小夏。
この度めでたく姪っ子の小夏を預かることになったのは、
俺の姉が仕事で三日ほど海外に行くためだ。
姉はシングルマザーになることを選んだ時に、
両親、主に親父とは胸ぐらを掴み合うほどの大喧嘩をした。
「あんた達に孫は抱かせない!」という台詞は最悪にまずく、
それに対して
「娘でもないんだから、孫でもない!」の買い言葉がとどめとなった。
なので、ウチの両親は未だに孫娘の顔を写真でしか見たことがない。
その写真すら姉からうちに届く年賀状を、俺が実家に持ち帰ったものだ。
それを大事に写真立てに入れたものが毎年実家のタンスの上に増えていく。
その関係は月日が経った分だけややこしい具合にもつれているが、
もつれているならほどけばいい話で、どちらかがごめんなさいすれば、
あとはお約束の感動ドキュメンタリーが待っているのは明白なのだが、
なのだがというところから先に進まない。
だからと言って小夏を預かることをうちが迷惑に思う理由があるはずもなく、
なにより今の俺達にはこの上ないご褒美に思えた。
駅からダッシュで家に帰り、リビングのドアを開ける。
「おかえりなさい。ロリ叔父さん」
開口一番の妻の一言にその場で膝をつく。
「いや、軽いジョークなんだけど」
「もう何て言うか、ここまでで蓄積されてきたものが一気に膝に来たよ」
「いいじゃん。ジャムおじさんみたいでかわいいじゃん」
そう言ったのはサチではなく、
テーブルに肘をついてスーツのスカートに上はキャミ一丁と、
だらしない格好をした三十路女だ。
「姉ちゃん、ひとん家でその格好はないだろ」
「チーズがバタコさん舐めてると、あ、バター犬だって思うよね」
「思わないし。話聞けよ」
そんな姉は目の前のグラスを無視して、缶ビールを直飲みしている。
「自分の家でもいつもそんな恰好してんのか?」
ネクタイを緩めながら姉に訊ねる。
「いや、家ではスカートすら穿いてない」
「子供の教育上どうよそれ」
「脱いだものは小夏がきちんとハンガーにかけてくれるよ」
「もういい。で、その小夏は?」
「ん」
そう言って姉が顎を突き出した方を見ると、
ソファの上ですやすや眠る姪っ子の姿があった。
「ちょっと前まで起きてたんだけどね。ここまで来るのに電車混んでたから少し疲れたみたい」
「タクシー使えよ」
「お前、うちの家からここまでタクシー乗ったらいくらすると思ってんだよ」
「毎日乗るわけじゃあるまいしケチくさいこと言うなよ。かわいそうに」
「お前はきっとダメな親になる」
「姉ちゃんにだけは言われたくないわ」
「でも、こなちゃんかわいいですね」
そう言ったサチはソファーの前に跪いて、小夏の寝顔を眺めている。
「ああ、まあ私でも寝顔を見てる時は天使だと思うけど、起きてると生意気だし、小憎たらしいことこの上ないから」
「そんなことないでしょ。こなちゃん素直でかわいいじゃないですか」
「さっちん、それいつのデータ?」
「お正月にも会いましたよ?」
「お年玉もらえるなら一日、らしく振舞うことぐらい簡単にするからねそいつ。だから、私がいなくても何かあったら遠慮なくビシバシ怒っていいからね」
「無理」
俺とサチの声が声が重なる。我々はもうすでに天使の寝顔にやられている。
「まあうちのはさておき、もうそろそろだよね、どっちかわかるの」
「来月ですね」
「何が?」
ひとり乗り遅れた俺の質問にサチが答える。
「男の子か女の子か」
「え、そうなの?」
「そうだよ」
「知らなかったんだけど」
「言ってないから」
「俺お父さんなんだけど?」
「でも産むのは私だから」
そういう問題?
「で、教えてもらうの?」と再び姉がサチに振る。
「そうですね。やっぱり男の子と女の子じゃ出産まで妄想する内容も違いますしね」
「あ、服とかなら何人か友達に幼稚園児の親いるから、もらってきてあげるよ」
「いや、でも」
「いいのいいの。赤ちゃんってすぐ大きくなるから買ってもすぐ着られなくなるし、捨てらんないしで、皆押し入れで眠らせてるはずだから、逆にもらってあげると喜ぶよ」
「そうなんですか」と感心すると、「じゃあ、お願いします」と言ってサチが頭をさげる。
「で、さっちんは男の子と女の子ならどっちがいいの?」
「女の子」
「お前には訊いてない」
言葉を挟んだ俺を見ることなく姉が切り捨てる。
「私はもう待ちに待った子供なんで、元気に産まれてさえくれればってやつですよ」
「そっかぁ。そうだよねぇ。エロいくせに種無しな弟ですまんねぇ」
「俺のせいなのか?」
「間違いないよ。お前の精子弱そうだもん」
「弱そうって」
そこで小夏が、んんーと寝返りを打ち、
ソファから転げそうになるのをサチが慌てて受け止める。
「大丈夫よ。ウチのソファーからもしょっちゅう落ちてるから。痛けりゃ起きるし、眠けりゃそのままだし」
「そのままって」
「もう小四だからさ、毎回抱えてベッドまで運ぶのとかほんと無理なんだって」
姉とそんなやりとりをしながらも、
小夏の髪をやさしく撫でるサチの横顔を盗み見る。
目を細めて幸せそうな笑みを受かべるその顔に、
子供ができたら毎日これが見られるのかと思うと気持ちが和む。
「なに姪っ子見るふりしながら、自分の嫁に見とれてんのよ」
「ん? 雅也君もよしよししたろか?」
からかい気味にそう言うと、サチは空いた方の手で撫でる仕草をした。
「さっちゃんも乗っからなくていいの」
結局、小夏は起きないままだったが、
明日の朝が早いということで姉は帰っていった。
二階には夫婦の寝室以外に二つ部屋があるので、
その一室に布団を敷いて小夏を寝かせた。
がたんという大きな音で目を覚まして、
枕元で淡く光る数字を見ると夜中の二時をまわったところだった。
サチも目が覚めたようで、二人で寝室を出る。
廊下の明かりをつけると、階段の下で蹲ってる小夏の姿があった。
「あ、大丈夫だから」
こっちが声をかけるより先に、下から声があがってくる。
そう言われて、そっかおやすみで終わるはずもなく、
階段を降りて小夏を抱き上げると、サチが先回りしてリビングの明かりをつけ、救急箱を引っぱり出してくる。
「いや、本当に大丈夫だから、最後ちょっと踏み外しただけだし」
そう言った小夏の肘を見ると、わずかに血が滲んでいた。
「骨とかは?」と訊くと、大丈夫だってと答えた。
ホッと一安心したところで、
そのわずかな傷口にしたたるほどのマキロンをひたすら噴射する妻がいた。
「これ、傷跡残るかも……坂本医院なら急患だし開けてくれるよね」
「さっちゃん、落ち着いて」
そんなひと騒動があったところで、改めて小夏に訊ねる。
「小夏、何か下に用だったのか?」
「ああ、ちょっと喉がかわいただけ」
そう言った直後、きゅーっと腹の鳴る音がして、小夏が顔を赤くする。
それを見て俺が思わず笑おうとしたところで、
「ごめん」とサチが手を挙げる。「今私のお腹が鳴った」
「え?」
「何? 私のお腹がきゅーって鳴ったらおかしい?」
「いや、でも」
「私お腹空いたわ。こなちゃん、私今からお茶漬け食べるんだけど付き合ってくれる?」
「いいけど……」と小夏がすまして答える。
何だろこれ。
テーブルを挟んで俺とサチの向かいに小夏を座らせ、三人で茶漬けをすする。
「お茶漬けうまいな」
「フツー」
「フツーだよねぇ。こいつ大袈裟だよねぇ。海外帰りかっつぅの」とサチ。
「全力で俺をハブろうとすんなよ」
「おかわり」と小夏がサチに茶碗を差し出す。
「寝小便すんなよ」
「……セクハラ」
「セクハラね」
「我が家なのに居場所がない」
ちなみに小夏はそのあともう一杯おかわりをした。