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プロローグ1

 

 ハーピバースデートゥ―――ユー!


 最後の部分を目一杯伸ばして歌いきると、いたずらっぽい、満足げな笑顔がリビングの40インチテレビ画面いっぱいに広がる。


 一方的に喋り続けるその顔を眺めながら、どんな思いでこれを撮ったのかを考えると胸が押しつぶされそうになる。


 この笑顔を見ていたくて、ずっと追いかけてきた。

 そのスタート地点となったのはいつだっただろうなどということは、

 考えることもなく勝手に頭の中で再生される。


         ※


 高校の三年間は野球部に所属していた。


 甲子園を目指すとかそんな大それた野望を抱くようなことも、期待されるようなこともない、草野球ではないぞというのが唯一の誇りのような、草食系な部活だった。

 なので俺も、モサモサと目の前の草を食む程度に、野球のことを考えて生きていた。


 引退試合の直前に肘を壊した時はショックだったが、

 それよりもっとショックだったのは近い未来自分が食むべき草がなくなるということだった。

 なので、慌てた。

 そんな俺はまた新しい草を食むべく、でたらめに勉強してなんとか適当な大学に進学できた。


 大学には野球サークルもあったが、活動内容の主が河川敷での草野球だったので、そこは草食系の誇りが許さなかった。

 というより、もういっかというのが本音に近い。


 入学してしばらくは激しいサークル勧誘に辟易としていものの、ひと月ほどしてそれも落ち着き始めると、今度は逆に取り残されたような気持ちになった。

 そこでまた俺は少し慌てた。


 足を踏み入れたサークル棟は予想異常に静かで、名残り程度に残されたメンバー募集の貼り紙が剥がれかけ、ぱたぱたと風にたなびく。


 それでもピンポイントで声をかけられたら面倒だなと警戒しながらよたよた歩いていると、ひとつの部屋の前にイーゼルが立て掛けてあるのが目に入る。


 それに載せられたスケッチブックには「映画研究会 ローマの休日上映会 16:20~ お気軽にどうぞ」と黒マジックで書かれた簡単な文章と、

ローマの休日ということでジェラートのかわいらしいイラストが添えられてあった。


 時計を見たら四時を少し回ったところ。

 足を踏み入れようと思ったのは、自分のその時の気持ちにモノクロ映画というの丁度良い具合に思えたのと、映画研究会ならいざとなれば簡単に逃げられそうな気がしたからだ。


 ゆっくりと扉を開けると、目の前にはいきなり暗幕が幾重にも吊られてあって、全くお気軽にどうぞという空気ではなかった。


 最後の一枚の暗幕をめくると、薄ぼんやり明るい七畳ほどの部屋にスチール椅子が三列に分けて四脚ずつ並べてあった。


 窓は入口と同じ様に暗幕で塞がれていて、代わりにそこには小さなスクリーンが吊るされており、そこにスタンバイ中のプロジェクターの白い明かりが当たっているせいで部屋の中はぼんやりと明るい。


 自分以外には誰もおらず、何だか店でトイレと間違えてスタッフルームのドアを開けてしまったときのような気持ちになり、回れ右して再び暗幕に手をかける。


 早く脱出せねばとあせって幕を手繰るも、二枚目以降、暗幕の途切れ目を見つけることが出来ず、黒い壁に囲まれような気持ちになりながらでたらめに暗幕をまさぐり続けていると、急に暗幕とは違うふにゃりとした柔らかい生地に触れた。

 同時に、きゃっという女の子の声も聞こえて、状況を把握する前に俺は咄嗟に謝った。


 すみません、いえいえ、というようなやり取りを暗幕越しにやりとりのあと、よいしょ、という声と共に足元から暗幕が持ち上げてこちら側に出て来ると、室内の薄い明かりが女の子の眼鏡に丸く反射する。


「暗幕の端っこに蓄光テープでも貼ってれば、未然に事故を防げたのに」


 そう呟きながら、彼女が胸の辺りを押さえたので、やはりさっき手に触れた感触はあれかしらと俺は右手の記憶を反芻する。


 そのあとは何となく逃げるに逃げられなくなり、軽い会話をやりとりしている内に自然と真ん中辺りの席に二人並んで座っていた。


 少し横を向くと、彼女の頭の上に自分のあごがのっかりそうなほどの身長差だった。


 映画は何の前触れもなく、急に始まった。


 ローマの休日は中学生の時分に見たきりだったが、

 モノクロ画面に対するノスタルジックな気持ちはすぐに消え、

 半世紀以上経った今でも全く時代を感じさせないスクリーンの中のオードリー・ヘプバーンのかわいさに夢中になった。


 ラストの記者会見のシーンになると、

 となりに座っている彼女が洟をすすり出し、

 その後グレゴリーペック演じる新聞記者が宮殿を去るくだりになると、

「うっ、うぅぅ~~」と完全に泣き声になっていた。


 画面に『The End』の文字が現れると今度はパチパチと拍手しだしたので、仕方なく俺もそれに倣う。


「ごめんね、最後の方うるさくして」


 そう言うとその子は躊躇なく壁際まで歩いていくと、ぱちりと部屋の明りをつけた。

 部屋の明るさに目が馴染むと、今まで輪郭だけだったその姿がはっきりする。


 その、ずれた眼鏡からのぞく大きくて丸い目と、軽いくせのついたショートカットの女の子はヘプバーンよりはるかに自分の好みで、俺はいともあっさりと恋に落ちた。

 と同時に、罠にも落ちていたことに気付く。


 おかしいと思うべきだったのだ。

 二人だけの密室で自分以外の誰が映画を再生することができたのか。


 彼女は俺の前の椅子をよいしょと反転させると、そこに座り、隣りの空いた席にDVDのリモコンを置いた。


「で、どうだろうか?」


 まだ涙の筋が残った顔で彼女はそう訊ねてきた。

 そして敬語はタメ口に変わっていた。


「えっと……どうとは?」


「映画。良かったよね?」


「あ、はい」


「君、一年生だよね?」


「え、はぁ」


「まだサークル入ってないんだよね?」


「あ、まぁ」


「じゃあ、はい」


 そう言って差し出された入部届の代表者欄には『丸岡幸』と書かれてあった。


 結局そのまま入部した映画研究会は、俺の一コ上の彼女が三日前に思い立って動き出した急造のサークルだった。メンバーは俺とのふたりだけ。


 サークルと言っても大学側への申請は通っておらず、上映会をした部屋も空いていたのを借りただけで部室というものは存在しない。


 活動内容は学校終わりに映画を観に行ってはお茶をしながら感想を述べ合ったり、

 彼女の一人暮らしの部屋でDVDを見ては述べ合ったり、

 今まで観てきた映画を述べ合ったりと述べ合うばかりの毎日だった。


 これは客観的に捉えれば、デートとも取れるし、誘ってるとも取れるし、すでに付き合ってるんじゃないかとも取れるが、主観的には手ごたえは『限りなくお友達に近い後輩』。


 その関係が余計に気持ちを悶々とさせ、

 気が付けば24時間いつでも彼女のことばかりを考えられるコンビニエンスなようで非常に不便な脳へと変化していた。


 そんな状態のままで一カ月。

 その日も部屋でDVDを観終わったあと、いつものごとく彼女は泣き、感動の共有を求めてこちらに顔を向ける。


 このタイミングをずっと窺っていた俺はそこでついばむように彼女の唇を奪った。


 何が起きたのかときょとんとしている彼女と見つめ合うこと数十秒。

 キスをするとは決めていたものの、そのあとはノープランで、そもそもこんな空白は全く予想していなかった。


 自分の心臓のドキドキと壁の時計のカチカチだけがよく聞こえる。


 体内時間ではそろそろ五分ぐらい経とうかというころ、


「で、最後トラックが丘を下っていくシーンとかさぁ――」


 止まっていた時間がたった今動き始めたかのように彼女は喋りだした。

 俺はそれをぽかんと眺める。


 なかったことにしようってことだろうか?

 それならそれでこちらにも考えがある。


 何でも最初の一回は大変だが、それが出来たらあとは勢いがつく。


 そのまま肩を抱こうとしたところ、彼女は腕を前に伸ばしてそれを拒む。


「ちょ、ちょっと待って。えっと、何?」


 何って訊かれても……。


「さっきのって事故だよね?」


 なるほど、思いもよらない切り口だ。


「事故ではありません故意です」


 故意ですし、恋です。


「何で?」


「好きだからです」


「え、好きって、私が? 何で?」


「何でって、好きなものは好きとしか」


「いつから?」


「最初から」


「ひゃー!」


 そう言って、彼女は少しオーバーに反って見せる。


「付き合ってもらえませんか?」


「ちょちょちょちょ……待とう。ここは一旦落ち着こうよ。お互い」


「俺は落ち着いてます」


「いや、だって、そんな、されてから好きですって! 先にそういうことして私が断ったらどうすんの?」


「それってオッケーってことですか?」


「そんなこと言ってないよ!」


 その後、話は強引に隅に置かれた。


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