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「久し振りね。覚えていてくれたの?」
ローブをまとった少女はナイフを手にぎらつかせながらるうかに微笑みかける。その異常な光景に教室内の誰もが息を呑み、るうかはその気配を背中に感じながら少女に対して頷きを返す。
「忘れられない。まだ夏になる前のことだったね。あなたはとてもひどいことをした。神官さん達を“天敵”にして、頼成さんを刺した」
「そう。でもあなた達は私を庇った。馬鹿じゃないのと思ったわ」
少女は溜め息をついてるうかから視線を逸らすが、彼女の手にあるナイフの切っ先は真っ直ぐにるうかへと向けられたままだ。まるでそうしないと話すことができないかように、彼女はナイフをその場に保ったまま口を開く。
「見ていたのよ、私。あなたの最期。本当に、馬鹿じゃないのと思ったわ」
「……」
「黄の魔王の仲間って散々罵られて、それでも都を守るって戦って、ぼろぼろになった身体で勇者としての寿命を迎えて、肉の塊の化け物になって、その姿でさえも生きられなくて、死んで。あなた、一体何がしたかったのよ」
少女の言葉のひとつひとつがナイフよりも鋭くるうかの胸に突き刺さる。彼女の言う通りだ。るうかはあの夢の世界で一体何をしたかったのか。一体何をできる気でいたのか。しかし、それでもまだるうかの心にはそこで経験したことが残っている。そこで感じた思いが、出会った人々との記憶が、るうかに前を向かせる。
「馬鹿でもよかった。何もできないより、何もしないより、ずっとよかったよ」
「アッシュナークはもう都なんかじゃないわよ。神官だって散り散りになって、あの世界の人々はこれまでにないくらいの絶望を感じているはず。いい気味よ。ずっと治癒術に頼って、神官や呪われた治癒術師を犠牲にして、そうやって安心して暮らしてきたことの方がおかしかったのよ」
「あなたは前にも同じことを言っていたね」
るうかはふと思い付いて、彼女に尋ねる。
「ねえ、どうしてそう思うの? 何か理由とか、きっかけがあったの?」
すると少女は大きな目を丸く見開いた。まるでとんでもなく突拍子もないことを言われたかのようにぽかんと口を開け、彼女は首を傾げる。少女の頭を覆っていたフードがずれて、中から緩く波打つ髪の束が零れ落ちた。それはピンクがかった金茶色で、るうかはその美しい色に束の間見とれる。少女はるうかの視線に気付くとすぐに髪をフードの中にしまい込んだ。確か以前大神殿で出会ったときにはこれほど目立つ髪色ではなかったはずなのだが、どういうことなのだろうか。
「あの」
取り敢えず声を掛けたるうかに対して少女はふいと横を向きながら口を開く。
「理由とか、きっかけとか、どうしてそんなことをあなたに話さなきゃならないの」
「気になったから」
るうかは素直にそう答えたが、あまりに端的すぎたかと思って改めてこう答える。
「あなたのことを知りたいと思ったからだよ」
「え……」
少女の青みがかった瞳が揺れて、再び零れた髪の束が安い蛍光灯の光の下で作り物めいた光沢を放つ。しかしそれが作り物などではないことは、るうかにはすぐに分かった。どうしてかは分からないが、そう直感したのだ。少女はふっと口元を歪める。
「この期に及んで、まだそんなお人好しなことを言っているのね。本当に呆れたわ」
「お人好しで言っているわけじゃないよ。あなたがしたことはひどいことだと思っているから、どうしてなのか知りたい。どうしてそんなに治癒術を否定するの? 神官の人達を殺したり、都を滅ぼしたりするほどに治癒術を憎んでいるのはどうしてなの?」
ざわり、とるうかの背後で生徒達が気味悪そうにどよめく。少女はそんな彼らを一瞥すると、やはり呆れた様子でるうかを見た。
「あなたもここじゃすっかり異端ね」
「……それでも、できることはあるから」
「そうかもしれないわね。まったく、呑気に話なんてしていないで少しは警戒したらどうなのよ。せっかく乗り込んできたのに、やる気が削がれるじゃない」
少女は溜め息をつきながらナイフを揺らす。遊ぶように揺らめく切っ先を見るともなしに見ながら、るうかはもう一度彼女に尋ねた。
「ねえ、あなたのことを教えてよ」
「嫌。誰があなたなんかに教えるの。絶対に嫌」
ぎろり、と少女はるうかを睨んだ。その瞳に光るものを見てるうかは動揺する。青い瞳がるうかに向けて鋭く細められる。次の瞬間、少女は激昂と共にナイフを振りかざしていた。るうかは素早く身を屈めて攻撃を避けると、少女の背後に回り込んでその胴に腕を回す。
たとえ夢の中とはいえ、伊達に半年もの間勇者として戦ってきたわけではないのだ。勇者になる以前と比べてるうかの反射神経、反応速度は間違いなく向上している。抱えた少女の胴をぎゅうと締め付ければ、少女は苦しさに負けてナイフを取り落とした。それをすぐさま祝が拾う。
「物騒なガキだな。舞場、こいつが大神官代行の言っていたテロリスト一味なのか?」
「うん、そうだけど」
そうだけど、とるうかは少女の身体を締め上げながらどうにも腑に落ちないものを感じて彼女を見る。少女はもがくでもなくるうかの腕の中に収まっていた。その目からははらはらと止めどなく涙が流れている。その様子を見た祝が率直な感想を口にした。
「……とてもそうは見えねぇ」
「だよね」
るうかも彼の意見に同意し、それに対して少女が1人「私は確かにテロリストよ」と口先を尖らせる。しかしその言葉に覇気はなく、そのため説得力もまたほとんどないのだった。
「本当よ。でも純粋な暴力で戦えるような身体はしていないから、他の手を使うことになったの」
「他の手?」
るうかが訝しみながら問い掛けたそのとき、緊張感を削ぐように校内放送のチャイムが鳴った。しばしの沈黙と少しのノイズの後、こほんという軽い咳払いが聞こえる。るうかは思わず耳をそばだてた。
『皆さん、こんにちは。今日はとても良い天気ですね。窓の外の蝶の群れをご覧になりましたか? とても美しく、おぞましい光景です。我々は名もなきテロ集団であり、この世界に最後の希望をもたらすためにやってきました。さあ皆さん、覚悟はいいですか?』
「……この声、佐保里さんっ」
るうかが叫ぶと彼女の腕の中の少女がふふっと笑う。
「始まるわ」
「今回も佐保里さんが指揮を執っているんだ」
「紫色の魔女はそういう役割らしいわ。この世界を選ばせるためにどんな手段をも使うって、そう言って笑っていたわよ。あなたのことを話しながら」
「私のこと?」
そう、と少女は頷いた。教室のスピーカーから佐保里の声が聞こえる。
『夢を知る方にはすでに周知のことと思いますけれど、あれはとても危険なものです。あの蝶に触れると人間はやがて人間であったことさえ忘れて人間を食べる化け物へと変わってしまいます。それを見たことのない人は幸福です。そして本来、この世界にはその化け物は存在しません。だからこそ知ってください』
佐保里はまるで用意された台本通りに堂々と演じ切る役者のように、大袈裟に、そして見事に心揺さぶる音律で校舎内にいる者達へと語り掛ける。
『“天敵”のいないこの世界がいかに素晴らしいか。毎日が退屈ですか? 受験勉強に疲れていますか? 友人関係に悩んでいますか? 部活の成績が思うように伸びなくて苛々していますか? 試験の度に点数を見ては項垂れているのですか? それでも、食う食われるの瀬戸際に叩き出されるよりは幾分かましだとは思えませんか?』
「随分と幼稚な文句だな」
祝が少女のナイフを手にしたまま肩をすくめてそう呟く。「大神官代行の言い草の方がまだ説得力があった」と彼は言うが、るうかから見ればそれはあくまで向こうの世界で生まれ育った祝だからこそ言える言葉であるように思われる。
“天敵”はこれ以上ない脅威だ。この世界は比較的安全で、日々は単調に過ぎる。大きな目で見れば人生にはいくつもの挫折や困難、自力ではどうにもならない運命の罠があるのだろう。しかし、それでも“天敵”に怯えることなく毎日を何となく過ごしていくことのできるこの世界は平和だ。
そしてそれが当たり前だと思っていた。いや当たり前であることにすら気付いていなかったこの世界の人々が突然“天敵”の脅威に晒されれば、彼らは混乱の中で自然と向こうの世界を拒絶する方へと傾くのだろう。たとえこの世界を憂いていても、毎日に飽いていても、生存欲求が思想を押し付けて浮かび上がってくる。それが佐保里の、いや鼠色の大神官・浅海柚橘葉の狙いだろう。
るうかの腕に自然と力がこもる。すると少女が痛そうに顔をしかめて身じろぎした。思わず、るうかは腕の力を緩めてしまう。次の瞬間、拘束をすり抜けた少女がフードの内側から隠し持っていたナイフを取り出し、そのぎらりと光る刃を力いっぱいに突き立てた。
少女自身の左腕に。
執筆日2014/06/23