ちょう。
風邪の症状が完全に引っ込んだ週末の朝。
自分で作ったぐずぐず気味のフレンチトーストにメイプルシロップをかけるかかけまいか迷っていると、
「今日は動物園に行きます!」と、サチが手を挙げて宣誓した。
「何、急に?」
いつも急な妻だけど。
「急じゃないよ。ちょっと前から行きたいなぁって考えてたんだよ」
「でも、俺は今初めて聞いた」
「何、それは迷惑ってこと?」
「わーい、やったー、動物園だぁー。ってこと」
「よし。じゃあ、動物園の好きなところ三つ述べよ」
いちいち突っ込むだけ無駄なので、すぐに考え始める。
「えと、動物がたくさんいます」
「当たり前ですね。動物園なんですから。他には?」
サチがそう言いながらフォークでこちらを指す。
少し考えて、「以上です」と俺は答える。
「ちょっと、そんなことじゃ飼育員の面接通らないよ?」
「受ける予定ないよ?」
休日だからか、小銭で入れる動物園は思っていたより混雑していた。
ゲートをくぐるなり、サチは園内マップを広げることもせずにサクサク歩いた。
「ねぇ、動物見ないの?」
「見るよ」
「見てないじゃん」
「見たい動物がいるんだよ」
そう言いながら歩く声が上下にはずむ。
今日はいつにも増して上機嫌なようで何よりだ。
「あっ」と言うとサチは急に駆けだした。
「あれだよ。あれ」
息を弾ませ、キリンの柵の手前で立ち止まると、サチが指さした。
一瞬キリンのことかと思ったが、キリンを指さすには角度が少し低い。
その方向を素直に辿ると、キリンを見ている黄色やピンクの帽子をかぶった園児の集団があった。
お父さんお母さんの手を離さないように歩きましょう、
と引率の先生の声が聞こえてくる。
「動物園にヒトを見に来るなんて斬新だね」
「かわいいものがかわいいものを愛でるぐらい、かわいいものはないからね」とサチはかわいいを連発した。
どうやら予め近所の幼稚園の行事掲示板に、今日の遠足予定を見つけていたらしい。
「いやぁ、これで通常料金とは動物園も太っ腹だよ」
「あれは動物園の管理動物じゃないから」
「ほら、見てよ雅也くん。男の子も女の子も足がスベスベなんだよ。あぁーもう、どっかにふれあいコーナー作ってくれないかな」
「さっちゃん、さっきから自分がギリギリの発言してるの気付いてる?」
それからも園児たちのあとを自然につけ回しながら動物園を巡っていると、
ある柵の前を園児たちが急に速足で通過しだした。
正確には同伴の親が、園児たちの背中を押して先を急がせてるわけだけど。
園児たちが過ぎ去ってからその柵の前に来て、二人で、ああ……となる。
カピバラのお父さんとお母さんが、繁殖行動の真っ最中だった。
何でお父さんお母さんってわかったかと言うと、
後ろに子供のカピバラたちがしっかりその光景を見つめていたからだ。
「すごいね。性教育行きとどいてるね」
「まったく表情が変わらないところがクールだよね」
「どう?」
「どう??」
サチの問いかけの意味がわからず、そのまま訊き返す。
「ムラムラしてきた?」
「これで気持ちが盛り上がったとしたら、俺はかなり際どい性癖の持ち主だよ」
昼になり、園児達が広場でお弁当を食べるのを眺めながら、
サチが作ったおにぎりをほお張る。
おいしい。
もしかしたら、他の動物のにおいを嗅ぎながら食事をするというのは、
生き物としてものすごく真っ当なことなんじゃないかと思った。
「そっかぁ。遠足ってお弁当用意するんだね。あと何だろ? おしぼりとか、敷き物とかかな」
サチは少し遠くにいる園児達を見ながら、真顔でそんなことを言う。
まさかあの子たちも動物を見に来て、自分たちが見られる側に回っているとは思いもしないだろう。
サチはひとつ目のおにぎりを半分ほど食べたところで、
「あのさぁ」と、ぽつりと呟いた。目線はまだ園児たちを見つめている。
「あのさぁ、雅也君さぁ」
「ん?」
「うん」
「何?」
「うん」
「え?」
「あのさぁ、良い知らせと悪い知らせがあるんだけど」
「……どっちから先に聞きたいって?」
「いや、言う順番は決まってる」
「そっか」
「ただね、どっちの頭にも超が付くんだ」
「ちょう?」
「超ウルトラとか超特急とかの超」
「ああ、うん」
「だからね、超覚悟して聞いて欲しい」
「わかった」
「うん」
そう言ったきり、次の言葉は続いては出てこなかった。
会話の間としては完全に途切れたころ、また「あのさ」とサチは言った。
「赤ちゃんできたよ」と。
頭の中でまず考えたのは、
「いったい、どの動物のことを話してるんだろう?」ということだった。
しばらくあって、そうじゃないと気付いて、サチの横顔を見る。
「うそ?」
「うそじゃない。ほんと」
「ほんと?」
「ほんと。うそじゃない」そう言うと、
「妊娠十週目」と付け加えた。
これは本当なんだろうなと思いながらも、
あまりにもあまりなタイミングなのと、当のサチが表情を変えず、
相変わらず遠くの園児を見つめているので、何となく茫然としてしまった。
「予定と違うんだけど」
サチがぼんやりと呟く。
「え?」
「予定ではここで、よくやったって、抱きしめてくれたりするんだけど」
「ああ、よくやった。偉い。すごく嬉しい」
そう言って抱きしめると、俺の胸に顔を埋めて「うん」とだけ言った。
しばらくそのままでいたが、園児達の目も気になるので、
いい加減腕を解こうとしたら、「まだ」と言われる。
「もう少しぎゅっとしてもらえるかな?」
言われるままに腕に力をこめる
「あのね」一呼吸置く。「私、がんなんだって」
サチの口から出たその音の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「うそ?」
「ほんと」
「うそ」
「困るよね。ほんと」
腕の中から聞こえてくるすすり泣く声に、だんだんと真実が固まっていく。
「なすすべもない」という言葉が頭の中にぽかんと浮かんだ。
それから、サチがポツポツと話したのは、
あの日の革靴の男は生命保険会社の人間だったこと。
がんは五年後の生存率が恐ろしく低いステージにあること。
産婦人科とがん治療と両方整った病院を紹介してもらっていること。
しばらくは両親にも黙っておくつもりだということ。
それから、
何で自分達にだけ授からないんだろうと思っていたこと。
自分達には関係ないと思っていたこと。
そのふたつが手をつないで一緒にやってきたこと。
それを残酷だと歯を食いしばって嘆いた。