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「何やってるの!?」
るうかは咄嗟に叫んで少女からナイフを奪うと、鮮血を溢れさせる傷を生の手で強く圧迫する。傷は深い。掌の下でどくどくと脈打つ少女の血管を感じながら、るうかは少女の顔を見た。そして驚く。
少女はとても嫌らしい笑みを浮かべていた。まるではかりごとがうまくいったことを喜ぶ悪人のような、そんな歪んだ笑顔でるうかを嘲笑っていた。るうかの手の下で少女の血管が脈打つ。それに同調するかのように、るうかの手の皮膚を通して何かがどくんどくんと内部に侵入してくる。そのような感覚がるうかの手に伝わってくる。
「あなたは」
るうかは恐る恐る口を開いた。しかし彼女と少女が言葉を交わすより早く、スピーカーが佐保里の声を伝えてくる。
『さて、校内の皆さん。これからあなた方のところへ数人のテロリストが訪れます。彼らはあなた方に危害を加えることはありません。自爆テロ、というものをご存知ですね? それと近いものを想像してくださって結構です。けれども彼らは自らあなた方に危害を加えることはありません。あなた方が彼らに近付きさえしなければ、全ては失敗に終わるのです』
るうかの手の甲がぐもり、と奇妙にねじ曲がって盛り上がる。それでも彼女は少女の腕の傷を押さえ続ける。少女が少しだけ顔をしかめてるうかから視線を逸らす。
『彼らは自ら死を選びます。あなた方はただ見ているだけでいいのです。彼らの最期を見届けてください。溢れる鮮血と、もがき苦しむその姿と、おぞましく変わっていくその容貌を目に焼き付けてください。もしもあなた方が彼らに対して一欠片の慈悲を持ってそれを救いたいと手を差し伸べたなら、あなた方は彼らと運命を共にすることになります』
「……なんてことを」
るうかは脈打つ手の感触と、その下にある少女の腕から伝わってくるやはり異様な感触に顔を歪めながら絞り出すように言う。
「どうして、こんなに残酷なことができるんですか」
『彼らの血に触れてはなりません。彼らの血は外を舞う黒い蝶の鱗粉と同じ性質を持っています。これは我々の成果であり、我々が取りうる最後の手です。人間を以て人間を“天敵”へと至らしめる。それを知ってしまったあなた方のうち何人が彼らを救おうと手を伸ばすでしょうか? 勇敢な者ほど自ら死へと近付いていきます。多くの臆病な方々、どうぞ離れて見ていてください。憐れな人間爆弾がその身を化け物へと変える様子を。そして愚かにも彼らを救おうと駆け寄った勇気ある知人が同じように人を食らう化け物に成り下がってしまうまでの経過を。そのときに感じた思いが正解となり、この世界を元の平和な日々へと引き戻してくれることでしょう。それでは、良い終末を』
ぷつっ、と音を立てて佐保里の声が途切れる。間の抜けたチャイム音が鳴って、放送の終了を告げた。どこからか悲鳴と怒号が聞こえ始める。
「嫌あぁ! るーか、るーか! 今すぐ離れっ……」
るうかの背中から理紗の叫び声が響き、しかしそれは途中で鼻水混じりのすすり泣きへと変わる。彼女はるうかが自分の言葉で動かないことを知っているのだ。
「これが、浅海さんの最後の手なの」
るうかは理紗の声を背にそう呟き、目の前の少女を見る。彼女はるうかから目を逸らしたまま静かに泣いていた。痛みとおぞましさに顔を歪め、その綺麗な青みがかった瞳から音もなく雫を落し続けていた。
ぐにゅ、ぶちゅ、と音を立てて少女の傷口から赤黒い肉の塊が新たに生まれてはその薄桃色の皮膚を食い破って広がっていく。るうかの手も同様にるうかのものではない別の肉へと置き換わっていく。るうかはほとんど止血の意味をなしていない手を、そうと知っていてなお少女の腕に押し当てたままでいた。
心中したいの、と少女がそっぽを向いたまま問う。
「離れれば、まだ、助かるかもしれないわ」
「そうかも」
るうかは頷き、少女の左腕を握り締める。
「でも、離さないよ」
「……どうして?」
少女がるうかを見た。その拍子に零れた涙をるうかは空いた片手で受け止める。
「あなたを繋いでおかないと。あなたが“天敵”になったら、みんなを食べるでしょう? それは困る」
「どうして困るの。自分が死ぬよりいいじゃないの」
「私は嫌」
「自分が死んだ方がましって言うなら、それこそ大馬鹿よ」
「そうだね。それも嫌」
「呆れた。わがまま、傲慢、思い上がり。あなたはもう、勇者でも何でもないのに」
どうして。少女の呟きが涙と共に床に落ちる。るうかはそれをぼんやりと視界に収めながら、そっと背後を窺った。生徒達の呆気に取られた様子と、理紗の泣き声。それに紛れるように静稀が小さな声で祝を呼んだ。
「桂木、私達に何かできることはある?」
冷ややかとも取れるほどに落ち着いた彼女の声に、祝は何を感じただろうか。そして彼は少し考えてから生徒達に教室から出るよう促した。
「どこか、テロリストのいない場所に立てこもれ。ドアにはバリケード、椅子でも机でも教卓でもとにかく積み上げろ、外から開けさせるな。あとは万が一黒い蝶を放たれると余計に面倒だ。できるなら目張りもして、とにかく時間が過ぎるのを待て!」
祝の凛とした声に導かれるように生徒達は駆け足で教室から出ていった。るうかはそれを見ながらほう、と一息つく。少女が呻き声を上げる。
「う、くぅ……」
「大丈夫?」
るうかは尋ね、少女の腕を押さえていない方の手で彼女の頭をそっと撫でた。苦しいでしょ、とるうかが言うと少女は涙をいっぱいに溜めた目でるうかを見上げる。
「どうしてそんなことを言うの」
「分かるから。すごく嫌な感触だよね、自分の身体の中に何か別の生き物がいるみたいで」
「……」
「あなた達の血を黒い蝶と同じ効果を持つものに作り替えたのは誰?」
「……え?」
るうかの問い掛けに少女はきょとんと目を瞬かせた。まだ教室に残っていた祝がるうかに向かって叫ぶ。
「舞場! お前も逃げろ……!」
「桂木くん、私のブレザーのポケットに携帯が入っているから、それで落石さんに状況を伝えて。あと、理紗ちゃんと静稀ちゃんをお願い」
祝と同様に教室に残っていた2人の友人に向けて、るうかはにこりと笑ってみせた。2人は何も言わずに祝を睨むように見る。祝はゆっくりとした足取りでるうかに近付くと、飛び散った血に触れないように細心の注意を払いながらそのポケットの中にある赤い携帯電話を抜き取った。
「……舞場」
「落石さんの番号は発信履歴からすぐに掛けられるから。それしか思いつかないんだ。どうすればいいのか、私にも分からなくて」
「あれはいいのか?」
「あれ?」
聞き返したるうかに祝はどこか忌々しそうな調子でその名を口にする。
「青の聖者、槍昔頼成」
「……」
るうかは何も言えずに俯く。本当は今、ひどく心細い。このまま“天敵”になって死んでしまうのではないかという恐怖が腹の底からるうかを蝕んでいる。それでも少女の左腕を離すことができないのは、彼女もまた同じ恐怖の只中にあると感じているためだ。少女を1人にはできなかった。
「桂木くん……掛かるか分からないけど、頼成さんに掛けてみてもらえる?」
ぽつり、と呟くように言ったるうかの耳に押し当てられる携帯電話。しかし呼び出しの音が鳴ることはなかった。電源が入っていないか電波の届かないところにあるらしい頼成の携帯電話にるうかの呼び掛けが通じることはなかったのだ。落胆と悲しさを噛み締めながらもるうかは祝に礼を言った。
「ありがとう」
「お前さ、本当、あんな男のどこが良かったわけ?」
祝は携帯電話を手に、怒りの混じった声で尋ねる。るうかは笑って、答えなかった。彼がこの非常事態の中で何をしているのかくらい簡単に想像がつくのだ。きっと彼は自分の身の危険も顧みずに法律違反ものの武器を駆使してこの街のどこかで戦っている。そしてそれはるうかにとって決して腹立たしい想像ではないのだった。
自分にできないことを、るうか自身がどれだけ望んでもできないことを彼がしてくれる。それだけで充分、とは言えないものの不満はなかった。るうかは微笑んで祝に告げる。
「いいんだよ、それで。私はそういう頼成さんも好きだから」
「……舞場、お前な」
「早く落石さんに連絡して。佐保里さんがここにいることも伝えて。佐保里さん達がどうやって校舎の中に入ってきたのかとか、色々気になるところはあるけど……とにかくここを狙ってきたってことは間違いないよ」
るうかの言葉に祝も頷き、素早く携帯電話を操作してそれを耳に当てる。るうかはそんな祝に廊下に出るよう頼んだ。
「もう、駄目かもしれないから」
るうかの手の甲から広がった赤黒い肉塊が汚泥のようにどろりと溶けてその腕を這い上がっていく。細胞が異形化していく速度が上がっている。血液の一部も“天敵”の細胞へと置き換わっていっているのだろう。目の前が暗くなり、眠気がるうかを襲う。るうかに腕を掴まれた少女もまた苦しそうに喘ぎながら上半身を不自然に蠕動させていた。早く、とるうかは祝に言う。
祝は携帯電話を耳に当てたまま何も言わずに素早く教室から出ていった。直後、彼の怒鳴る声が廊下から教室の中へと響いてくる。
「黄の魔王、落石佐羽!! 舞場が“天敵”になりかけている! 何とか……何とかしてくれ!」
頼む、と祝は泣きそうな声で叫んでいた。ごめんね、と呟いてるうかは苦しむ少女を両手でそっと抱き締めた。
執筆日2014/06/23