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飛び散る赤と灰色の脳の欠片が辺りを舞って、るうかの視界は最早現実感を失う。何の言葉も出ない彼女の前で少女だったものは完全な肉塊の化け物へと変貌を遂げていた。阿也乃の哄笑が響く。
「ははははは! いいぞ、そのままるうかを食らえ、化け物!」
阿也乃の叫びに呼応するように少女だった“天敵”がうごめく。肉の身体を大きく広げ、獲物を捕食する体勢を取ったそれは、しかしそのまま動かない。じっとその場に留まり、肉の表面をうねうねと波打たせながらそれは何かを待っていた。
るうかは目の前の“天敵”と同じ赤い肉色に染まった自分の手を見る。きっと“天敵”はるうかを捕食対象の人間と見なしていいかどうか判断できずにいるのだ。阿也乃がチッと舌打ちをした。そのとき、教室のドアが外側から蹴破られる。
「“一世”鈍色の大魔王、こと柚木阿也乃!」
響き渡った声は輝名のものだった。るうかはハッと顔を上げて声のした方を見る。するとそこには侑衣に身体を支えられるようにして、肩で息をする輝名の姿があった。阿也乃は彼を見るとにいと口元を歪める。
「遅い到着だな、“二世”有磯輝名」
「てめぇは重大なルール違反を犯した。てめぇら“一世”の役割上最大の禁忌である人殺しを行ったてめぇはゲームから排除される」
「ふん、そうだろうなあ」
「だがそんなことより……俺はまずてめぇのその薄汚ぇ根性が気に食わねぇ!」
輝名はどういうわけか彼が向こうの世界で武器として使っていた大きな魔法銃を手にしていた。そしてあろうことか、それを阿也乃に向けて撃ち放った。阿也乃は避けることもなくその攻撃をまともに受ける。衝撃に弾かれ、壁に激突した彼女はそのまま気を失った様子でずるりと床に落ちた。
一連の流れに何か刺激を受けたのだろう。るうかの目の前にいる“天敵”がぶるぶると震えてその肉の身体でるうかを包み込もうとする。それを見た輝名がまたも魔法銃を撃ち、“天敵”の左側面にあった綺麗な青みがかった片目を焼き貫く。るうかの目の前で肉塊が弾け飛び、その血と肉の欠片が彼女の頭から全身へと降り注いだ。
るうかは両手を伸ばし、それら少女の残骸を抱き締めるように胸へと抱える。しかしそこに残ったのはぐちゃぐちゃの肉片だけで、不思議な髪と目の色をしたあの少女の姿はもうどこにもなかった。
「あ……ああああ!」
るうかは大声で泣いた。輝名が侑衣をドアの位置に残して教室の中へと踏み入ってくる。彼は天井に向かって魔法銃を撃ち、部屋全体に光を降り注がせた。恐らくそれは結界か何かなのだろう。少女の血は黒い蝶の鱗粉と同じ性質を持っている。そのままにしておけばるうか以外の誰かがまた犠牲になりかねない。るうかは輝名のそんな行動を尻目に泣き続けた。どうして彼がこの世界でも魔法を使うことができるのかだとか、そのようなことを疑問に思う余裕すらなかった。ただただ自分の無力さと絶望感に打ちひしがれた彼女は、もう何も考えられずにただ泣くばかりだった。そんなるうかに輝名が静かに声を掛ける。
「校舎内のテロリストは捕縛して向こうの世界に送還した。街にいる連中も湖澄があらかた片付けただろう。黒い蝶はこっちに来る途中で適当に無力化してきた。“天敵”の被害もじきに収まる。あとはお前の身体の治療だな……鈍色の大魔王のことだ。聖者の血のストックくらい用意してあるんだろう。そいつを探して、お前を助ける。俺はそのつもりだが、お前はついてこられるか?」
ゆるり、と顔を上げてるうかは輝名を見た。紫がかった淡い青色の瞳がひどく心配そうに、沈痛な色を浮かべてるうかを見つめている。ここに来るまでに彼も相当の無理をしたのだろう。いつもその動かない左腕を吊っていた三角巾が破れて肘の辺りに引っ掛かっている。白銀の髪も乱れ、服にも赤や黒の染みがついていた。輝名さん、とるうかはやっと彼の名前を呼ぶ。しかし口を開いたことでまた涙が溢れてきて、頬を伝ってぼたぼたと床を濡らした。
「随分と手酷い目に遭わされたものだな……るうか、辛いなら今は眠ってもいい。お前の身体の異常は必ず治してやるから、少し休め」
「だ……大丈夫、です。輝名さんも、疲れているんでしょう」
「おいおい、こんなときにまで他人を気遣うんじゃねぇよ。お前はいつもどこかで自分の存在に後ろめたさでも感じていやがるかのようだ。それでも構いやしねぇが、今はとにかく……自分の身体を考えろ。辛いなら休む。それは何も悪いことじゃあねぇぜ」
輝名の声がいつになく優しく響く。それはつまり、彼から見て今のるうかの状況が相当に苦痛に満ちて感じられるということなのだろう。るうか自身も自分の身体がどれだけ傷んでいるかは分かっていた。分かった上で、今何ができるのかを考えなければならない。今何をすることが最も良い選択なのかを考えなければならない。それは今のるうかにとっては荷の重い思考だったが、失った少女の温もりを思えばここで簡単に諦めてしまうわけにはいかなかった。
「行きます……きっと、柚木さんのところになら聖者の血があると思います」
「場所はお前が分かるか?」
「一応」
「よし、分かった。侑衣、悪いがもう少し付き合ってもらうぜ」
そう言って輝名はドアのところで待機していた侑衣へと視線を投げる。侑衣は硬い表情ながらもしっかりと頷きを返した。
壁にもたれかかるような格好で床に崩れ落ちた阿也乃は項垂れたままぴくりとも動かない。まさか死んだわけではないだろうが、るうかは少しばかり気になって彼女の方を見る。そしてその口元が笑みの形に歪んでいないことを確かめると詰めていた息を少しだけ吐き出した。大丈夫だ、と輝名は言う。
「あいつ自身は大した力も持ってねぇ、ただの人に過ぎない。問題なのはあの無駄にねじくれた根性とそれに見合った無駄な知能だが、基本的には体力のねぇインテリだ。それを補う緑色の魔術師が傍にいない以上、あれは放っておいていい。どうせ今のルール違反で一時的にしろ“一世”としての権限は全て停止扱いになっている。あれにできることはねぇ」
「……」
確かに阿也乃自身は小柄で体力もあまりないように見える。緑がその辺りを一手に担っていたというのは頷ける話だったが、ならばその緑は一体今どこで何をしているのだろうか。気がかりは尽きない。
そしてるうかにはもうひとつ懸念があった。佐保里のことである。るうかがそれを訴えると、輝名は静かに顔をしかめた。
「侑衣からも聞いている。紫色の魔女のご高説はこの学校の放送設備を通して流されたんだろう。だったら、と思ってある程度探ってみたが、どうやら奴はもうここにはいないようだ」
「佐保里さんは、まだ何かするつもりなんでしょうか……柚木さんは、佐保里さんが浅海さんを裏切ったと言っていました」
「それが真実かは分からねぇが、妙な動きをしているのは間違いねぇな。浅海佐保里の考えは今のところ俺にも全く読めねぇ。だが本人がここにいない以上、探る手立ても時間もねぇ」
輝名の言葉はいちいちもっともだった。るうかは頷きながらそれを聞き、それでもどこかで佐保里のことを考える。阿也乃が言っていたように、彼女はるうかと出会ったことで何か考えを変えたのだろうか。
「ほら、行くぜ」
輝名がそう言ってるうかへと右手を差し伸べた、そのときだった。
壁際の阿也乃が音もなく目を開けて身体を起こし、その手に持ったままだった小型拳銃を構える。危ない、と侑衣が叫んだ。るうかはその声に反応して阿也乃へと視線を向けていた。そしてその視界が学校指定のブレザーの色で占められ、乾いた発砲音と衝撃がるうかの耳へ、身体へと伝わる。
「てめぇ!」
叫んだ輝名が何かするより早く、阿也乃はけたたましい笑い声を立てながら霞のようにその場から姿を消した。転移魔法だろうか。それよりも重大なこととして、るうかの目の前には肩から血を流して呻く侑衣の姿があった。
「……っ! るうか、有磯さん、無事か……?」
「侑衣」
輝名は一度怒ったような声音で彼女の名を呼び、それから軽く頭を振って彼女の傍らに屈み込む。
「ああ、無事だ。お前のおかげでな。さすがは……俺の“左腕”だ」
「……そうか。不思議と身体が動いた。私の中にまだ勇者の記憶が少しは残っていたのかもしれない……」
侑衣はそう言うとほんの少しだけ笑って目を閉じた。すう、と息を吐き出したきりぴくりとも動かない彼女を見てるうかは焦る。輝名はそんなるうかを制して侑衣の脈を確かめた。彼の顔に浮かんだのは、安堵だった。
「気を失っているだけだ。……るうか、お前の細胞異形化は一応止めてある。悪いが侑衣を先に医者に預けに行かせてもらうぜ」
「……はい、そうしてください」
「こうなった以上出し惜しみもしていられねぇ。魔法で飛ぶからしっかり掴まっておけ」
輝名は言って、右手で侑衣の身体を抱えるようにした。るうかはそんな彼の胴に腕を回してしっかりとしがみつく。そうでもしないと途中で意識を失ってしまいそうだったからだ。輝名はるうかの半ば“天敵”のそれと化した腕に触れられてもひと欠片の動揺さえ見せなかった。るうかにとってはそれだけでもう充分にありがたく思えたのだった。
るうかと輝名、そして侑衣が去った後しばらくしてどたどたと乱暴に廊下を走る足音が響いてくる。凄惨な赤色だけが残された静かな教室のドアを蹴破って中に入ってきたのは黒髪を乱した頼成だった。彼は片手に携帯電話を、もう片方の手にいつぞやも使っていた軽機関銃を持ってその場に立ち尽くす。彼は一度天井を仰ぎ大きく息を吐くと、踵を返して教室から飛び出していった。
床を染める黒ずんだ赤には長身の彼が残した大きな靴跡だけが生々しく刻みつけられていた。
執筆日2014/06/23