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同じ夜の夢は覚めない 5  作者: 雪山ユウグレ
序章 紫色の魔女と花の種
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序章

 私は何者なのか。あの子と言葉を交わすうちにそんな疑問が湧いてきて、いつの間にか私は元の私ではなくなっていました。私を形成する緻密な文字列が変化していくことを怖いと思った私は、兄にそれを相談しました。すると兄は私の言葉を一笑に付してこう言いました。


「一度組み上げられたものが勝手に書き換わるはずがないでしょう。あなたのそれは妄想に過ぎません。赤の勇者の世迷言にでも影響されたのでしょうが、それも一時のことです。安心なさい。貴女は私と共に勝利し、この世界を選んだ人々を見守りながら幸福な暮らしを送ることができます。もうじきにその日がやってきます。この曖昧で退屈でそれが許されている世界で、貴女はこれまでの罪から解放されて本当に笑うことができるでしょう。今まで本当にご苦労様でした」


 兄はとても上機嫌でした。私はその兄の顔を見ながら、その優しく温和な顔を見ながら、世にこれほど醜いものがあろうかという戦慄に震えていました。私がこれまで付き従ってきた男はこれほどに愚かだったというのでしょうか。それなら私がこれまでにしてきたことは、やはり愚かであったということになります。愚か者が寄ってたかって何をしていたのかといえば、誰かを不幸にするようなことばかり。

 いいえ、私は別に構わないんですよ。誰を不幸にしようが、誰が泣こうが、私の心は痛みません。そんな善良な人間ではないですし、そもそも私は。

 でも、あの子はそれを嘆くでしょう。嘆くだけでなく、他者を救おうと奔走するのでしょう。それで彼女自身が何を失うのか、それを知っていてなお奔るあの子は美しかったんです。兄とはまるで正反対で。


 私は失意を抱きながら兄の研究室を出て、メインストリートを北へ向かって歩き出しました。ひとつ確かめたいことがあったんです。私より先に、今の私と同じように疑問を持っていただろう緑色の彼に。

 彼は私の疑問に答えることができるでしょうか? 私達が何者で、この世界で何ができるのかを知っているでしょうか? 私に欲しい言葉をくれるでしょうか。

 工学部の敷地の奥まった一角に、周囲の木々に紛れるような塗装を施された奇妙な建物があります。単純な迷彩というだけでなく実際に人間の目にはあまり見えないように隔離された特殊な場所で、私の兄ですらいつの間に自分の管理する領域にその建物ができていたのかまるで気付かなかったそうです。彼の干渉能力は兄が想像するより遥かに高かった。そういうことなんでしょう。

 その時点で兄は鈍色の大魔王に負けているような気がします。言ったら怒るでしょうね。


 私が訪ねていくと、中には緑色の魔術師……いいえ、春国大学工学院情報科学科修士過程2年生の西浜緑くんがいました。彼はにこやかに私を迎えて、「やあ」なんて気楽な調子で挨拶をしてくれました。私も思わず微笑んで会釈します。


「いらっしゃい、佐保里さん。今日は授業はもう終わりなのかい?」


 学生ぶった態度でそんなことを言う彼に、私は単刀直入に切り出しました。私達のこと、そして私自身の変化についての疑問です。すると彼は手元でしていた何かの作業を止めて私の方を見ました。それから「ついておいで」と私を建物の奥へと案内しました。道すがら、彼は私の質問に答えます。


「どんなに完璧に組んだつもりのプログラムだって、実際に実行してみれば不具合が起こることはよくあるよ。だから僕達が疑問を持つことも不思議じゃない。ただ、僕はそれを不具合だとは思っていないんだ」


 そうやって語る彼の横顔は少し嬉しそうで、少し切なそうで、でもとっても幸せそうに見えました。


「僕はね、佐保里さん。僕が僕で良かったって、心からそう思っているんだ」


 心、というナンセンスな単語に私の胸は一瞬ざわりとして、むしろそこに心が存在していることを主張します。心とは人間の脳が作り出し、その身体によって体現されるものではないでしょうか。では、私達の心とは一体何でしょうか。


「僕はずっと変わらない誓いを持ってここにいる。それは僕の“一世”と“一世”の世界を守ること。阿也乃と阿也乃の世界を守ること。でもそれ以外の枷は僕にはない。誰を好きになってもいいし、誰を守ってもいい。阿也乃を守ることを忘れさえしなければ、それは永遠に僕であり続ける。多分、君にもあるんだと思うよ。君が君であることを決定づける何かひとつのものが」


 そんなことを言われて私は戸惑いました。私が私であることを決定づけるもの、それが何であるのか私には想像もつきません。どうして彼はそれほどはっきりと自分の存在を証明できるんでしょうか。私達はただの、ただの文字列の具現化に過ぎないのに。

 いつのまにか私は彼に連れられて建物の最深部にいました。そこにはまるでこの世界のサーバシステムのような球体がいくつもあって、中央には立体映像のコアが映し出されているのでした。まさか、彼は勝手にこんなものをここに作っていたというのですか。


「そう、勝手に作っちゃった。僕には守りたいものがあるから、そのために研究する場所が必要だったんだ。多分間に合ったんだと思う。ただ仮想システム上でしか動かしていないから、実際に望んだ効果が得られるかは分からないんだけどね」


 そう言いながら彼は端末を操作してコアの表面にひとつの画像データを表示させます。それは先の尖った楕円形をしていて、まるで何か植物の種子のように見えました。工学部の彼が研究するにはちょっと畑違いのものです。彼はその映像を私に見せながら語ります。


「佐保里さんも白銀花の伝説は知っているでしょう? あれって世界から逃れるための非常避難システムなんだよ。ネグノスは入口こそ向こうの世界にあるけれど、実際には少しずれた位相にある。あのシステム、面白いと思ったんだ」


 西浜さんがあまりに楽しそうに言うので私は呆れました。ネグノスの里のことは知っていますけれど、あそこはそんな笑顔で話題にしていい場所ではないでしょう。穏やかで悲しいあの場所は悲劇を和らげてくれるところですけれど、それをなくしてはくれないのです。ただ苦しみのない静かな涙と優しい風に満たされた、儚い夢のような場所です。

 だというのに、彼はそこから何かを思いついたようでした。私では思いつくことのできなかったそれを、彼は惜しむことなく私に教えてくれました。それは私の心を強く揺り動かす計画でした。

 そんなことができるのか、と私は逸る鼓動を抑えながら彼に尋ねました。


「僕達にはできないよ」


 彼は笑いながら答えて、私の顔を見てとても優しい表情をしました。信じられません。私と同じはずなのに、どうしてそんなに優しく微笑むことができるんでしょうか。それほど緻密な表情筋の動きが……いいえ、心の動きができるほどのスペックを搭載されているのだとしたら、私は決して彼に敵わないでしょう。私はそんなに綺麗に笑えないんです。


「でも僕達には、希望を託せる相手がいる。ねぇ佐保里さん、君ももう分かっているんでしょう?」


 西浜くんの優しい笑顔と、低く囁くような声が私の中を通り抜けてその通り道にある文字列に影響を及ぼしていきます。私はようやく知りました。私達の文字列は実は常に書き換わっていたんです。それはこの世界に適応するために必要な成長というプログラムで、それがあるからこそ私達は毎日の積み重ねから色々なことを学び、活かすことができていたんです。

 それが私達の心といえる思い……思いと呼べる思考の方向性を少しずつ変化させていたとしても何ら不思議はありませんでした。

 西浜くんが私に綺麗な黄色のハンカチを差し出して、困ったように微笑みます。


「ほら、涙を拭いて。大丈夫だよ、僕達はもう素晴らしい出会いをしているんだ。希望の種はここにある。あとはそれをちゃんと彼らに託すだけでいいんだ」


 涙。私は黒く偽った目から流れる雫を黄色いハンカチで拭いながら情けない声で彼に訴えました。そのあとはどうなるのかと。私達はきっと見届けられないでしょう。それでいいのかと尋ねると、彼はやっぱりとても綺麗に笑って、声まで立てて笑ったのでした。


「いいんだよ。だって僕達は人間じゃないし、この世界で生きる意味もじきになくなるんだから。そのあとのことはそのあとの世界を生きるみんなが考えていくしかない。僕達にできることは、残したいものを残してそのあとを信じる誰かに任せる。ただそれだけのことだよ」


 それでいいんでしょうか。……いいんでしょうね。西浜くんは、それで満たされるだけのものを持っているんですね。

 私は駄目です。私はまだです。まだ足りない。

 この世界に対して、あの子達に対して、まだまだたくさんの未練があります。そう、未練です。私みたいなものが感じるそれをそう呼んでいいのかどうかは分かりませんけど、私は私の未練のために動いたっていいはずです。だって、それは兄に反することではないんですから。


 ありがとう、と告げて私は西浜くんの研究所を後にしました。さあ、私は私のしたいことをするために出発しましょう。未来に咲く花の種がそこにあることを心に留めながら。

執筆日2014/05/21

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