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「私と心中するなんて、趣味悪いことをするのね」
苦しい息の下で少女が言う。2人きりで残された教室の中でその声はとても綺麗に響いた。るうかはくらくらする頭で少女の言葉を受け止め、本当にとんだことをしたものだと考える。どうして彼女を助けたいと思ったのか。いや、そのようなことを考えるより早く身体が動いていた。目の前で傷付く人間に対して、るうかは反射的に手を伸ばしてしまったのだ。まったく後先を考えない軽率な行動だった。
しかし今となってはそれもどうでもいいことだ。るうかは少女の身体を抱き締め、その柔らかなローブに顔を埋める。伝わる温もりに、怯えていた心が少しだけ解れていく。
「趣味、悪いかな」
「……人助けなら、悪いなんて言わないわよ。でもあなたのは無駄死によ」
「そうかも」
「それに私は……ここで“天敵”になって死んでも、本当には死なない。ただ私っていう夢を見なくなるだけ。でもあなたは違うわ。もうどこにも戻れなくなるのに」
少女の言葉を聞き、るうかはふうんと頷いた。
「そっか。あなたはこっちの世界の人なんだね」
「こっちの世界で生きた覚えはほとんどないわよ」
「ずっと夢を見ていたの?」
「そう。そうなのかしら。そうね、そういうことになるのね」
自分自身の言葉を確かめるように呟いた少女は、ぐもぐもとうごめく両腕を伸ばしてるうかの身体を抱き返す。
「あったかいわ」
「うん」
「どうしてあなたはそうやって、私みたいな人間に優しいことを言えるの?」
「優しいことなんて言っていないよ」
るうかは苦く笑って答える。るうかが口にしているのは優しさも憐れみもない、ただ心に浮かんだだけの言葉だ。そうなの、と頷いた少女は可笑しそうに声を立てて笑った。
「それがかえって嬉しいわ。ねえ、私はあなたに死んでほしくない。あなたは馬鹿だけどいつも一生懸命で、考えなしだけど勇敢だったわ。だから死んでしまうのね。それはまったく道理だと思うの。でもね、それでも私みたいな人間にとってあなたは」
ぎゅ、と少女はるうかにしがみつく。
「あなたは愚かだけれど救いなの。私みたいに世の中の役にも立たないでただずっとお金と設備と誰かの心を食い潰すだけの人間でもそのままの目で見てくれるから。私はここにいる……そう思わせてくれる」
「……あなたはここにいるし、こっちの世界のどこかにもいるんでしょ?」
「そうよ。でもその私は本当に私なのか……私にも分からない。そんな私なのよ」
少女の言葉はるうかの胸にしんと染み入る。彼女がどういった経緯で夢を見て、そしてテロ組織に身を置きここまで来たのか。それはるうかには分からない。しかしこのまだ中学生程度に見える少女がるうかの想像するよりも過酷な状況で生きているということだけは理解できた。るうかが彼女と同じ年頃であったとき、これほど切ない声で自身を語ることはできなかった。
「……あのね、赤の勇者」
少女が顔を上げてるうかを見た。その綺麗な青みがかった目がこれまでになく優しい笑みの形に細められる。
「大丈夫、だと思うわ。紫色の魔女が私達をここに連れてくるとき、最後にこっそりとこう言っていたの。私はあなた達を犠牲にするつもりはないです、って。確かに駒として使うけれど、それは本当に最後の手段としてだから……残酷な神々の遊戯を終わらせるための敢えての悪手だから、って。全部が終われば今の怒りや悲しみや苦しみはなくなるから、って……」
どこか夢みるようにうっとりと、それでいて半信半疑といった様子で少女は語りながら笑う。るうかは少女の言葉に耳を傾けながら、ぼうっとする頭で考える。最後の悪手とは一体どういうことだろうか。遊戯を終わらせるための一手となるとそれは勝ち負けを決める詰めの一手ということか。しかしそれを悪手だというなら、佐保里は敢えて鼠色の大神官が負けるような手を選んだということなのだろうか。
まさか、彼女は浅海柚橘葉を裏切ったとでもいうのだろうか。
「どういう、こと? 佐保里さんは一体何を……」
「こういうことさ」
ふふん、と人を小馬鹿にするような声と共にがつがつと耳触りな音が聞こえ、るうか達のいる教室のドアが外側から乱暴に開かれる。そして当然のような図々しさでそこに踏み込んできた長い灰色の髪を持つ薄汚れた白衣姿の女性がるうか達を見て楽しそうに目を細めた。
「いやいや、滑稽な格好だな。るうか、喜美香」
「……柚木さん。あなたなんですね、この子達の血を黒い蝶と同じようにしたのは」
るうかが言うと鈍色の大魔王・柚木阿也乃は眼鏡の奥の青い瞳に剣呑な光を宿しながら、にいと気色の悪い笑みを浮かべる。さあな、と彼女はしらばくれた。
「そんなことよりも重要なのは今のお前達の状況だろう? このまま仲良く“天敵”になって死ぬか。それとも俺に助けを請うか。選ばせてやろうじゃないか、なあるうか。俺は一度はお前の生命を助けた。信じて損はないはずだ」
阿也乃の言葉は聴き心地のいい毒の言葉だ。彼女の口から香るミントの匂いにくらりとしながら、るうかはうまく動かない首を必死に横へ振る。
「あなたの、何を信じるっていうんですか」
「それはお前の自由だ。どうせこのまま死ぬのなら、分の悪い賭けでも預けてみたらどうだ」
「あなたはそう言って、きっと何か酷いことをするんです」
「察しがいいな」
からからと楽しそうに声を上げて笑った阿也乃はるうかから視線を外すと少女へとその笑みを向けた。少女はびくりと身体を震わせて阿也乃を見上げる。その表情には明らかな怯えが見て取れた。
「喜美香、お前に最後の仕上げをしてもらおう。そう、お前が最後の駒になる。光栄に思うんだな」
「ど……どうして、鈍色の大魔王がここに……?」
「ああ、魔女は俺のことを明かさなかったか? そうか。なら教えてやろう。紫色の魔女・浅海佐保里は兄である大神官を裏切り、俺に取引を持ちかけたのさ。大神官の命でお前達をこの世界に送り込む手筈になっていることを漏らした上で、その企みを潰すようにしてくれと。つまり、この世界から希望を奪い尽くすように策を講じてくれとなあ。あの魔女の姿は滑稽だった。実に俺好みのいい壊れっぷりだ。元が綺麗で可愛い顔をしているからなお虐め甲斐がある。創造主を裏切り、盤面を敵であるはずの俺に託し、そうして存在意義を見失ったあの魔女の顔は本当に素晴らしい見ものだった」
饒舌に語る阿也乃に対してるうかは思わず大声を上げる。
「どうして……なんでそういう言い方をするんですか! あなたはそうやって、人が苦しむことをいつもいつも喜んで、たくさんの人を不幸にして……!」
「勘違いするなよ、るうか。あの魔女をああいう風にしたのはお前だ」
ごくり、とるうかの喉が鳴る。腕を這い上がる異物の感触が肩から首へと侵食してくる。
「私?」
「ああ。お前と知り合い、関わったことであの魔女は揺らいだ。お前のその強すぎる目が、意志が、運が、魂が、あの魔女を狂わせた」
「……」
「そんなお前を殺したことであの魔女はそれまでの自分を失ったのさ。その後はもう狂気に走るしかない。それまでにいた紫色の魔女は死んだも同然だ。今生きているように見えるあれはただの壊れた人形に過ぎない。お前がそうさせたんだ、るうか」
阿也乃の声がるうかの耳朶を噛むようないやらしさでその脳へと入り込んでいく。その声と異形化していく細胞の感触に苛まれ、るうかは苦痛のあまりに悲鳴を上げた。自分の声さえもが脳内でわんわんと反響してるうかから思考を奪っていく。彼女の手の先で震える腕が必死にるうかの身体を抱いている。
「しっかりして、しっかりしなさいよ! 赤の勇者! 私なんてどうなってもいいから、だから今からでも……あなただけでも逃げて!」
「そうはさせない」
冷ややかに阿也乃が告げた。その手にはいつの間にか1挺の小型拳銃が握られている。阿也乃は無表情にその銃口を少女の額に押し当てた。
「さあ、お喋りの時間はここまでだ。喜美香、お前はここで俺の手によって殺され、その血によって“天敵”となる。そうして目の前にいるるうかを食う。紫色の魔女がどんな甘言を使ったかは知らないが、俺が取る手段はそれだけだ。元々俺はるうかがとにかく目障りでならなかったのさ。頼成だけでなく佐羽までがこいつに影響されて狂っていく。るうかこそが諸悪の根源さ」
「……そう。あなたからすればそうなんでしょうね」
少女は額の銃口にも怯むことなく阿也乃を睨みつけていた。そんな彼女を見て阿也乃はますます不快そうに顔を歪める。
「ああ、お前もるうかに弄ばれて狂わされたクチか。くだらない」
「そうかもしれないわね。でもそれで良かったの」
そう言って少女は目を閉じる。阿也乃はためらいなく引き金を引いた。
執筆日2014/06/23