杏。
四月に入って最初の週の木曜日の午後は、
早めに咲いた桜を散らさない程度の霧雨が降る、そんな日だった。
出産の立ち合いは、
「絶対見られたくない……」
ということで予め断られていた。
そのときはサチのどこか恥らう様子が少しかわいいなと思ったが、
今となってはその本当の理由がよくわかる。
陣痛が来て、サチが分娩室に入ってから五時間。
中からは叫び声に混じって聞こえてくるのは、
「死ぬ! 死ぬかも! これ絶対死ぬ!!」
「冗談じゃねぇぞ! 雅也こらぁーっ!」
「いい気なもんですなぁーおい!」
といった、人違いじゃないかしらと思うような妻の声と、
無駄な体力を使わせないために黙るように叱りつける助産婦さんの怒声だった。
サチの両親が十分おきぐらいに俺や俺の両親に頭をさげてきて、
毎回こちらもいえいえと頭を下げる。
「無事産まれるのをひたすら祈りながら待つ夫」という絵を想像していたが、
こんな気の遣い方をするとは思ってもみなかった。
それでも、今まで聞こえて来たものとはあきらかに違う新鮮な泣き声が響いたときには、
応援するサッカーチームの勝利を祝うサポーターのようにひとつになって喜んだ。
俺は背中をバンバン叩かれながら、決勝点を決めた選手のような気持ちだった。
「忘れて」
中に入るなり、産まれたばかりの我が子を抱いたサチが、
ぐったりと枯れた声でそう言った。
叫んでいたことを言っているのだとワンテンポ遅れて気付いて、
「忘れた」と返事した。
助産婦さんの手を通して我が子を受け取ると、
体中から愛情物質のようなものが分泌され、
それが涙となって目から溢れだす。
手も足も唇を全部小さいという当たり前のこと、
自分が父親になったということ、
その他諸々の感情が腹の底から湧き出て整理がつかない。
両手がふさがっているせいで、噴き出したものを拭うこともできずにいると、
助産婦さんが笑いながら拭いてくれた。
名前は予定通り『杏』と名付ける。
病気のことで授乳は無理だとあきらめていたが、
出産予定の一週間前から抗がん剤を一時的に止めていたので、
初乳だけあげられることになった。
四日間母乳を与え、それから小さな薬を飲んで断乳する。
そんな日曜日に姉が小夏を連れてお見舞へやってきた。
「ちっちゃーい! こな、見てみ。あんたもこんなだったんだよ」
抱きあげた杏を、姉ちゃんが小夏の目の前まで持っていく。
「私も抱きたい」
「いや、絶対無理。首座ってないし、あんた落とすから」
「落とさないって。たぶん」
「たぶんとか言える時点で無理だから」
「大丈夫だって。私、将来看護師になるから」
「そんな夢ママ初めて聞いたし、今、将来関係ないし」
「自分の娘を信じてます」
「何で言いきった?」
そんな親子のやり取りを見て、
「じゃあ、姉ちゃんの手の下から小夏が抱けばいいんじゃない?」
という俺の提案に渋々ながら小夏も納得してくれる。
「うへぇー、かわいいなぁー。私も妹欲しいなぁ」
「いや、それはちょっと……」と姉が明後日の方向に目をやる。
「どうやったら妹できんの?」
「ええーっと……じゃあこのまま誘拐しちゃう?」
「いいの!?」
「いいっていいって」
「いいわけないよな?」
目の前で誘拐を企てる親子に俺はひとまず突っ込む。