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手をつなぎ、歩く。

 セカンドオピニオンの資料を受け取って病院から出ると、

 太陽がその日最後のねばりを見せるように空を茜色に染めていた。


 後ろに長く伸びる俺の影の先端を踏むようにサチがとぼとぼと後ろについて歩く。


 病院の敷地から出る手前で俺は立ち止まって振り返ると、

 足元ばかり見ていたサチとの距離が詰まる。

 そして俺はその顔を両手で挟み、頬の皮を目一杯引っ張ってやる。


「い、いひゃい」


「うん。痛くしてるから」


「怒りゃなひっへ」


「全然怒ってないよ」


「怒っへうお」


「妻の病気も顧ない仕事の虫で、跡取りの子供さえ無事に産んでくれれば文句を言わない、自分の妻を子供を産む道具ぐらいにしか思ってないような冷徹な夫だからいちいち感情を荒げたりしないんだよ?」


 サチは俺の手から無理矢理逃れると、


「だから最初に言ったじゃん。あの先生、旦那さんにも来てもらいなさいってうるさいから、ちょっとだけうそついちゃったって」


「あれがちょっと? 俺めちゃくちゃ怒られたんだけど?」


 サチは、夫にも来てもらうようにもちかける担当の医師をかわすのに、

 相談にすら乗ってくれないド酷い夫という設定を吹き込んでいた。


 そんな夫が今更のこのこ現れてセカンドオピニオンの話をするのだからそりゃ怒られる。

 この歳になってあんな怒られ方するとは思ってもみなかった。


 誤解が解けたあとも、今まで同行しなかったこと、サチが時々検査をサボることなどについても追及された。


 しかしそれはそれとして、付き添ったことにより、サチの現状を細かく知れたし、なによりその担当医師の親身な対応に安心した。

 そしてセカオピ後もここでお世話になろうと決めた。

 何よりサチにはあれくらい厳しい先生がちょうどいい。


「許してください」


 再び先を歩き出した俺の背中にぎりぎり届く声でサチが呟く。


「別に許すも何もないから」


「だって、怒ってる」


「怒ってない。不機嫌なだけ」


「じゃあ不機嫌やめて」


「それはムリ」


「帰ったら気持ちいいことしてあげるから」


「こういう状況でそういう機嫌の取り方も嫌」


「じゃあ、泣く」


「どうぞ」


 もちろん俺も本気で怒っているわけではない。

 しかし、今日は少し灸をすえる意味でも家に着くぐらいまではこれを続けようと思う。


 背後でぴたりと止まってついてこなくなったサチに気付きつつも、俺はそのまま先を歩く。


 うわぁ~ん!!


 わざとらしい、その叫び声に思わず足を止める。


「私とお腹の子を捨ててまであの女のところに行くなんて酷過ぎるよぉー!」


 どの女だ。


 俺はくるりと踵を返すと、その口を押さえに戻る。


「何それ?」


 モガモガと何かを喋るので手を離してやると、

 その顔にはさっきまでの許しを乞うような表情はなく、けろりとして言った。

 

「泣いていいって言ったから」


「だからって変な設定つけんなよ」


「じゃぁ許してくれる?」


 そう言って、斜め45度上目づかい。


「それわざとやってるよな?」


「何のことかにゃー? 許してくれるのかにゃー?」


 いちいち小首を傾げる仕草が小賢しい。


 小賢しいと思っているのにも関わらず、

 ショートカット揺らしながら見せるその表情に抗いきれない。


「ああもう、わかったわかった……」


「なにがわかったのかにゃーん?」


「俺がどうしようもないぐらいバカだってことがわかったの」


「よしよし。じゃあ仲直りの握手」


 そう言って無理矢理俺の手を取って握ると、

 へへーっと笑ってそのままぶんぶん振って歩き出す。

 繋いだ影はひとつになって、さっきよりも長くなっていた。


 地元の駅を出ると、サチが夕闇の空の端に薄い月を見つけ指を差す。

 切った爪のようだと言って笑う。


 たったこれだけの幸せが脅かされることにずっと憤りを感じていたが、

 たったこれだけというのはどこか外からの価値観であって、

 自分たちはものすごく幸せなのだと気付く。


 だから、神様だかなんだかは嫉妬したんだと思う。

 「たったこれだけ」でこんなにも満足しやがって、と。 



 それからはセカンドオピニオン先の病院にも行ったが結果は同じで、

 抗がん剤の出産に対するリスクはゼロではないこと。

 ただ、安全性のデータが不足している薬や、放射線治療は当然避けるべきだということ。

 手段をきちんと選べば総合的に見て出産は大きなリスクではないこと。

 ただ、こうすべきだというようなことはこちらからは一切言えないことなどを話してもらった。


 それらを踏まえて俺が選んだのは、やはり抗がん剤治療をするという選択で、

 サチと俺の両親、あと姉に病気のことを報告したのもこのタイミングだった。


 三週間を一クールとして、

 抗がん剤を入れる際にはその前後一日を含めた三日間の入院をする。

 抗がん剤投与後しばらくは体がだるくなり、家に戻ってからも食事とトイレ以外のほとんどをサチはベッドの中で過ごす。


 そのだるさがようやく治まってきた時分に次の抗がん剤の投与日が来る。

 三クールでその抗がん剤では効果が出ないとわかると、別のものに変わる。

 それの繰り返し。


 しんどそうにするサチの顔も見るのも、

 逆に元気な素振りで抗がん剤を受け入れるサチを見るのも辛かった。


 ただ本人が悲観的になっていないのに、

 自分がそれを表に見せることだけはしないでおこうと努めた。



 二人、手をつなぎ歩く。

 暗くならず、明るくも振る舞わず、

 暗い道で、明るい月を指差して。

 ただただ自分たちが歩くこの道が幸せに向かっているのだと信じて。


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