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身も心もずたずたにされたるうかは鈍色の空を見上げたままぼんやりとしていた。阿也乃はそんなるうかを抱きかかえたまま静かに目を閉じている。冷たい風が2人の髪を揺らし、るうかの目に新しい涙を浮かべていく。
不意に冷たい何かがるうかの頬に落ちた。ふわり、ふわり。綿毛のように空から舞い降りてくるのは真っ白な雪だ。そんな季節か、と思ったるうかの頭上で阿也乃がああ、と小さく声を出した。
「終わりの花が降ってきたか」
お別れだな。そう言って彼女はるうかに最後のキスをくれる。最後までそれか、と呆れたるうかだったが最早抵抗する気すら失せていた。だから阿也乃がその舌を使ってるうかの口に何かを滑り込ませたときにもうっかりそれを飲み込んでしまった。
「っ、何ですか、今の」
「何、ただの餞別さ。それじゃあるうか、もしお前が次に目覚めることがあったならそのときには達者で暮らすんだな。それがお前にできるただひとつのことだ」
阿也乃はるうかを抱き上げると、力を失ったその身体を冷たい路面に横たえた。そうしているうちに阿也乃の姿がぼんやりとかすみ始め、やがてぽろぽろと崩れていく。まるで絡まった糸が解けるように彼女の身体は青い線となって消えていった。ああそうか、とるうかは納得する。彼女は人間ではなかったのだ。“一世”とは、この世界でゲームを行うための魔法だったのだ。
青く光る線は呪文の羅列だ。今、るうかにはどういうわけかそれを読むことができた。るうかの唇が自然と動いて、それをるうかのよく知る言葉へと翻訳していく。
「“私達は神によって作られた。私達は駒を動かしてゲームをすることしかできないように決められている。私達は新しい駒を作ることができる。しかし私達の作る駒は神が作る駒とは異なる。私達は生きる駒を作ることはできない。生きる駒とは人間のことである。私達は神に作られたという点で人間と同じ次元にあるが、神に決められているという点で人間と異なる。私達はゲームを動かすための魔法であり、プログラムである。そこに意思はない。意思がないという点において、私達は人間とは異なる”」
白い雪が音もなく降り注いで、いつしか阿也乃の姿をすっかり掻き消していた。今度こそ本当に誰もいなくなった街で、るうかは今しがた口にした言葉の意味を考える。“一世”とは、柚木阿也乃と浅海柚橘葉とは一体何だったのか。そして彼女達が作り出しただろう彼女達だけの駒、パラヒューマノイド・プログラムと呼ばれる西浜緑と浅海佐保里とは何だったのか。ゲームが終わってしまうということは、彼女達はもうこの世界に現れることはないのだろうか。では“二世”と呼ばれる有磯輝名と清隆湖澄は一体どうなるのだろう。彼らはどうやら人間らしい。しかしやはり特殊な存在であることは明らかで、ゲームが終わって“一世”がいなくなればその役目も終わるだろうということも簡単に想像できる。もしも彼らもまた世界から消えてしまうというのなら、輝名の“左腕”として彼を忘れてもなおその身を支えた侑衣や湖澄の妹として兄のことを思っていた静稀は一体どうするのだろう。何もかもなかったことにでもなってしまうのだろうか。
白い雪に赤い羽根が混じる。なるほど、確かにこれはるうかだけが見ている夢のような場所なのだろう。きっと目を覚ませばそこはるうかがこれまでそれなりに穏やかに暮らしてきた日常の世界で、“天敵”もいない世界なのだろう。るうかは今でも頼成達と共有していた同じ夢の世界をただの夢だとは感じられずにいる。それは紛れもなくるうかの現実のひとつだった。しかし、それは終わってしまったのだということも理解している。
白い雪が見えなくなるほどの赤い羽根が降り注いで、るうかの視界から鈍色の空を隠す。るうかはゆっくりと瞳を閉じ、考えた。
目を覚まさなければ。るうかにとっての現実はもう、あの夢の世界にはないのだから。
* * *
ぱち、ぱち、ぱち。るうかは緑色の盤面に黒の駒を置くと、対岸のそれとの間にある白の駒を次々とひっくり返していく。あー! と彼女の向かいに座る理紗が大きな声を上げた。
「角があ! あたしの角が取られたあ!」
「横の方にばっかり攻めるからだよ。はい、理紗ちゃんの番」
「うう、るーか容赦ないよー!」
「真剣勝負だからね」
るうかはそう言って笑いながら白黒に塗り分けられた駒を手の中で弄んだ。
馴染みの校舎の馴染みの教室は今日もいつものようにほどほどに騒がしい。昼休みの喧騒をよそに、窓の外では灰色の空から気の早い雪が静かに静かに舞い降りている。綺麗だね、と空を見ながら静稀が言った。るうかはゲームの盤面から目を逸らして彼女を見る。
「今日、寒いもんね」
「まだ積もらないよ。でも、ちょっと変な感じ」
「何が?」
「るかりん、私今朝夢を見たんだよ」
静稀は空を見上げたまま首を傾げてそんなことを言う。るーかの番、と言われてるうかは一度盤面に視線を戻し、最後の駒を置いた。白が黒に置き換わる。止めを刺された理紗がうわああと喚いた。
「どんな夢?」
「それが、なんか変な夢でさ。私はまだ中学生で、家族で公園に行ったの。ほら、南の方にある川のある大きな公園」
「ああ、3年生が遠足で行くところ?」
そうそう、と静稀はるうかの方を振り返りながら頷く。
「それでさ、私は釣りをしていたんだよ」
「静稀ちゃん、釣りするの?」
「しないよ。でも夢の中ではしていた。兄貴と」
「え?」
るうかは眉を寄せ、少しだけ笑いながら静稀を見る。
「静稀ちゃん、お兄さんなんていたっけ?」
「いないよ、だから変なんだってば」
そう言って静稀もるうかと似たような表情で笑う。理紗だけがまだ盤面を睨みながら何やらうんうんと唸っている。もう終わってしまったゲームを前に何を考えても無駄だろうに。るうかがそう思ったとき、理紗は「あー!」と叫んで緑色の盤面をひっくり返した。白黒の駒がばらばらと床に散らばる。何やってるの、と静稀が友人を叱った。理紗は椅子にふんぞり返りながらふてくされたように言う。
「だって面白くないんだもん! るーかは最後全然こっち見ないで静稀と話してるし!」
「だからって子どもみたいなことしないでよ」
「つーまーんーなーいー!」
「うーるーさーいー!!」
教室の中は2人の少女のやりとりのせいでやけに賑やかになった。るうかは床に散らばった駒を拾い集めて机の上に置くと、席を立って窓辺に寄る。そこでは茶色い髪を短く刈った男子生徒が1人で灰色の空を眺めていた。
「何してるの、桂木くん」
「何も。雪だなと思ってただけ」
「雪だね」
「なぁ、舞場」
放課後話があるんだけどいいか、と彼、桂木祝は少し早口で言った。るうかは少し考えてから小さく笑って首を振る。
「ごめん」
「……そっか」
「話を聞いたら断りにくくなりそうで」
「あー、そういう気の遣い方をしてくれたわけか。知ってたのか」
「理紗ちゃんからそれとなく聞いてた。ごめんね」
「それ以上謝られると俺が惨めだからやめてくれ」
「うん」
るうかは小さな嘘に胸を痛めながら苦笑する。理紗は何も言っていない。彼女は幼馴染みである祝をあらゆる意味で大切にしていて、頼りにしていた。それを知っていて敢えてそんな嘘を言ってみせたのは、祝もまた理紗を信じているだろうとるうかが勝手に推測したからだった。きっと彼はるうかの言葉を信じはしないだろう。そしてそれもまたるうかの気遣いだと一人合点して、諦めてくれるだろう。
そうなればいい、とるうかは思った。灰色の空から降る雪はやみそうにない。綿毛のように、花びらのようにちらちらと降り続くそれをるうかは祝と並んで眺める。予鈴が鳴るまでずっと2人はそうしていた。
執筆日2014/07/15