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上空に真冬並みの寒気が流れ込んでくる。天気予報がそんな宣告をした翌朝、舞場家の玄関脇の土に霜柱ができていた。朝のニュース番組では天気の話題の他に、日河岸市内で殺人事件があったという物騒な速報が流されている。それでも変化といえばその程度のことだった。今年もあと31日で終わるというその日、るうかはまだ新しい自転車を漕いで学校へと向かう。ただし、以前通学に使っていた春国大学の敷地を通ることは決してしない。そこは鼠色の大神官・浅海柚橘葉の領域であり、るうかにとっては危険な場所だった。
いや、もうそのようなことを気にする必要はないのかもしれない。何しろるうかはすでに勇者ではなく、夜眠っても向こうの世界を夢に見ることもない。るうかにとっての現実はすでにこの世界、この日常にしかないのだ。そんな彼女を相手にしているほど“一世”たる彼も暇ではないだろう。
るうかが向こうの世界を夢に見なくなってから、彼女の日々はとても穏やかだった。一時期学校を騒がせた佐羽との噂もほとんど聞かれなくなり、2年生最大の行事である修学旅行にも無事に行くことができた。生まれて初めて飛行機に乗って県外へと出たるうかは、旅先の古都でこれまでにない新鮮な体験をいくつもした。どこまでも連なる塔のようなビル群を上から一望できる、空へと伸びる大樹と名付けられたタワーに上った。古いビル達が太陽の光を浴びてその表面にある窓ガラスを煌めかせる様子を飽かずに眺めた。かつて国家の象徴たる者の住まいであったという場所はビルの合間にあって豊かな緑を茂らせていた。その敷地を囲う堀の水はどこまでも澄んで、古い石垣が透けて見えた。旅行から戻ったるうかは頼成や佐羽、そして輝名や湖澄にも会ってそれぞれに土産を渡した。それぞれの趣味に合わせて色々と考えてはみたものの、何よりもまず彼らに贈りたかったのはお守りだった。
身の安全を守るためのお守りである。古都にある由緒ある神社でいかにも古めかしい布製のお守りを4つ買ったとき、るうかはわずかな寂しさに囚われた。るうかはもう向こうの世界での彼らの無事を祈ることしかできない。身を挺して彼らを守ること、彼らと並び立って戦うことはもうできないのだ。そのことはるうかをひどく不安にさせ、また悔しくもさせるのだった。
彼女が恋人である頼成に買った土産は、お守りと大きめの茶碗だった。体格のいい頼成は食事の量も多い。るうかは彼と付き合うようになってから頻繁に彼のアパートへ出入りしているのだが、いつだったか彼が随分と小さい茶碗を使っていることに気付いた。何でも、小学生の頃に使っていたものをそのまま持ってきて使い続けていたらしい。大きな身体に小さな茶碗は不釣り合いで、何度もおかわりを繰り返す頼成を見ながらるうかは密かに決めていた。いつか彼に茶碗を贈ろうと。修学旅行の土産というのはちょうどいい機会だった。
そのようにしてこの世界での日々は本当に平穏無事に過ぎている。頼成達から向こうの世界の情勢について聞くこともあるが、そちらはあまり平和とは言いがたいようだ。
秋の鎮魂祭で起きた事件以降、向こうの世界で最も繁栄していたアッシュナークの都はほとんど人もいなくなり、大神殿のお膝元としては見る影もないのだという。鼠色の大神官は事件以降姿を現さず、もっぱら輝名が指揮を執って街の復興を目指したらしいが、彼自身が神殿から破門されたこともあって結局は多くの住民が都を出ていったのだ。事件で失われた生命も多く、すでに都としての機能を失ったアッシュナークの治安悪化と行く宛もなく残された人々の悲しみには歯止めがかからないようである。輝名はこちらの世界でるうかに会っても疲れた顔を見せたりはしないが、そんな彼を心配する頼成や湖澄の表情は日増しに曇っていくのだった。
勇者としての自分を失ったるうかは大きな無力感を覚えていた。しかしそれが仕方のないことであるともよく理解できていた。ただ気になるのは、今後のゲームの行方である。
“一世”と呼ばれる柚木阿也乃、浅海柚橘葉の2人がそれぞれの世界の魅力を競うこのゲームは150年も昔から行われているのだという。阿也乃は向こうの世界を、柚橘葉はこちらの世界を各々のフィールドとして、人間達がその世界を選ぶようにと仕向けてきた。それは世界を魅力的にするというだけでなく、相手の世界の魅力を削ぐという負の戦略によっても成り立つ。阿也乃は佐羽を使ってこの街の人々に絶望と自死をばら撒いてきた。柚橘葉は大神殿の影響力を利用して人心を掌握し、最後に自らそれを破壊することによって人々から希望を奪った。
そう、柚橘葉は恐らく最後の手を打ったのだ。元々向こうの世界には治癒術とそれによる細胞異形化により人間が人間を食らう“天敵”に変化するという背中合わせの希望と絶望が存在している。神殿は祝福というシステムによってその絶望をある程度コントロールしていたが、それが失われたことで向こうの世界の秩序を形作っていた大きな構造のひとつがなくなったことになる。そうなった今、向こうの世界に住む人々はこちらの世界を夢に見て何を思うだろうか。魔法という便利な力はこちらの世界には存在しない。しかし日常生活において生命の危機などそうあるものではない比較的平和な国で、その中でも大きく不便のない街で、全てがうまくいかなくともそれなりの生活を送ることができる。それは“天敵”に怯え、神殿という拠り所を半ば失った向こうの世界の人々にとって選ぶべき現実と映るのかもしれない。
“一世”のゲームは最後に同じ夢を共有する人々がどちらの世界を己の現実とするか、その人数によって決着する。果たしてどちらの世界が選ばれるのか、選択の時はもうすぐそこまで迫っているのかもしれない。るうかにはそう思えてならなかった。
そんなあれやこれやを考えながらも無事に高校の正門前まで辿り着いたるうかは、そこに不自然な人だかりができている様子を目にする。とりあえず自転車から降りてそれを押しながら正門に近付くと、どこかで嗅いだことのある嫌な臭いがした。
それは血と脂の混じった臭いで、以前のるうかであればすぐにはその正体に思い至らなかっただろう類の臭いだった。高校生の日常の中で遭遇する機会などまずないはずの臭いだった。そしてそれはあまりに濃厚で、強烈で、この世のものとは思えない程だった。
るうかは直感でそれに気付き、自転車を放り出して人垣の中に分け入った。周囲には嘔吐している者や気分を悪くした様子でうずくまっている者もいる。それも仕方のないことだ。人垣の中心にあったのはある意味予想通りのものだったが、しかし本来そこにあるべきものではなかった。どうして、とるうかは小さな声で呟く。
そこにあったのは死体だった。しかもるうか達の通うこの高校の制服を着た女子生徒の死体で、頭と腕と片足が何かに食い千切られたようになくなっていた。傷口から流れ出した血はどす黒く変わり、そこに粘性のある液体が混じっている。何かに捕食された跡だと考えることはたやすかった。
あまりの事態に茫然としていた生徒達の一部から警察や救急車といった声が上がり始める。それを皮切りに恐怖のあまりに泣き出す生徒や逃げ出す者も現れ、現場はにわかに混乱した。その中でるうかはきょろきょろと辺りを見回す。
どこかにいるはずなのだ。この女子生徒を捕食した“何か”が。夢の中で鍛えられたるうかの嗅覚はこの世界でも有効なようで、正門の前にある横断歩道を渡った先の住宅の脇にある狭い路地から微かな異臭が漂ってきていることを感知する。ぎり、とるうかは奥歯を噛み締めた。そこに何がいるのか、大体の見当はつく。どうしてそれがここにいるのかは分からないが、いることはほとんど疑いようもない。しかしだからといってどうすればいいのかも分からない。この世界のるうかには、“それ”と戦うための力はないのだ。
騒ぎを聞きつけて校舎から出てきた教員達が現場の惨状を見て、ひとまず生徒達を校舎の中へと誘導する。そのうちに誰かが呼んだらしい警察の車両と救急車がやってきて、現場周囲に規制線を張ったり、死体の状態を確認したりと事務的な作業が始まった。るうかは少し考えてから警察の車両に乗っていた年嵩の男性警官に声を掛ける。
「向こうの家の横の路地に“天敵”がいます。分からなければ、分かる人を探して伝えてください。きっと誰かが分かると思います」
警官はおかしなものでも見るようにるうかを見たが、るうかはそれ以上何も言わずに校舎へ向かって走り出した。悔しさと無力感と、そしてこの恐ろしい事態への疑問がるうかを混乱させていた。
執筆日2014/06/01