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冷たい風がるうかの髪を乱しては通り過ぎていく。しんと静まり返った路上で独り、彼女は訳も分からず涙を流していた。何も分からない。何が起きたのか、何も起こらなかったのか。ただアスファルトの固い路面に叩き付けられた半身が痛かった。
「頼成、さん」
呼んではみるものの、返る答えはない。当然だ。るうかは彼が消える瞬間をその目で間違いなく見てしまった。転移魔法によってその場から姿を消したのとはまた異なるような消え方だった。まるで存在そのものがそこから消失したかのように唐突に、瞬きひとつもできないうちに彼は姿を消したのだ。
そしてその事実を確認したるうかはさらに後ろにいたはずの輝名の姿もないことに気が付いた。強い風が吹き付ける。頭上の電線がぴうぴうと音を立てるほどの風の中、今この街にはるうか以外誰もいないかのようだった。るうかだけが悪夢の中に取り残されてしまったように感じられ、彼女はまただらだらと涙を流した。
喜美香の血によって細胞が異形化した半身が疼く。いっそこのまま“天敵”になってしまえば、何も感じずに済むだろうか。いや、きっとそこで感じるのは強い空腹と、捕食すべき対象……人間がいないということに対する絶望だけだろう。今るうかが感じている戸惑いや恐怖からは確かに逃れることができるのだろうが、代わりの感情としては決して望ましいものではない。展望も何もあったものではないではないか。
ではどうするか。どうしようもない。気力さえも尽きてしまったるうかの身体は動かない。やまない風がひたすらに彼女の残りわずかな体力を奪っていくばかりである。風と彼女以外に動くものの何もない街で、彼女は大人しく泣き続けた。
「なるほど、これはまた随分と寂しい光景じゃないか」
不意にそんな声がしてるうかはハッと顔を上げる。実際にはのろのろとした動きにしかならなかったのだが、それでも彼女は縋るような気持ちでできる限りの素早さで声の主を見上げたのだ。そこでは鈍色の空を背景に灰色の長い髪を後ろでひとつに結わえた女性が鮮やかな青色の瞳を細めて微笑んでいた。
「やっと終わったな」
彼女、柚木阿也乃はそう言って穏やかに笑う。それからるうかの傍に屈み込むと、非常に優しい動作で彼女の身体を抱き上げて自分の膝の上に乗せた。ご苦労様、と阿也乃は言う。
「疲れただろう、お前も」
「……どういう、ことですか。終わったって、何がですか」
「そのくらいは自分で考えろよ」
阿也乃はたしなめるように言いながら膝に乗せたるうかの脚を、肩に抱き寄せたるうかの頭を優しい手つきで撫でた。人形を慈しむような触れ方は決して心地よいものではなかったが、るうかは抵抗もできずにされるがままでいた。
「ゲームが、終わったんですか」
「ああ、150年は長かった」
るうかの答えに阿也乃は頷く。彼女の顔は憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとして、その口からはいつものあのきついミントの香りがしない。それに気付いたるうかが顔を上げれば機嫌のよさそうな青い瞳と視線がかち合う。
「せっかくだから説明しておいてやるか。今は遊戯の結果が出るまでの待ち時間さ。人は皆この間、独りきりの世界で最後の審判を待つことになる。ああ、この世界の宗教にも似たような話があったな。似ているようで全く違う。あれは人の善し悪しを裁定するものだが、これは人がどちらの世界を選ぶか、ただそれだけの決断を下すための最後の機会であるというだけだ。裁かれるのは人間じゃなく俺達“一世”さ」
ふふ、と阿也乃は含み笑いをしてまたるうかの頭を撫でた。
「それにしてもお前は本当に呆れるほどに現実を見据えていやがるな。頼成のことがそんなに好きならどうしてしがみついてでも奴を繋ぎ留めなかった? しようと思えばできただろう。何しろこの待機時間は本当の意味で夢のようなもの。目覚めれば全て泡沫と消えてしまう、一番自由で勝手でわがままが利く時間だ。そうして何ものにも束縛されない時間の中で最後の決を下せばいい。神はそういう意味合いのつもりでこの時間を設けているんだろうが」
「……かみ」
るうかがその単語だけを繰り返すと阿也乃は「ほらまた」と笑う。
「気にするところはそこなのか」
「“一世”っていうのは、神様からゲームをするように言われた人達なんですか」
「お前、俺の言葉を無視するなよ」
「神様っていうのは、もしかして」
「言っておくが俺はその手の質問には答えない。それも制約のうちさ」
「喜美香ちゃんを殺しておいて何を」
「この期に及んでまだ喧嘩腰か?」
阿也乃は呆れ返った様子で、しかし決して不愉快ではなさそうにるうかの目を見つめる。
「俺は本当にお前を鬱陶しく思っている。そうやって真っ直ぐに人の目を見て話すところや、見なくてもいいような真実を見極めようと挑んでくる姿勢が面倒臭くて仕方ない。お前は俺を恐れているだろう?」
こくり、とるうかは頷きを返す。阿也乃は確かに恐ろしい。その歪んだ笑みで舌に毒の言葉を乗せ、その手は常に残酷で惨たらしいことを軽々とやってのける。浅海柚橘葉も同様に恐ろしいが、彼にはまだゲームのルールを守ろうというつもりがあった。穏やかな表情で侮蔑の言葉を操る点においては阿也乃より性質が悪いとも思えたが、それでも冷静で論理に従って行動しているように見えたためか阿也乃よりはまだ落ち着いて向き合うことができたようにるうかは感じる。
阿也乃を前にして覚えるものは恐怖と嫌悪感でしかない。
「怖いです。それに、私はあなたを憎んでいるし嫌っています」
「随分はっきり言ってくれるな」
「あなただって私が嫌いなんでしょう」
「ああ、そうだ。るうか、嫌っているところで悪いがきっと俺達はどこか似ているのさ」
唇を三日月の形に歪めて、阿也乃はるうかの頭を抱え込んで顔を覗き込む。唇が触れそうな距離で囁かれる彼女の声は、優しい。
「ひとつ、諦めが悪い」
「……」
「ふたつ、神の遊戯の中で己の生き方を貫こうとした」
「……あなたの、生き方?」
「みっつ、作られた生命であることに殉ずるのではなく、自ら生きようと道を探した。そのせいでお前はまだどこかで夢に現実を残している。好ましいとは到底思えないが、そのイレギュラーが俺の作戦をことごとく乱してくれた。ああ、だから俺はお前が大嫌いで憎たらしくて邪魔で邪魔で仕方なくて何とか殺してやりたいと心底から思ったものだが、だが」
そこまでを一息に言った阿也乃は間髪入れずるうかの唇に自分のそれを押し付けた。いつかされたような呼吸さえ奪い尽くすような口付けではない。まるで恋人にするような情熱的で優しいキスにるうかは何も考えられなくなる。阿也乃はるうかの髪を手櫛で梳きながら角度を変えて何度も彼女の唇に口付けた。やがて満足したのか阿也乃はるうかから唇を離すとふう、と楽しそうに溜め息をつく。
「だがそんなお前がいたから、150年の遊戯の最後をこれだけめちゃくちゃで馬鹿げていかれたものにできた。演出は最高だったじゃないか。誰も彼もお前に惑わされ、裏切り、生き方を改め、軌道から逸れて踊り狂った。まさに狂った宴のような有様だった。喜美香の最期、ゆきの最期、ああも絶望的で醜く見事に散るとは実に最高だ。俺は見ていて愉快で仕方がなかったよ」
だからお前には感謝してやろう。そう言って阿也乃はにいと笑いながら二度目の口付けをるうかの唇に落とす。るうかはといえば、彼女の告げた残酷極まりない言葉に心を貫かれ、茫然と涙を流すより他なかった。分かっている、これは阿也乃のよく用いる残酷な手段のひとつであり、彼女が嫌うるうかに対してある種の報復のために告げている言葉なのだ。そうと分かっていてもなお、否定できない苦しみがるうかの喉を、胸を締め付ける。
「心の底から感謝しているよ。ありがとうなぁ、るうか」
阿也乃の放った一言が、るうかの頭を真っ白にした。
執筆日2014/07/15