3
繁華街を過ぎて少し走ると街の中心部に出る。そこからほど近いビルの並びに阿也乃所有の建物もあった。例によってボロボロのビルの入り口にはとってつけたようなアルミフレームのガタついた扉があり、そこにはでかでかと“関係者以外立ち入り禁止”と彫り込まれた妙に重厚な木彫りの看板が掛けられているのだった。そこに特に変わった様子はない。
扉には鍵がかかっていなかった。るうかを抱き上げた柚橘葉は「不用心な」と顔をしかめながらも遠慮なく建物の中へと踏み込む。その途端、爆音と共に何かが柚橘葉目掛けて飛びかかってきた。
「やめろ、西浜緑!」
輝名が叫び、柚橘葉は驚いた様子もなく片手を前にかざす。たったそれだけの仕草で、飛びかかってきた何かは空中にぴたりと停止する。それは緑と銀に塗り分けられた大型バイクで、るうかにも見覚えのあるものだった。空中に留められたバイクは重力に従って床に落ち、大きな音を立てる。
「二度も踏み潰されるのは遠慮しますよ」
「……」
無言のままバイクを降りた大柄な青年が被っていたヘルメットを取り、ふうと大きく息をつく。その表情は明るく、彼はその緑色の目立つ髪を揺らして柚橘葉を、正確には柚橘葉に抱えられたるうかを見た。
「ああ、よかった。危なくるうかちゃんを轢いてしまうところだったよ」
そう言って笑う緑だったが、その色のない瞳は全く笑っていない。表情は明るく和やかなのだが、彼の眼差しは明らかな戦意を宿したままだ。柚橘葉は呆れた様子で彼に言う。
「私を試しましたね。舞場くんも貴方にとってはその程度の価値しかないということが証明されたわけです」
「僕はるうかちゃんを守るよ。たとえあなたを轢き殺したって、彼女のことは守ってみせる。今はその必要がなかっただけだよ」
「傀儡ごときが私を殺すなど、冗談にしてもよく言えたものです。あの女は貴方にその程度の常識すら教えていなかったのですか」
「その言葉ならあなたにそっくりお返しするよ、浅海柚橘葉さん。僕らは人間でもないしましてや神様でも“一世”でもないけれど、心もあれば願いもある。あなたがそれを知っていたら、きっとこのゲームの行く末は変わっていたんだろうね」
にこり、とここで初めて緑は目を細めて笑った。その優しい笑顔はるうかにとっては見慣れたものだったが、柚橘葉はますます苦々しい表情を浮かべて彼を睨む。そこへ輝名が割って入った。
「西浜緑、お前はるうかを守ると言ったな。だったらここで待ち伏せしていた目的は何だ。柚木阿也乃の命令か? それともお前の意思か」
緑は少しだけ目を伏せながら「両方だよ」と答える。
「阿也乃ならもうここにはいないよ。その上で阿也乃がここで待てと言ったのは確かだし、ここに君達が来るだろうことも分かっていた。“一世”と連れ立って来るとは思っていなかったけどね。そして僕はるうかちゃんを守りたいけれど、今のるうかちゃんを助けることはできないんだ」
ごめんね、と緑は本当にすまなそうに謝る。その手にはどこかで見たことのあるようなカードがあった。緑がるうかには聞き取れない言葉で呪文を叫ぶ。
「 !」
すると一瞬カードが光を放ち、その直後には緑の手に向こうの世界で彼がいつも使っている緑と銀に彩られたランスが握られていた。緑はそのまま何も言わずにランスを構えると柚橘葉へ向かって一直線に突っ込んでくる。柚橘葉はるうかの身体を盾にして緑の攻撃をかわした。緑がにこっと笑う。
「ひどいやり方をするね」
「貴方の主人程ではないでしょう」
「それは僕としては心外だな。僕は阿也乃に逆らうことはしない。そして阿也乃と阿也乃の世界を守るためにはどんなことでもする。それが僕の生まれた理由だから。そしてその上でさらにるうかちゃんやみんなを守るんだ。それが僕の生きる意味になるから」
強い言葉と共に緑は大きな体躯を反転させてランスの切っ先を柚橘葉へと向け直す。輝名がそっと身を引いて、柚橘葉からは見えない場所で愛用の魔法銃を構えた。緑がはっと小さく掛け声を掛ける。それが合図だった。
前から緑、後ろから輝名が柚橘葉を攻める。柚橘葉はやむなくるうかをその場に降ろし、部屋の奥側へと飛び退る。そのままるうかを盾にしていては彼が身を守るためにるうかを死なせてしまうことになるからだろうか。直接手を下すわけではないのでゲームのルール上は問題にならないはずだが、彼としてはこれ以上この世界の人間を失いたくないのだろう。駒の数を減らすことは避けたいに違いない。柚橘葉はそれでも勝利を確信した表情で言う。
「計算は狂いましたが、これでもう私の勝利は揺るぎないものとなります。柚木阿也乃は規約違反により盤面を去る。人間がどちらの世界を選ぼうとも、それは最早どちらでもいい」
「同じことを阿也乃も言っていたなぁ」
柚橘葉の言葉に緑が同調する。柚橘葉は一転して射殺しそうな目つきで緑を睨んだ。対する緑は穏やかに微笑みながら油断なくランスの穂先を柚橘葉に向ける。
「“人間がどちらの世界を選ぼうと、そんなことはどうだっていい”」
瞬きひとつの間に緑が柚橘葉へと肉薄する。柚橘葉は驚きに目を見開いていた。その腹部を緑色に煌めくランスの刃が貫いている。
「“俺はゆきの奴に一泡も二泡も吹かせてやりたい。そしてそれ以上に、このどうしようもない遊戯を上から眺めている奴らに思い知らせてやるのさ”」
「……傀儡如きが、何を」
「“緑、俺の大切なひと。お前に最後の一太刀を任せる。お前なら俺達の存在についての解析もできるだろう。その結果を以てゆきを殺せ。それで晴れてこの遊戯は”」
緑はそこまで言うと柚橘葉の腹からランスを引き抜いた。そこに流れるはずの赤はなく、ただぼろぼろと何か青色をした粒のようなものが傷口から零れ出てくる。それは床に落ちると一瞬輝きを放ち、すぐに空間に溶けて消えていった。柚橘葉の身体全体がそうやって粉々に崩れ落ちていく。
「晴れて、この遊戯は無効となる……か」
魔法銃を下ろしながら呆れたように輝名が言う。止めなかったね、と緑は彼に笑顔を向けた。2人の間で青い砂粒の山となった柚橘葉が音もなく消えていく。その最期を見届けてからやっと輝名はにいと口元を歪めた。
「ひでぇ話だ。何がゲームだ。どいつもこいつも汚ぇ手ばかり使いやがって、自分達が動かしているのが意思を持つ人間だなんてことは一切気にも留めちゃいねぇ。そんなゲームならもっと早く終わらせてしまえばよかったんだ」
「それが“二世”の台詞かなぁ?」
「俺は有磯輝名だ」
そう言うと輝名は再び魔法銃を持ち上げた。銃口が狙うのは緑だ。緑はそんな輝名を見ながら何やらうーんと唸る。
「浅海柚橘葉の存在を破壊したことで、僕の存在も規約違反で抹消されることになるんだよね」
「ああ、当然だ」
「でも君は、というよりるうかちゃんはまだ僕に聞かなくちゃならないことがあるはずだ」
緑は楽しそうに笑ってるうかと輝名を見る。彼はランスを手放すと両手を挙げて降参の姿勢を取った。
「るうかちゃんの細胞異形化を止められる手段なら、残念だけどここにはないんだ。阿也乃は聖者の血をこちらの世界に持ち込むことはしなかった。だってそれがあったら、今回の計画の何もかもが無駄になりかねないからね。こちらの世界の希望は徹底的に潰すしかない」
「……」
「あのね、輝名くん。阿也乃はああいう人だから分かりにくいと思うけれど、彼女なりに向こうの世界を結構愛していたんだよ。それは歪んだ愛情かもしれないけれど、それでも彼女は世界を守り続けてきた。大魔王という肩書を以て、大神官との対立の構図を作って、世界の人々を過酷な現実から守ってきたんだ。目先に敵がいれば人はそちらに集中するでしょう? いつか来るかもしれない“天敵”や死をそれほど恐ろしく感じなくて済むんだ。でもこっちの世界はそういう意味ですごく脆い。穏やかな日常に慣れきってしまった人達は突然現れた脅威と恐怖に対応できない。その結果が今日だ」
緑の言葉を聞きながらるうかは先程車窓から見た街の景色を思い出す。人のいなくなった市街地、赤黒く濡れた路面と空に漂う赤い靄。“天敵”と戦う誰かの音。濃厚な死と惨劇の臭いに満ちたその光景にはまるで現実感がなかった。向こうの世界で“天敵”と対峙していたときの方がまだましだった。恐ろしく急激な変化がこの街を襲い、そうして昨日までの街は死んだのだ。それを現実として受け止められないるうかだったが、時間が経つにつれてそれも実感へと変化してくる。
「悲しいね」
緑がぽつりと呟いた。そして彼は笑いながらその場から姿を消す。転移魔法だろうが、輝名は追いかけようとする素振りすら見せない。るうかもまた身体と心にひどい疲労を感じていた。輝名の魔法によって細胞の異形化は止まっているが、すでに異常をきたしている腕から胸にかけてが思うように動かない。まるでその部分が石になってしまったかのような重さと、それに引きずられるようにして鈍く痛むその他の部位の怠さが辛い。輝名もまた肩で息をしながら動かない腕を押さえていた。いつも自信に満ちて前を見据えているその紫がかった淡い青の瞳も今はほとんど生気を失っているように見える。
2人は誰もいない阿也乃の家の中で床にぺたりと座り込み、少しの間静かな時間を過ごした。
執筆日2014/07/03