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雪。

 たっぷり昔を振り返ったせいで、神様がもう十分だと勘違いしたのかも知れない。


 病院のパイプベッドの上のサチを見ながら俺はそんなことを思った。

 酸素マスクも点滴も、相変わらずの抗がん剤も、

 すべてその命をつなぐためにしていることだと理屈ではわかっても、

 その痛々しさに慣れることはない。


 痛いのも、恐いのも嫌いな妻がずっとそれに晒されている。

 そう思うと心臓が握りつぶされそうなほどにつらかった。

 体力はすっかり落ちてしまい、喋ることはほとんどなくなってしまった。


 着替えを取りに戻るからとサチに伝えると、何か言いたそうにするので、口元に耳を近付ける。


 大丈夫だから。家で休んで。


 ほとんど空気のような声でそう言った。


「休んでるって。明日は親父たちが杏を連れて来てくれるから」


 そう言ってやると、目一杯顔をほころばせる。


 家に帰ると、すぐに洗濯機を回し、持っていく着替えを用意する。

 乾燥機が止まるまでにシャワーを浴びる。

 夜になるまでに家を出たい。

 暗くなってしまうまでに。

 恐くなってしまう前に。


 無理して病院に泊まってるわけじゃない。

 さっちゃんのいない家は広過ぎて、どこにいればいいのかわかんないんだよ。


 病院のベッドで食事をするときに、肩が寒そうなので何か羽織れるものを探す。

 タンスの中には見つけられず、寝室のクローゼットを開けたところで俺は動けなくなった。


 いつからこうなってたんだろう。


 「雅也 ワイシャツ 肌着 夏」

 「雅也 Tシャツ お出かけ用 夏」

 「雅也 靴下 帽子 夏」


 積まれたクリアケースの正面にサチの字で書かれたシールがいちいち貼られてある。


 ひと目でわかるようになってあるそこには、サチの夏物はひとつもなかった。



 探しものはリビングのチェストの引き出しに入っていた。

 カーディガンを取り出し、引き出しを閉めようとして、

 畳まれた冬服の中に小さな菓子箱があるのを見つける。


 フタを持ち上げると、中にはビデオカメラで撮ったDVテープがきっちり詰まっていた。

 ラベルには「杏1歳」「杏2歳」と一巻ずつ書かれてあり、「杏20歳」まで続く。

 それが何を示すのかは確認しなくてもわかった。 


 まだ学生の頃、単館上映されているのを二人で観に行った映画の中に

 これと同じエピソードが出てくる。

 その映画はテープレコーダーだったが。

 確か、あの映画の主人公の名前もアンだ。


 ビデオカメラを買ったとき、杏の成長記録かと訊いて、サチがあいまいに返事をしたのを思い出す。

 これを観てしまったら、おそらく俺は完全に動けなくなるだろうと思い、 そのまま箱を元に戻した。

 今潰れるわけにはいかない。


 乾燥機の止まる音が聞こえる。

 俺は鼻の頭を強く押して、立ち上がった。



 病院に戻ろうと家を出ると、外は雪が散らついていた。


 あと一週間もすればクリスマスかと思い、ふと、去年のクリスマスを思い出す。

 キャロラインのかつらをかぶっていったらサチは怒るだろうか、笑うだろうか。

 想像して頬が緩む。



 駅の改札を前に財布を取り出そうとしたところで、携帯が鳴った。

 電話に出ると、看護士が病院名を名乗り、槙村幸の旦那かと確認を取ってきた。

 そして、落ち着いて聞いてくださいと前置きした。


 電話を切ると改札に背を向けて、ロータリーでタクシーを拾う。

 タクシーの中で、まずサチの実家に電話をかける。次にうちの親。

 どちらにも看護士から聞いたことをそのまま伝える。

 話す声が少し震えたが何とか手前で踏みとどまった。

 ここで自分が動揺したら、又聞きの向こうは更に混乱してしまう。


 姉は仕事中だろうと思ったが、メールを打つ気力はなく、

 メッセージだけ残そうと電話かけると2コールを待たずして電話口に出た。

 自分からかけておきながら、まさか出るとは思わず第一声に詰まると、

 何があった? と向こうから訊いてきた。

 仕事中かと訊き返すと、それをわかっててかけてきてんだから余計な気遣いはいい。

 そう言うとまた、何があった? と訊かれた。


 そんな姉の頼もしさに一旦気持ちを許すと、堪えていたもの全て漏れ出した。

 嗚咽しながら俺が声にできたのは「さっちゃんが」という言葉だけだったが、

 「とりあえず落ち着け。私もすぐ行くから」と言って姉は電話を切った。



 病室に入ると、中にいた看護士が状態を説明し部屋を出て行く。


 さっちゃんが苦しそうに息をしている。

 まだ生きてる。


 さっちゃん。


 呼びかけたら薄っすら目が開く。

 言葉は届く。

 まだ生きてる。


 手を握る。

 杏がもうすぐ来るからね。

 また、目が開く。


 楽にしてあげたいと思うのに、それが恐くて声をかけ続ける。

 まだ生きてる。

 まだ生きてる。

 まだ生きてる。



 ありがとう。


 意識が途切れる間際に口元がそう動いたように見えたのは、都合の良い錯覚だったのかも知れない。


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