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プロローグ2


 お茶を濁され続けてから二週間。


 その間気まずい空気が流れていたかというとそんなことはなく、

 今まで通り映画を観ては感想を述べ合う日々を過ごした。

 たださすがに部屋でのDVD鑑賞会はなくなった。


 その日観に行った洋画は、

 CMや主演俳優が来日してまで宣伝していた割りに大きく期待を裏切る出来で、

 観終わったあと、隣で彼女も、んーと不満そうな声を漏らしていた。


 ただ、それを館内で吐き出すのはマナーに反するというもので、

 良かれ悪かれ感想はいつもお決まりの喫茶店まで持ち越す。


 しかし、その日はいつもとは違う方向にやや速足で彼女はぐんぐんと進んで行った。


 映画館の近くの大きな公園の中を歩く彼女の後姿を眺めながら、

 俺が新しい店でも開拓するのだろうかと考えていると、

 ちょうど公園の真ん中にある噴水の前まで来るなり、彼女はくるりと膝丈のスカートを翻した。


「先に約束してよ」


「約束?」


「うん。今からこないだの告白の返事をしようと思うのですよ」


 もしかして、彼女は映画じゃなくこのことをずっと考えていたのだろうか。


「でね、約束なんだけど、私の答えがどうあれ映画研究会はやめないで欲しい。これからもこうやって付き合って欲しいの」


 その言葉に俺の肩は自然と落ちる。


「え、ちょっと何でそんなあからさまにがっかりすんの? まだ何も言ってないじゃない」


「だって、それはもう断ること前提じゃないですか」


「あー違う違う」


「じゃあ付き合ってくれるんですか!」


「ちょっ、そんな急ににギラギラしないで。違うから……だからって、そんなにがっかりもしない! って言うか、ひとの話を最後まで聞けい!」


 てぃ! っと俺の胸に軽い猫パンチを食らわせると彼女は、


「今から目一杯私を口説いてみて」と続けた。


「口説く、ですか?」


 その突拍子のない言葉に、俺はぽかりとオウム返しに訊ねる。


「だっていきなりあんなことされて付き合ってくれって言われても、何だかそれって勢いな感じがするっていうかぁ……」


 最後は若干もごもごしながら、彼女は不満そうに唇を尖らせてみせる。


「そんなことないですよ」


「だからそれを見せてって言ってるのよ」


「いや、だからってそんな急に言われても」


「普段から本当に私のこと思ってるなら、口説き文句のひとつやふたつ、ぽぽぽんっと出てくるはずでしょ?」


「それって無茶苦茶……」


「以上ルール説明終わり!」


 よーい、はいっ! と言って彼女は小さな手をぱちんと鳴らした。


「あぁ……えと」


「ちなみに時間は一分ね。あと五十秒、四十九、四十八……」


「え、あの。俺、ひとめぼれで、髪型とか、声とか、顔とかすっごく好みで、かわいいです。でもそれだけじゃなくって、こうやって一緒にいると楽しくって、俺高校ん時はただの野球バカで、何も考えなしに、とりあえずで大学に入ったけど、先輩に出会って、こう、人生にパァーっと光が射したって言うか」


 九、八、七……。

 ふんふんとまるで講義でも聴くように首だけで頷きながらまったく止まらないカウントに、この人本当に最後まで数え切るつもりなんだと呆気にとられかけたが、この時点で決定打がないのもわかっていた。


 二人で散々映画を見てきたのだから何となく弱いところはわかるが、まとまった言葉となって出てこない。


 あの、その、えと、と何の役にも立たない声だけが口の端からぼろぼろこぼれる。


「俺、この人となら結婚してもいいなとか思いました!」


 三、と数えたところでカウントが止まる。


 彼女は口を半開きのまましばらくこちらを見てから、驚いたのと呆れたのをきれいに混ぜた声を漏らす。


「……今、一足も二足も、何なら十足ぐらい飛ばしだよね? まさかのプロポーズ?」


「あ、いや、その勢いって言うか、何て言うか」


「ふーん。勢いか」


「いや、勢いじゃないです! マジで、その、け、結婚してもいいかな……ぐらいに」


 俺に背を向けて、彼女はわざとらしくふむふむと声に出してしばらく頷いたあと、こちらに振り返る。


「じゃあ、私バカになってよ」


「私、バカ?」


 文法的な意味がわからず、俺はまたもやオウム返しに訊ねた。


「そう、野球バカだったんでしょ? じゃあ今度は私バカになってよ」


 カウンター気味に耳に飛びこんできたそのかわいいに音に、

 そういう意味で受け取ってもいいのかしばらく棒立ちのまま頭の中を忙しくしていると、それを見越したように彼女が喋る。


「あー、何キミ? 察しが悪い系?」


 自分はどうなんだと思うも、

 夕日のせいにしては色濃く染まっているその顔に彼女の目一杯が見て取れて、それがやたらと嬉しい。


「いや、あの、よろしくお願いします!」


「こちらこそ!」


 そう言ってにっこり笑った顔は反則的にかわいく、脳内で遅めの桜が満開になった。


 ここで終わっていれば、青春サクセスストーリーとしてはまずまずの第一話だったのだが、俺はそのときこの笑顔が本当に自分のものになったのか確かめたくなってしまい、気付けば少し大胆な発言をしていた。


「あの、抱きしめてもいいですか?」


「あ……うん。優しくだぞ!」


 照れながらも、お姉さん風を吹かせる彼女の肩口に手をかけると、

 そのまま壊れ物を扱うようにそっと抱え込んでいく。


 腕の中に収め切るにはずいぶんと腰を折り曲げねばならず、改めてその小ささを実感する。

 さり気なく髪に顔を埋めると、地肌の暖かさと清潔な香りに脳がとろけそうになる。


 そのまましばらく抱きしめていたが、

 今度はどのタイミングで手を離していいかわからず、

 それでもいい加減にしないとなと思い、腕の力を緩める。


「あ、もういいの?」


 そのあっけらかんとした言葉が、立ち位置の上下を表していて少し悔しい。


「あの、そんなこと言われたら朝まで離しませんよ?」


「それは困る。けど、キミは案外かわいいこと言うね」


 かわいい人にかわいいと言われるのはものすごく照れる。

 再び腕の中に戻ってきた温もりに、今度はじっくりとその幸福を味わう。


「丸岡さん」


「なに?」


 自分の胸元からくぐもった声で聞こえる。

 押しつけられた唇からの暖かい空気がTシャツごしに伝わる。


「その……呼び方なんですけど、サチって呼んでもいいですか?」


「んー」


 俺の胸に額を預けるように俯いて、少しの間思案してから彼女が言う。


「さっちゃんって呼んで」


「さっちゃん。ですか」


「うん。いや?」


「いやではないですけど、ものすごく照れます」


「じゃあ練習してみよう」


 そう言って腕の中から俺を仰ぎ見る。

 数十センチの至近距離で見るその顔はもう本当にかわいくてかわいくて、 キュン死にというのは実際に存在するんじゃないかと思った。


「せぇーのっ」


「え?」


 いきなりの掛け声に困惑していると、


「さっちゃん。呼んでみ」と彼女が言った。


 真上から見降ろす形で彼女と顔を合わせていると、

 唇の間から小さな舌がチロチロ動くのがよく見える。


 もう一度かかる、せぇーのという掛け声。


「さ、さっちゃん」


「はぁーい」


 至近距離でのにっこり笑顔のそのべらぼうな破壊力に、

 幸せ物質が分泌され過ぎて意識が飛びそうになる。


 一度でそんな状態なのに、それを何度も繰り返し練習させられる。

 俺をからかっているだけだってのはわかってはいるが、あまりにも軽率過ぎる。


「さっちゃん」「はぁーい」「さっちゃん」「はい!」「さっちゃん」「お呼びですか?」「さっちゃん」「いえすいえす!」「さっちゃん」「はいな!」「さっちゃん」「――――」


 たぶんこのとき、脳がこれ以上は危険だと防衛本能を働かせたんじゃないかなと思う。


 気がつけば、次の返事が出るより先にその口を自分の唇で塞いでいた。

 彼女が口を開きかけていたところに突進したもんだから、ダサいことに歯がかつんと当たってしまう。


「すみません」


「あ、ううん」


 そう言って自分のショートブーツの爪先を眺める彼女のつむじを見て、

 色んな意味で立ち位置の逆転を確信した俺は、

 そのさくら色の頬に両手を添えるともう一度唇をかぶせる。


 進入角度を変えては彼女の上唇を自分の唇で挟む。


 僅かだが数回に一度向こうからも答えてくれるようになると、

 気持ちは登り一直線で、もっともっととなる。


 唇の間から舌を差しいれると前歯で食い止められたが、

 それでも執拗に唇をなぶりながら、それをこじ開けようと舌を動かし…… そこで我に返った。


 気が付けば腕の中にさっきまであったふわりとした感触はなくなり、

 代わりに拳を握り締めて固まった体と、

 耐えるようにぎゅっと固く瞑られた目からはぽろぽろと涙がこぼれていた。


 やってしまった。


「ごめんなさい! やりすぎました!」


 罪悪感が喉まで満タンになる。


 この世のどんな兵器よりも強力な目の前のそれにどう対処していいかわからず、頭をなでたり、肩をなでたり、背中をさすったりとすったもんだする。

 公園を横切る通行人からの好奇の視線がその気持ちを余計に焦らせる。


 それから、ぐすぐすと鼻をすすりながらも泣きやんでくれるまで優に五分はかかった。


「びっくりする」


「ごめんなさい」


「いきなり、ああいうのって恐い」


「ほんと、すみませんでした!」


「――げざ」


「え?」


 涙混じりに言われたのでうっかり言葉を聞きもらした。


 一瞬、土下座って聞こえてしまった。


「土下座っ!」


 土下座で正解だった。


「ここで、ですか?」


「ここであんなことしたのは誰だ! 悪いと思ったなら土下座しろ! 誠意を見せろ! 地面に額をこすりつけろ!」


「いや、それはちょっと」


「帰る」


 ぷいっと背中を向けて歩き出す彼女。

 そっち帰る方向じゃないんだけどと思いながら、


「すみませんでした!」


 人生、初土下座。


 地面に額を擦りつけると、間もなくしてショートブーツが視界の隅に入ってくる。

 それを見て、ああこんなところまで小さいんだなと、

 公園の砂の香りを間近で嗅ぎながらときめいた。


 間もなくして、頭の上から湿り気の残る鼻声が降ってくる。


「本当に悪いと思ってるか」


「お、思ってます」


「もう、いきなしあんなことしないか」


「しません。絶対しません」


「じゃあ立って」 


 上から聞こえた指示に、

 この状態で顔だけあげたらスカートの中が見えるななどと考えてしまう。


「スカートの中覗いちゃダメだぞ」


「見ません。絶対見ません」


 俯いたまま自分のへそだけを眺めるようにして立ちあがる。


 目の前には、まだ少し涙を蓄えつつも、むすっとした顔があった。

 早くも反省も忘れて、これはこれで捨て難いなと思ってしまう。


「えっと、お詫びにおいしいご飯でもどうでしょう?」


「その前に」


「はい」


「もっかい、ぎゅっとして」


「え、いいんですか?」


「ぎゅっとしろ!」


「でも怖かたって」


「怖かったから今度は優しくぎゅっとしてって言ってんの!」


 そんなかわいいことを言われて、ついガバッといこうとしたところで、

「そっとだぞ」と釘を刺された。


 まず頭をなで、肩に手を置き、そこから滑らせるようにゆっくりと抱きしめると、俺の背中にも小さな手が回る。


「これから優しくするんだぞ」「はい」「大切にするんだぞ」「はい」「無理やりはダメなんだからな」「ごめんなさい」「何事も順番順番だ」「その通りです」「私のことかわいいか?」「かわいいです」「じゃあ、泣かせちゃダメだ」「気をつけます」「お腹空いた」「はい」「イタ飯」「うっ」「返事」「はい」


 ものすごく面倒なのにそれがたまらなくかわいいと思うようじゃ、

 この先一生俺のターンは来ないなと思った。


 それから軽いキスまでのデートを三回して、

 許可を得て深いキスをするようになり、

 更に許可もいらなくなるのには三ケ月かかった。


 そろそろと思い、彼女の部屋でそれとなく押し倒してみたらまた泣かれた。


 だからまた額を床に擦りつけた。


 春に始まった交際から、季節ごとに見せる新たなかわいさを前におあずけという生殺しに耐え、そういう関係にまで辿りついたのはクリスマスイブだった。

 まぁ、それでも泣かれたんだけど。

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