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ローマの休日。

 

 ローマへの旅行の予定を決めたのは、サチの病気がわかってすぐのことだった。

 妊娠中の海外に不安はあったが、杏が大きくなってからというプランは、口にするにはあまりに暢気なように思えて、どちらからも出てこなかった。

 大学時代から二人で行こうと話していたローマだが、二人とも口ばかりで、先延ばしにしては新婚旅行からずっと国内ばかりをぶらぶらしていた。


 そんな海外というものを経験したことのない二人なので、まずはパスポートを申請するところから始めなければならず、何となく高いもんだと思い込んでいた手数料は、ネットで調べて五秒でとんだ世間知らずだったことがわかり、拍子抜けしてふたりで笑った。


 初めての国際線に緊張しながら、成田から直行便で十三時間。

 午後三時前にローマ、レオナルド・ダ・ヴィンチ空港に到着。

 そこから市内へ向かうのに鉄道に乗るのだが、さすがはアモーレの国、ホームの至る所で抱き合い、人目を気にせず情熱的な口付けに勤しむカップルの姿が目に入ってくる。


「俺達も景気づけにやっとくか?」


「いいよ」


 そう言って見上げてくるその顔にはムードも何もなく、いたずら小僧のそれだった。


「できないと思ってるだろ」


「うん」


「正解」


「かわゆいなぁ」


 そう言うと、サチは背伸びしてわしゃわしゃと俺の前髪を撫でた。


 鉄道は最近になって民営のものも走り始めていて選択肢はいくつかあったが、

 『レオナルドエクスプレス』という名前に惹かれてイタリア国鉄に乗る。 しかし、お世辞にもきれいと言える車内ではなく、名前負けな感じがした。


「レオナルド・ダ・ヴィンチのエクスプレスって考えるから、おっと思ったけど、要はあれだよね。坊っちゃん列車みたいなノリだよね」


「伊予鉄道VSイタリア国鉄か……」 


 空港から目的のテルミニ駅まで三十分。

 そこから徒歩一分で目的のホテルへ到着。

 初めての海外なのもあり、ホテルはイタリアの大手チェーンの四つ星ホテルを選んだ。


 受付を見つけるなり「ボンジョルノ!」とガイドブックのアドバイス通りにサチが元気に挨拶する。

 そんな物怖じしない相方を頼もしく思ったのも一瞬で、あとはよろしくとホテル内の散策を始める。


 ホテル選びはとりあえず大正解。

 評判通りの丁寧な接客に清潔な部屋が用意されていた。


 部屋に荷物を放りむと、いかに腹ペコかを大袈裟に訴え続ける妻を連れて早速食事に出かける。

 空港にももちろん店はあったのだが、どこもファストフードな雰囲気で、せっかくのローマでの最初の食事なのだからと我慢することにした。


 少し歩いて、こちらも予めチェックしておいたエノテカと呼ばれる食事のできるバーへ。


 途中スペイン階段の前を通った時は空腹も忘れて二人で大はしゃぎした。

 スペイン階段でじゃんけんグリコをやったのは俺達ぐらいかも知れない。

 二人で笑ったり、ぼやいたり、はしゃいだり。

 その都度沸きあがる幸福は、普段の何倍にも凝縮せれているように感じた。



 空腹の勢いで派手に注文したため、ホテルへ戻るなり、カバンに入れておいた胃薬を飲む。

 薬を飲みながらふと頭をよぎったことを、このタイミングで言うかどうか迷ったが、酒が入っていたのもあり、気になる気持ちの方がわずかに上回った。


「さっちゃんさぁ」


「なに? 食欲満たされたからエロいことさせろって?」


 サチはベッドの上でガイドブックに視線を落としながら軽口を叩く。


「いや、そうじゃなくって。その……病気のことなんだけど」


 サチの横顔には何の変化もないが、揺れた空気は夫婦なら肌で感じる。

 サチはパタンとガイドブックを閉じると、胡坐をかいて俺の方に向き直った。


「お、いいよ。何でも訊いとくれ」


「うん。あのさ、その、進行を遅らせたり、治すための薬だったりとかとか、そういうのってないの?」


「あるよ」


「あ、あるんだ」


「抗がん剤だよ」


 サチの口からけろりと吐き出された名前は、何か忌まわしい呪文のように聞こえた。


「三週間一クールで薬を入れるんだよ。それで効き目を見ながらだいたい四クールぐらいで薬の組み合わせを変えたりするんだって」


「だってって。さっちゃんは」


「私はやってないけどね」


「何で?」


「何でって、バッカだなぁ。お腹に赤ちゃんがいるからに決まってんじゃん」


 いくら茶化して言われたところで、言葉の意味までは変わらない。


「何で今まで言わなかったんだよ」


「知られたくなかったからだよ?」


「それじゃぁ、病気は悪くなる一方なんだろ」


「それは仕方ないこと――」


「仕方ないじゃないだろ」


「雅也君顔こわいよ? あと、ちょっと腕痛い」


 気が付けば俺はサチの両腕を強く掴んでいた。

 自分の体がどうしようもないくらいにガタガタと震えているのがわかる。 恐怖だ。


「……俺はバカだ。少し考えればわかったことなのに。今まで気付かなかったなんて」


「だって気付かれないようにしてたもん。それに一緒だよ。もし雅也君が気付いたとしても、反対しても何も変わらなかったよ。だから何も後悔することはないんだよ」


 そんなふうに言われても気持ちはおさまらない。


「俺は」

 暗い底からこみ上げてくる言葉を、抑えるべき言葉を抑えられない。

「さっちゃんが生きる可能性を減らしてまで、子供なんて――」


 いらなかった。

 そこまで自分が口にできたのかどうかは覚えていない。

 ただ、気がついたら叩かれた左の頬がしびれるように痛くて、いつの間にかベッドから立ちあがっていたサチが俺を睨みつけるようにして泣いていた。


「……何で?」


 最初の一回は本当にわからないといった感じで。

 あとは叩きつけるようにサチは叫んだ。


「何で何で何で何で何で! ……何でそんなこと言うんだよ!  そんなこと言われたらこの子どうなるんだよ! 今までのは何だったんだよ! あんなに喜んでくれたのは何だったんだよ! ふざけるな! バカ! 今更そんなこと言うのって酷過ぎるよ!」


 言った自分でも酷いと思う。

 そんな考えが浮かんだ自分に吐き気がする。

 わかってる。わかってるけど。


「雅也君。耳の穴かっぽじってよく聞いてよ」


 サチはそう前置きすると、ひくついた喉で息を吸う。


「私はこの子のために死ぬんじゃない! この子は私の代わりに生まれてくるんじゃない! この子の人生はもう始まってるんだ! 誰にもそれを否定する権利なんて絶対に、絶対にない!」


 目一杯歯を食いしばったその顔は子を守る親猫のようで、今にも毛が逆立つんじゃないかと思わせるような凄みがあった。

 そして、それを向けられている相手が自分なのが辛くて情けなかった。


 どちらが正しいかなんてわかってる。自分の発言が頭イカれてるってのもわかってる。

 わかってる。わかってる。わかってる。

 でも……わかるのは理屈ばっかりじゃないか――


「じゃあ……」

 もう黙れと、自制の声が聞こえる。

 このままごめんと謝れと。

 公園で初めてサチを泣かせたあの時みたいに、床に額をこすりつけて謝れと。そうしたら許してもらえる。

 ベッドの中でサチの髪をなでながら何度も何度も謝って朝を迎えればいい。

 それが最善だ。そうするべきだ。

 頭ではそう思ってるのに、


「じゃあ俺はどうしたらいい?」


 飲み込もうとする気持ちと、それでも出てこようとする言葉に頭がくらくらする。

 苦しい。酸素が足りない。楽になりたい。


 パタパタと涙が自分のつま先に落ちる。

 何度かパクパクと唇が震えると、あとは手押しポンプのように途切れ途切れに言葉が溢れた。


「こんなはずじゃなかったって思ってしまう俺はどうしたらいい? 色々考えてしまう俺はどうしたらいい? 幼稚園のお遊戯会を二人で見に行くとさ、きっとさっちゃんの子だから杏だけ変にけ目立っちゃってて、それ見て二人でわちゃーってなるんだよ。小学生になったら運動会で弁当を三人で食べながら、徒競走で二位になってくやしがるのをなだめたり、持って帰ってきた通知表を見てはどっちに似たのか言い合ったり、休みの日には遊園地に行ってコーヒーカップに乗るんだよ。俺がやめろって言うのにお前達二人でバカみたいに回してそれから……それから……」


 それ以上の言葉は喉で押しつぶされ、代わりに涙ばかりが壊れたように溢れてくる。


 傷つけたことを謝りもせず、言い訳みたいに恰好悪い泣きごとを垂れ流した自分を、サチはどんな見ているのか。

 そう思うと下げた顔をあげられなかった。


「したいなぁ」


 空気を多く含んだ声でその言葉が聞こえたのは、自分の言葉が途切れてからどれぐらい経ってからだったか。

 恐る恐る顔をあげると、涙目ながらも穏やかな笑顔でこっちを見ているサチがベッドに腰かけていた。


「私もそうしたい。三人で楽しいこといっぱいしたい。杏にお母さんって呼んでもらいたい。杏と好きな男の子の話とかしたい。オシャレの話とかいっぱいしたい。雅也君と二人で見て来た映画を三人で見たい。いつかローマの休日を見ながら、このキレイな人からあなたの名前をもらったのよって、お父さんとお母さんはこの映画で出会ったのよって、教えてあげた……ぃ」


 口にする幸せな未来は片っ端から×マークが付けられ、

 口にすればするほど胸の奥が苦しくなって、

 だけど言葉は止まらなくって、

 全然まとまらなくって。

 こんなの俺たちの未来じゃないって、

 全然違うんだって、ただそう言いたくって。


 その夜はどちらかがなぐさめることもなく、子供が駄々を捏ねるのと同じように、ただ欲しいものが手に入らないことに二人で泣きじゃくった。


 ローマに旅行に来た日の夜にこんなに泣いてばかりいる夫婦が他にいるだろうか?

 そう思うとくやしくて、また涙が溢れた。


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