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輝名が使う転移魔法はとても丁寧で、るうかや侑衣の負担にならないよう配慮されたものだった。一瞬視界が暗くなったかと思うと次の瞬間にはもう、清潔でしかしどこかひんやりとした空気に包まれた場所にるうか達は立っていた。そこは窓のない白壁の部屋で、使われなくなったらしい椅子や棚がいくつか無造作に積み上げられているだけの狭い場所だった。
「……ここは?」
るうかがまだくらくらする頭をもたげて尋ねると輝名はこともなげに答える。
「朝倉医院だ」
やっぱり、とるうかは思う。どういうわけか、“一世”にしろ“二世”にしろ朝倉医院という場所にはよくよく縁があるらしい。それが一体どういうものなのか、るうかには分からない。しかし彼女自身がそこで生を受けたこと、そしてそのときに同じ胎内に宿っていた生命が絶たれたことを思えばるうか自身もまたこの場所を特別に感じてしまうのだった。
侑衣はまだ気を失ったままで、輝名は右手だけで彼女を運ぼうとするもうまくいかない。見かねてるうかは手を貸そうとするが、輝名の胴から手を離した瞬間にるうかの身体もまた床に崩れ落ちた。
体細胞の異形化は輝名が魔法で止めてくれているが、すでに侵食されて失われた組織が元に戻ったわけではない。るうかの身体は損傷による疲労に悲鳴を上げていた。ぐらぐらと揺れる視界の中でるうかは何とか身体を起こそうと床に手をつくが、肝心の手に感覚がない。胸から床へ倒れ込んだるうかを見下ろしながら輝名がぎりりと奥歯を噛み締める。
「すまねぇが……少しだけ待ってろ。侑衣を朝倉に預けたらすぐに戻る」
「は、い……すみません、私こそ、力になれなくて」
「馬鹿野郎」
輝名はそれだけ言い残すと、侑衣の身体を肩に引っかけるようにして半ば引きずりながら部屋を出ていった。重い足取りと不安定な体勢で進む彼をるうかは不安な気持ちで見送ったが、この身体では助けることも叶わない。るうかはただそこで静かに深呼吸をして、落ち着かない心をなだめるより他なかった。
それからいくらかの時間が過ぎる。るうかの意識は静かに淡い闇へと沈んでいく。それはこの怒涛の1日の中で言えば驚くほどに穏やかな微睡みだった。音のない白い部屋でうつ伏せに寝そべるるうかの周囲にはいつしか無数の赤い羽根が降り積もっていく。
夢か現か、それはるうか自身にも分からなかった。ただぼんやりと霞んだ視界に映る赤を懐かしく思いながら彼女はふっと微笑む。ひょっとするとこのまま彼女の生命は尽きるのかもしれない。夢も現実も、どちらも今のるうかにとっては曖昧だ。どちらも現実味がなく、まるでそのまま世界かるうかかいずれかが消えてしまっても誰にも気付かれることはないのではないか。そのような気分にすらさせられるのだった。しかしるうかは思う。それは嫌だ、と。
るうかの視界に広がる赤い羽根の海がふわりと舞い上がり、乱れる。もこもことしたピンク色のうさぎが、いやうさぎの顔を模したスリッパが1足、るうかの前で立ち止まった。長い黒髪をくるぶしまで垂らした青年がその不思議な青い瞳を丸く開いてるうかを見下ろしている。
「……幽霊さん?」
「イチ」
人差し指を1本立てて、青年は告げる。そしてその指で彼自身を指差した。
「イチさん、ですか」
「あっちとこっち、どっちが夢で現実か、決めなければ存在できない」
イチと名乗った朝倉医院の幽霊はるうかに選択を迫る。いや、彼にしてみればそれは選択を迫っているわけではなくただ言葉を発しているだけなのかもしれない。彼はきっとるうかがここで何を言ったとしても表情を変えることはないのだろう。まるで本当に幽霊であるかのように、彼はこの世界の物事に対して感情を見せるということがない。
いや、そうだっただろうか。るうかの記憶には彼と出会ったことが薄ぼんやりと残っているばかりで、そのときに交わした会話がどのようなものであったかは覚えていない。しかしるうかは一瞬だけ彼の目に歪みが生じるのを見た。眉根が軽く寄せられ、上瞼がそっと彼の青い瞳を覆う。
「最後の日に残るのは選ばれた世界。選んだ人間だけが残る。2つの世界に現実を見ていたら可能性は失われる」
「だから、選べっていうんですか」
「人間は心の中でもう選んでいる。誰も」
けれど、とイチ青年はるうかを見つめた。
「選んでいない。決めきれていない。諦めない人間に未来はない」
「おかしな、話ですね……普通は諦めたらそこで終わりなのに」
るうかは思わず言い返してしまう。イチ青年はその整った顔にわずかながら不快感を表した。るうかの言葉の何かが彼の気に障ったのだろう。彼の声が強くなる。
「諦めないの」
「諦めません」
「消えてしまっても」
「消えないように頑張ります」
「無理」
「無理かどうかは、やってみないと分かりません。少なくとも、私が納得できません」
「私、が」
「私が」
私、とイチ青年は繰り返す。彼は一度目を閉じて再び「私」とるうかの言葉を繰り返した。
「“私”は何。世界よりも上に人間はいない。階層の順を履き違えている」
「そうかもしれません。それでも私は、私が思う世界で生きています」
これまでるうかはそれほど強く世界や自分といったものの存在を意識してこなかった。当たり前といえば当たり前のことだ。そのようなことを意識する必要もなく、日々の生活はまるで自然とそう決まっているかのように滞りなく続いてきた。それが夢と現実という2つの世界を行き来することになり、“一世”のゲームとやらの存在を知り、挙げ句の果てにはこれまでるうかが現実として認識していたこちらの世界に夢の世界のものであるはずの“天敵”が侵入してきて常識を破壊した。
死の感覚が身近になる。夢の中で二度経験した“死”を現実に経験するかもしれないと、るうかにも分かっている。そしてその先に目覚めはない。それもおぼろげながら理解している。
そのような状況で初めてるうかは自分がこれまで生きていたことを、そして今生きているということを実感を持って認識していた。イチ青年が繰り返した“私”という存在を理解したのだ。そしてその“私”が生きる世界を選ぶという命題に対して拒否の回答を突き返す。
「誰が2つの世界なんていうものを作ったのか分かりませんけれど、私はそんなの知りません」
「見てきた。こっちとあっち、2つの世界。それでもそう言えるの」
「私の生まれた世界はこっちです。私がそう意識して生きてきた世界はこっちです。でも、だからと言って向こうの世界がただの夢だなんて思えません」
いつしかるうかはほとんど喧嘩腰になってイチ青年に挑んでいた。身体が動かない今、勝負の手段は言葉だけである。朦朧としかけた頭を必死に回転させて彼を納得させるための言葉を探す。何故そうしているのかはるうか自身にも分かっていない。ただ、それが今るうかにできる唯一のことであるというだけだった。
「夢でも現実でも、私はそこにいるんです」
「あっちでは死んでしまった」
「ああ、そうですね。じゃあ私はそこにいたんです。それは嘘でもないし、消せない事実です」
「事実」
「否定、できますか」
るうかはそう言ってイチ青年を睨んだ。青年の丸い青色の瞳とるうかの黒く深い眼差しがかち合う。ばちり、と一瞬辺りが光ったような気がした。ふ、と青年の口から吐息とも笑いともつかない音が漏れる。
「できない」
そう答えてイチ青年ははっきりとした笑みを頬に浮かべる。
「できない、否定できない。“私”は強い」
「……そう、ですか」
「世界よりも“私”を強く信じれば、消えた世界を嘆くこともない。“私”はそういうものなの」
「……」
るうかには彼の言わんとしていることがあまりよく分からなかった。しかし彼の中で何かひとつの考えが変化したということだけは見て取れる。るうかが黙っていると、イチ青年はふっと部屋のドアの方を見やった。
「“二世”が戻ってくる。“私”は強い。見せてもらう、その結末」
ぱちん、という音がして辺りから赤い羽根が消えた。同時にイチ青年の姿もその場から消え去り、元の白い部屋の中にるうかだけが残される。輝名のものらしき疲れた足音が部屋の外から聞こえてきた。
執筆日2014/07/03