にゃのこ。
土曜の昼下がり。
ひとりでリビングのソファに寝転がったり、立ちあがったり、意味なく冷蔵庫を開けてみたりと、どうにも落ち着かない。
サチは産婦人科に行っている。
俺がこの日を心待ちにしているのを知っておきながら、ひとりで留守番させるなんて鬼の所業だ。
こちらの気持ちを焦らすように、いや、確実に焦らして午前の診療ぎりぎりに間に合うように家を出ていった。
時計の針が二時を過ぎて、ようやく聞こえたドアの音に玄関へ向かうと、サチは左手に何だったか長い名前の通称「高い方のドーナツ」の箱を持ち、
右手のスタバのカップからストローでチューチューと何かを飲んでいた。
「いやぁ、疲れた疲れた」
「さっちゃん。俺待ってたんだけど」
「知ってるよ。いやぁ、土曜だけあって混んでてさ」
「病院が?」
「ドーナツが。はい、これお土産ね」
サチは俺にドーナツの箱を渡すとそのままリビングへと向かう。
「で?」
「へ?」
「へじゃなくて、わかったんだよね? 男か女か」
「あ、うん。わかったよ」
「で?」
「ふぅー。外出たら疲れちゃった。ほら、妊娠するとすぐ眠くなっちゃうからさ。ちょっと横になるね」
そう言ってソファに横になろうとするサチの腕を引き起こして、その頬をつねる。
「いひゃいじゃないか」
「さっちゃん。何で意地悪すんの?」
「これ、いひゃいんらけろ。ひゃべれらいんらけろ」
「手離したら喋る?」
「ひゃべるひゃべる」
そう言ってこくこくと頷くサチの頬を解放してやると、そのまますとんとソファに顔を突っ伏す。
「おい」
サチの肩が微妙に揺れているのに気が付く。
こいつめ……。
顔の位置まで屈んで、どっち? ともう一度尋ねると、ソファからニヤニヤ顔を半面だけ持ち上げる。
「おんにゃのこ」
…………。
ダメだ。頬の筋肉が弛緩する。自制が利かない。
「雅也君。今かなりキモい顔してるよ」
だろうなと自分でも思う。
「さっちゃん大好き!」
「うぉっ、臆面もなく言うね。目がキラキラ乙女だよ」
「名前! 名前どうしよっか!」
てぃっ! とサチが俺の額に唐竹割りチョップをかます。
「ちょっと座れ。そして落ち着け」
「何だよ」
言われるがままに正座して、ソファの上のサチを見上げる。
「名前はもう決まっている」
「俺に相談もなしに」
そこでもう一度チョップを食らう。
「相談した。ってか、二人で決めた」
「そうだっけ?」
「……ああキミ、今日はもう帰っていいから」
「すみません。あいにく家はここだけなんです」
サチはあきれ果てたといった顔をつくると、言い聞かせるように口を開く。
「アン」
「あ・ん?」
「アン」
「あ・ん」
「私はサリバン先生かい?」
アン……何でアン?
俺を見るサチの目が、忘れるなんてありえないとイラついているのがわかる。
確かにいつかの昔、そんな話をした記憶もなくもないというか……。
サチがソファの上で、んー……と伸びをするように最大限に仰け反って、とどめの唐竹割りモーションに入る。
「アンね。うん、いや、わかってる。ちょっと時間をくれ」
追い込まれてようやく、「あっ」と記憶の扉が開いたと同時に、サチの手刀が頭上に落ちて来る。
両手をパンッと合わせて白刃取り。失敗。
「アン王女。二人の出会いのきっかけとなったローマの休日のアン王女にちなんでアンって名前にしようと、結婚初夜、持ち帰ったウェディングインナーで三回したあとにベッドの中で話し合いました」
最後のは必要のない情報です、ともう一発食らう。
「槙村アン。いいんじゃない? かわいいじゃん」
「だからもう決まってるんだって。字はあんずの杏だよね」
「えぇー、あんこの餡がいいな」
「わかった。いいよそれで。ものすごく書きにくいし、絶対恨まれるけどいいよ」
「ごめん。冗談だから許してください」
「面白くないのは冗談とは言わないのだ」
この体の芯から染み出す感情をどう表現していいのか、もう頭がおかしくなりそうになる。
今までテレビなんかで見てはバカみたいだと思っていたことを、やってみたくなり、サチの体に手を伸ばす。
「聞いてたかぁ? お前の名前は杏だぞぉ」
「ああ、盛り上がってるところ悪いがね。キミが擦っているそこは、腹ではなく胸だよ」
「いやぁ、お腹が出てくるとなおさら凹凸がわからなくって」
「じゃあ、もう私に触れるな」
そう言ったサチに手の甲をつねられながら、目の前の幸せをしっかりと刻み込む。