあっさりと消えてなくなるような軽いものだったのか。そのような世界を現実と認めてたまるものか。
勿論るうかも分かっている。これが一番穏やかで、苦しみの少ない結末なのだろう。神はゲームの後始末をして去っていったに違いない。ゲームによって生じた苦い出来事は全てなかったこととして、街で暮らす人々の記憶を改竄した。何故るうかがその影響を受けずに全てを覚えているのかは分からないところだったが、覚えている身としてはやはり理不尽に感じられるのだ。
苦しみも悲しみも確かにあった。それは現実として受け止めるには辛いものだったかもしれない。しかしるうかの見てきた限りにおいて、少なくとも彼女の友人達はそれを何とか受け止めて前に進んでいたのだ。そんな彼らの意思や営みすら無に帰してしまうことに対してるうかは憤りを感じる。何事も真実ばかりが正しくて良いものだとも思わないが、歩いてきた道を消し去られて否定された感覚が拭えない。それを許すことができない。
なるほど、阿也乃が言っていたようにるうかは確かによく現実を見る性質なのだろう。ならばそれを貫こう、とるうかは考えたのだ。そしてまずは現状を確認するべく街に出た。
やはりというべきか何というべきか、街は穏やかなものだ。この冬初めての雪にタイヤを滑らせる車が見受けられること以外に危険など何もないように見える。少なくとも人を食らう肉塊の化け物は現れそうにない。
学校を出たるうかがまず向かったのは阿也乃の家だった。繁華街から少し歩いた場所にあったはずの古いビルは、しかし見事になくなっていた。建物の基礎と一体化している半地下のガレージの跡だけが残されていて、かろうじてそこに建物があったということを示している。るうかは思い切って隣のビルに入り、管理人らしき初老の男性に隣の建物について尋ねた。彼の答えたところによると、隣は住居兼テナント用の貸し物件として着工されたものの途中で建設業者が倒産したために作りかけのまま放置されたものらしい。つまり初めからそこに建物はなかったということだ。
「いやぁ、邪魔だから更地にしてもらいたいんだけどね。市で買い取るとか何とかしてさ」
「あ……そうですね」
愚痴をこぼす男性に対してるうかは生返事をするより他なかった。改めて外に出て阿也乃の家のあった場所を、いや、建てられるはずのビルが建たなかった場所を眺める。確か阿也乃の家には地下深くへ続くエレベータがあり、その地下にはサーバ室と呼ばれるいやに整った設備や何かがあったはずなのだが。それも全ては夢の向こうに消えてしまったのだろうか。
風が冷たい。いつまでもそこに立っているというわけにもいかず、るうかは次の目的地へと向かって歩き始めた。
るうかが次に目指したのは朝倉医院である。阿也乃の家からさほど遠くない距離にあるのだが、地下鉄沿線ではないためにバスで移動することにする。果たして、辿り着いた場所には白く四角い小さな医院があった。しかしそこに掲げられた看板に“朝倉”の文字はない。代わりに“比羅岡クリニック”と書かれたプレートがさりげなく張り付けられており、どうやら麻酔科を専門に取り扱う医院として開業しているようだった。
るうかはまたも思い切って建物に入り、受付窓口で医院について尋ねてみる。何しろるうかはここで産まれたはずなのだ。それさえも改竄の対象になっているというのだろうか。
受付の女性は穏やかな笑みを浮かべて気さくな調子でるうかの質問に答えてくれた。
「はい、確かにここは10年くらい前までは産科も取り扱っていたんですよ。比羅岡先生はその頃から麻酔科の先生として勤めていて、産科の先生が辞めるときに麻酔科だけの医院として再出発することになったんです」
「その産科の先生って……朝倉先生っていう人ですか?」
「ああ、はい。そうですよ」
「その先生が今どこにいるかとか分かりますか?」
るうかのその問いかけに対して受付の女性は黒い髪を揺らしてそっと瞼を伏せる。
「残念ですが、朝倉先生は医院を辞めてすぐに亡くなりました。交通事故でした」
「……そう、ですか」
何がどこまで本当のことなのか、るうかには判断することができない。しかしそういうことになっているのであればここでこれ以上追及する意味もない。ならば、とるうかはもうひとつ別の質問をすることにした。
「すみません、もうひとつ教えていただきたいんですけど……喜美香ちゃん、宝喜美香ちゃんという子がここに入院していませんか?」
「今お調べします」
受付の女性は少しだけ事務的な表情を取り戻しながら手元でキーボードを操作する。そしてすぐにるうかの方を見て答えた。
「はい、いらっしゃいます。面会をご希望ですか?」
「あ、いいえ……いいです。いるって分かれば、それで」
受付の女性に礼を言って医院の自動扉をくぐる。そこでるうかは一度灰色の空を見上げて大きく息を吐き出した。どうやら見間違いではなかったらしい。
るうかが向こうの世界で初めて経験した大規模な死闘、アッシュナーク大神殿でのテロで出会った少女。そしてゲームの最後に現れて“天敵”となって散っていった少女。それが喜美香だった。彼女がこの世界でどのように暮らしているのか、最後までそれを彼女の口から聞くことはできなかった。しかしるうかは見たのだ。最後の日、朝倉医院の廊下に並ぶドアの横のプレートに書かれたその名前を、確かに見たのだ。
「喜美香ちゃん……」
彼女はるうかにこう言った。「こっちの世界で生きた覚えはほとんどないわよ」と。それはるうかが想像するに、きっと意識のほとんどないまま病院のベッドの上で日々を過ごしているということなのではないだろうか。
「落ち着いたら、お見舞いに行くから。それまでは……せめていい夢を見ていて」
届くはずのない言葉を呟き、るうかは医院の敷地を後にした。
執筆日2014/07/15




