トレヴィの泉でディニエンテ。
ひとりベッドの上で目が覚めて一瞬慌てるが、サイドボードに書置きを見つけてホッとする。
『ボンジョルノ! 少し散歩に出かけてきます。十二時にトレヴィの泉前集合。でもって、ランチだ!!』
端にはフォークにパスタが絡まった落書きが添えられていた。
そんな書置き一枚にものすごく気持ちが救われる。
時間はまだ九時過ぎ。待ち合わせまでには随分と時間がある。
ランチか……。
うっかりサチに伝え忘れていたことを思いながら、とりあえず顔を洗う。
地図を見ながらトレヴィの泉を目指すも、世界的な観光スポットとはすごいもので、近くまで来ると人の流れが細い路地を埋め尽くすようにそっちに向かっていく。
ディズニーシ―のミラコスタ付近を思い出したが、考えてみればこっちが本家だとすぐに気付く。
ただ違う点は周りの人種が多様なのと、その目的地が一点に絞られているところだ。
トレヴィの泉の周りはイルカでも泳いでるのかと思うほどの人だかりで、その水面すら見えない。
泉に降りるための階段も人でぎっしり埋まっている。
日本人観光客の姿もちらほら見かけるが、平均身長の高い人種の方が圧倒的に多いこの中から日本人の平均身長を下回るチビを探すと考えると少しげんなりした。
イタリアでは人の多いところを移動するときはスリなどに気をつけなければならない。
と、ガイドブックに書いてあったので、財布も携帯もパスポートも全部ウェストポーチに入れ、それをネコ型ロボットのように腹側に抱えて、更にその上からジャケットを羽織っている。
それでも人と人の隙間を押しつぶされるように進んだあと、ポーチのチャックが開いてないないか確認して歩いていると、前方不注意でどんっと人とぶつかる。
「あ、ソーリー」
咄嗟にイタリア語が出て来なかったが、下手な英語でも何ら問題はない。
「でぃにえんて」
どういたしましてと、ぶつかった相手から返って来た、沖縄の方言のような怪しいイタリア語にはっと気付き、その姿を見てもう一段階はっとなる。
「でぃにえんて」
もう一度そう言って、いたずらっぽい笑顔で俺を見上げるのはもちろんサチだ。
俺が驚いたのはその髪の長さで、耳たぶが見えるぐらいの位置でバッサリ切られていた。
「どうしたんだよ?」
「切ったんだよ」
「そりゃ見りゃわかるけど」
サチは髪の先を指でくるくるしながら説明する。
「ここの近くにね、日本人がやってる美容院があってね、そこでアン王女みたいにしてもらおうと思って」
「全然アン王女じゃないな」
「うん。あの髪型は絶対似合わないからやめときなって言われてこうなったんだけど」
どうかな? そう言って上目づかい訊いてくるサチの顔は未だ少女のようで、大学で初めて出会った頃を思い出させた。
「雅也君、短いの好きでしょ? どう? ぐっと来る?」
「正直に言っていい?」
「もしやダメ出しですか……」
「ムラムラする」
「おい」
「かわいい」
「照れる」
そう言ってボリボリ頭をかくサチの肩を抱くと、
「んじゃ、そういうわけでホテル戻るか」
「どういうわけで? ランチだろ。腹ぺこだろ」
「俺、朝飯食ったし」
「え?」
「いや、ホテル朝食付いてたから」
「え?」
ぽかんと口を開けて、この人何言ってんの? といった目で俺を見てくる。
「聞いてない」
「言ってない」
「何食べた」
「写真撮ってきたけど見る?」
「見る」
ちょうど隙間が空いた泉の縁に腰掛けると、デジカメで撮った画像をサチに見せる。
「これどこ?」「テラス」「これ何?」「デニッシュ」「これ何?」「ヨーグルト三種」「これハム?」「うん」「チーズ?」「そう」「サラミか」「当たり」「ケーキは?」「ドーナツまであった」「おいしかった?」「めちゃくちゃ」「弁償しろ」「え?」
ランチには、はなから連れていくつもりではいたが、俺まで食事を強要されたのは辛かった。